第15話 アーデンの森のエルフ達

 悟志は一眼レフカメラのファインダー越しに湖の対岸に広がる風景を眺望していた。煌めく翆玉色エメラルドグリーンの湖面と、その先の緑豊かな森林、天を衝く切り立った山々がまるで絵画のように美しい構図で収まっている。


「見て見て悟志君! すごく綺麗だよ」


 無憂の天蓋ペール・ヴェールがうっすらと輪郭を残す碧空へきくうの下、視界の端では、スマートフォンで景色を撮影することに夢中な美兎の小さな背中が忙しなく動いていた。当人はよりよい写真を撮ろうと試行錯誤しているだけなのだが、その直向きさとは裏腹に、どうしても小動物の愛くるしい動きに見えてしまい、思わず悟志は口元を緩めた。


「珍しいね、美兎が写真を撮りたいだなんて」


 振り返った美兎は、恥ずかしそうにはにかんだ。


「昨日、悟志君の写真を見たら元気が湧いてきたって言ったでしょ? だから私も撮ってみたくなったんだ。悟志君みたいに上手くは撮れないけど、少しでも梢の気分が晴れる写真が撮れればいいなって」


「どれどれ、ちょっと見せて……うん、すごく良く撮れてるよ」


「ありがとう。悟志君に褒めてもらえると自信がつく」


 それは僕も一緒だよ、と思わず言いかけて、悟志は照れ隠しの笑みを浮かべた。気恥ずかしさを紛らわせるために視線を漂わせると、向こう岸の山麓の一隅にぽっかりと黒い大きな洞窟がくり抜かれているのを見て取った。周囲には山肌を削り取って造った建物が見えたため、悟志は人工のものだと直感した。


 悟志の視線の先を美兎も追い、怪訝な表情を浮かべる。


「何だかちょっと不気味だね」


「そうだね。でも、テレビで見たペトラ遺跡に似てる気もする。ヨルダンの岩窟神殿」


「なら、テルマテルの宗教関連の建物かも」


「うーん……昨日、近くに大きな街も見えたし、少なくとも怖いものが住んでるような場所ではないと思うけど」


「なら、村の人に訊いてみたらどうかな? ほら、あそこに人が集まってるし」


 美兎の指し示す建物は湖岸沿いに広がっており、手前半分は木造、奥側半分は石造りだった。石壁の煙突からモクモクと煙を立ち上らせて、女性や子ども達が鈴生りに集まっているのは奥側の建物だった。二人は人だかりを目指してゆっくりと歩を進める。


 村人達の溌溂とした賑やかさに、美兎はつられるように笑顔を見せる。


「朝から元気いっぱいだね。みんなが待ってるのは……パンかな?」


「ここで焼き上げてるみたいだね。村共有の竈なんだと思う」


 建物に差し掛かると、手前の木造建築の扉が開き、湯気とともに、濡れた髪を結い上げたメーネが姿を現した。


「あ、メーネ! おはよう」


 美兎が声を掛けると、メーネは表情を緩めた。


「ミト、それにサトシも、おはようございます」


「謝るのが遅くなっちゃったけど、昨日は途中で出て行っちゃってごめんね」


「気にしないでください。私がもっと皆さんに配慮するべきでした。コズエの具合はいかがですか?」


「大丈夫。徐々に落ち着いてきてるから」


「それならよかった」


 昨夜あれだけの怒声を浴びせられても尚、嫌味もなく、心の底からメーネは梢を気に掛けている。その純粋な思いやりに、美兎はメーネに対して申し訳なさを感じた。


「……昨日はコズも動転してメーネに酷いこと言っちゃったけど、あれはあの子の本心じゃないんだ。許してほしいなんて虫のいい話かもしれないけど」


「いえ、コズエの言うことはもっともです。むしろ私が謝らなければなりません。皆さんを巻き込んでしまったのは私ですから」


「メーネの所為じゃないんだし、そんな風に思う必要ないよ。僕達だってメーネの力になりたいと思ってるんだ。その……戦うことは、まだ難しいかもしれないけど」


「ありがとう、サトシ。今はその気持ちだけで十分です。昨夜の私は強引に過ぎていました。テルマテルと皆さんの暮らしていた世界はあまりにも違う。戸惑いは察するに余りあります」


「……不思議だね。一晩しか経ってないのに、少し分かり合えた気がするよ」


「きっとユズキのおかげですね。彼女が皆さんについて多くを語ってくれたから」


「ゆーちゃんが?」


「はい。皆さん一人一人の人となりと、元の世界での暮らしのことを。私にテルマテルでの救世主としての使命があるように、皆さんにも元の世界で尽くすべき務めがある。心を許せる家族や友人がいて、思い描く未来もある。そのことを私は失念していました。テルマテルの事情を押し付けるだけでは、反発があって当然ですね。

 それでも、私は皆さんに共に戦うことをお願いし続けることしかできません。皆さんは私にとってだけでなく、このテルマテルの未来にとっても必要不可欠な存在ですから」


「……正直言うと、私はまだ考えることすらできないんだ。でも、でもね、メーネや村の人達から必要とされることはすごく嬉しいし、期待に応えたいって思う! だから、頑張るよ!」


