第4話 異世界転移

 彼らは夢を見ていた。


 夢には終わりの予感がある。気づいてしまえば持たざるを得ない、諦観に似た確信。あやふやに揺蕩たゆたう意識であろうとも、彼らは本能的にその気配を感じ取っていた。もうすぐ、この夢から醒めるのだと。


 ――しかし、夢から醒めた先にあるのは、果たしてあの平穏な世界だろうか。


 変わり映えしない平和な日常。明日も、その先にある未来も、当たり前のように待ち侘びることができる日々。そこにあることが当然すぎて、気にも留めなかった幸福。


 それは例えば、家族との何気ない食卓や友人とのありふれた会話、学校、社会、平和な国の平穏な暮らし。


 ――思えばそれこそ、心地よい夢ではなかったのか。


 疑念は不安を呼び、やがて得体のしれない恐怖となって、容赦なく彼らを追い込んでいく。


 これまで信じて疑わなかった日常がたちまち色を失っていく。始まりであるが故に、あらゆる行動の原点であり、境界であり、終着である立脚点が輪郭を失っていく。


 ――自分達はどこから来て、どこへ向かうつもりだったのか。


 歩き方を考え出したら、足がもつれて死んでしまったムカデの寓話のように、彼らは進み方も戻り方も分からなくなってしまった。だから、慄然として立ち竦むことしかできなかった。


 気付いてしまったからこそ、知ってしまったからこそ、これまでの自分達とは違う何者かになってしまったのだと、彼らは強烈な喪失感に苛まれる。無くしてしまったものが何であるかも忘却して、ただ責め立てるような強迫観念のみが彼らの焦燥を煽る。


 夢の終わりは間近だった。長く閉じられていた双眸そうぼうは開かれ、その眼差しは常に何かを諦めることを強いるだろう。自閉的な万能空間から外に出て、世界と対峙する者は、己の限界と無力を知り、世界の無慈悲と不誠実に打ちひしがれる宿命にあるのだから。


 ――心地よい夢ならば、いっそ醒めなければいいのに。


 その願いはただ虚しいばかりだった。昇った日が沈むように、彼らの思いなど意に介することなく夢は終わりに向かっていく。


 幕引きは呆気なく、劇的でもなく、終わりゆく余韻すらない。そして息継ぐ暇もなく、新たな舞台の幕が切って落とされるのだった。




 玲士朗が意識を取り戻すと、視界には夜闇に浮かび上がる幼馴染達の背中、そして緩やかな坂と両脇に林立する樹木が飛び込んできた。つい最前まで目の当たりにしていた光景に、玲士朗は思わず安堵した。


(夢を、見ていた気がする……)


 玲士朗は胡乱うろんな記憶を反芻はんすうしようとする。恐らくはたった数秒の出来事でしかなかったはずだが、長い間、意識が身体を離れて彷徨っていたかのような気