 誰かに理解され、必要とされること。誰かを理解して、力を尽くしたいと思うこと――心が通じ合う嬉しさは、異世界人同士であろうと変わらない。三人は世界を越えて結ばれた友誼を実感して、笑い合った。


 打ち解けた雰囲気の中、美兎が興味津々といった態でメーネと湖沿いの建物を交互に見て尋ねた。


「最前から気になってたんだけど……メーネ、もしかしてお風呂上りだったりする?」


 しっとりと濡れた髪、長い睫毛に残る水滴、上気した頬、艶々しい血色の唇……湯上がりであることは誰の目にも明らかだったが、メーネは小首を傾げた。


「オフロ? ごめんなさい、存じ上げない言葉です」


「あ、そっか。ごめんね、えーと……何て言えばいいのかな。シャワーじゃないし、お湯に浸かるとか、かな」


「嗚呼――“オフロ”とは湯浴みのことなのですね。なら、ミトのお見込みのとおりです。どなたでも利用できるので、お二人もよろしければ」


「ホント? よかったぁ。実はお風呂に入れないかもしれないって覚悟してたんだ。しーちゃん達にも伝えてあげなくっちゃ!」


 美都は眼を輝かせた。対して悟志は仄かに赤面し、メーネから視線を逸らしていた。初心うぶな彼は湯上がりと聞いて唐突にメーネの姿を直視できなくなっていたのだった。


「そ、そうだ! メーネに訊きたいことがあって。あの洞窟と建物が何だか分かるかな?」


 メーネは悟志の指し示す対岸の洞窟と周囲の建造物に視線を向けた。


「あれは『スピッツベルゲン霊廟れいびょう』ですね」


「霊廟って亡くなった人を祀った建物のことだよね?」


「はい。歴代の救世主を祀る聖なる霊廟の一つで、テルマテルの人々にとって最も重要な宗教施設です。そして、いずれ私が赴かなければならない場所でもある」


「霊廟にいったい何が……」


 時折憂いを覗かせるメーネの眼差しに、美兎は一抹の不安を覚えた。

 

「その話は、『アーデンの森』へ着いてからお話ししようと思っています」


「アーデンの森?」


 首を傾げる悟志に、メーネが微笑を向ける。


「はい。エルフ達の暮らす神秘の森です」




 竹馬ナインとメーネの一行は、アミューネ村の外れにある森林の中を進んでいた。


「みんな酷いなぁ、起こしてくれたっていいのに」


 柚希は不満そうに唇を尖らせた。


「いやいや、起こすに起こせないでしょ、こんないい顔してたら」


 詩音がスマートフォンで盗み撮りした写真を見せつけると、柚希の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。


「何で寝顔撮ってるの!」


「何でって……玲士朗が欲しがるかと思って」


「えっ!? れ、玲士朗が……」


「すげぇ引いてるけど、もらい事故だぞ。俺を勝手に巻き込むな詩音」


「ごめんごめん。でも、本当に欲しかったらあげようか?」


「いらない」


「あの……本人目の前にしてその淡白な言い草もどうかなぁ。ちょっとは欲しがってあげなよ」


「そうだよ! 欲しがろうよ!」


「どっちなんだよお前は」


 闖入者の喧噪は森の住人達の平穏を大いに掻き乱していた。見慣れぬ身形みなりの人間達から距離を取ろうと慌てふためき、森の中は騒然としていた。


 森は進むごとに太古の昔そのままの様相を呈する原生林へと変貌していく。不気味ではなかったが、自分達のちっぽけさを思い知らされる存在感の大きさを持って密集する大木に、玲士朗達は誰もが畏敬の念をもって見上げずにはいられなかった。


「なんとか姫の森みたいだね」


 颯磨の軽口に、鷹介も便乗した。


「デカい猪に襲われたりしてな。メーネ、どうなんだ?」


「気性の荒い動物もいますが、この道はエルフによって加護が施されているので、心配は無用かと」


 詩音が感心して嘆息した。


「エルフってそういうこともできるのね。どういう人達なの?」


「私もまだ数回しかお会いしていないのですが、心根の優しい方達です。だからこそ、アミューネ村を護ってくれているのだと私は思っています」


 美兎が尋ねた。


「護るって、昨日のゴブリンから?」


「はい。他にも盗賊や傭兵、マリスティアといった数多くの脅威から。大きな街では職業として人々を守護する騎士や戦士がいますが、アミューネ村のような小さな集落ではそれも叶いません。自分達の身は自分達で守らなければならないんです」


 世知辛いわね、と梢が呟いた。詩音も考え込む素振りを見せた。


「でも不思議。メーネの話を聞く限りじゃ、他種族同士が親密に交流しているわけじゃないようだったし、特にエルフって孤高のイメージなのよね」


「そうですね。人間の多くの集落は固有の武力を従えた領主の庇護下にあって、安全保障を委譲しています。ただ、アミューネ村では稀有なことに、エルフと契約を結び互恵関係を結んでいる。縁あっての特異な事例ですが、それだけに貴重です。霊長の八種族が協力して共存できるという証左でもあるので」


 鷹介が疑問を口にした。


「でも、エルフってのはそんなに強いのか?」


「超常の事象や現象を人為的に再現する術――『魔術』と呼ばれる神秘の業を用います。また、決して標的を外さない弓や、刀剣を弾く繊維といったものを生み出す類稀な技術も持ち合わせているので、自衛の力は十分有していると言えます」


「なるほど、そりゃ村にとっちゃ頼りになるな」

 

「ええ。――皆さん、そろそろアーデンの森の入口に差し掛かります」


「え? この森がそうなんじゃないの?」


 柚希の問いに、メーネは苦笑した。


「ごめんなさい、説明不足でした。アーデンの森は実際の森のことではなく、エルフの生活圏の呼称なんです。ここから先がアーデンの森です」


 鬱蒼とした森から一変し、眩い木漏れ日が豊かに降り注ぐ開けた一隅に辿り着くと、小柄な二人の少女が行く手を阻むように佇立していた。一人は端正な顔立ちを強張らせ、腕組をしながら玲士朗達を睥睨へいげいしている。対照的にもう一人の少女は柔和な笑みを浮かべ、玲士朗達に軽く会釈をした。


「皆さん、お待ちしておりました。アーデンの森へようこそ。ここからは私シエラ・ジューノーとこちらのロザリー・ジューノーがご案内します」


 シエラと名乗る少女は、夜空色の瞳と色素の薄い髪を持ち、人懐こい笑顔を浮かべる、感じの良い雰囲気を纏っていた。その隣で未だ猜疑に満ちた眼差しを玲士朗達に向ける少女ロザリーは、柔らかに波打つ金糸のような金髪と紺碧色の瞳の持ち主で、感情を素直に表す一面が堂々として物怖じしない性格を思わせる。


 二人は翡翠色を基調としたドレスのような民族衣装を身に纏い、それぞれ耳全体を覆う耳飾りイヤーカフを付けていた。耳飾りイヤーカフは後ろに長く突き出ていて、玲士朗達の連想するいわゆる“エルフ耳”を彷彿とさせた。


 歳も背格好もほとんど変わらないと見受けられる二人のエルフは、内面的にはそうでもないらしく、玲士朗達への接し方はまるで正反対だった。ロザリーが険しい表情のまま、訝しむ口調でいう。


「……え、ちょっと待って。想像してたのと大分違う! 全然パッとしない人達が来た!」


「こらロザリー。失礼なこと言わない」


 シエラがやんわりとたしなめるが、ロザリーは尚もかまびすしく食い下がる。


「いやだってあの伝説の剣臣だよ!? なんかこう……常に体中が光り輝いているとか、座ったまま宙に浮いちゃってるとか、あり得ないくらい巨大な武器を持ってるとか、そういうの想像するでしょ!?」


 荒唐無稽な想像を熱弁するロザリーを一瞥すると、シエラは呆れたように溜息を吐く。


「皆さんごめんなさい。どうかお気になさらず。さ、こちらへどうぞ」


「ちょ、シエラ! 本当にこの人達案内していいの!? 人違いじゃないの!? ねぇったら!」


 シエラとロザリーの登場に当惑しながらも、彼女達の後に続いてメーネと剣臣の一行はアーデンの森へ足を踏み入れる。


「めっちゃディスられたね」


 相変わらず表情からは感情が読み取れない颯磨だったが、慣れない早起きで機嫌が悪いせいか、微かなイラつきを覚えているらしく目の奥は笑っていなかった。玲士朗はなだめるような口調でいった。


「まぁそう目くじらを立てるなって。慇懃にもてなされるよりは気が楽じゃんか」


「玲ちゃんはイジられて輝くタイプの人間だから、ぞんざいな扱いはむしろ望むところだよね。一個人としてのプライドが希薄で尊敬するよ」


「褒められている気がしないんだが……」


 それまで気を張っていた涼風が安堵の溜息を漏らした。


「話の通じる相手でちょっと安心した。彼女達、私達と同じ年くらいかしら?」


 玲士朗達の先頭を歩くメーネが柔らかな微笑と共に振り返る。


「エルフは長命故に成長も緩やかです。子どもといえども、彼女達は皆さんよりかなり年上かと」


「マジか……全然見えねぇな」


 鷹介は驚きながら、シエラとロザリーの後ろ姿を見比べた。背中が大きく開いたドレスから見える肌は、扇情的というより健康的な印象を与えたし、年若いというよりまだ幼いといった形容の方が似つかわしかった。


「でも、すごい美少女達だったね!」


 柚希は興奮して目を輝かせていた。詩音も同様に声を弾ませる。


「エルフ美形説は本当だったわね! しかもあのエルフ耳、アクセサリーとかめっちゃ可愛いじゃん!」


 美少女エルフの魅力について盛り上がる友人達を見やって、梢は呆れた態で小さく呟いた。


「……呑気な人達」

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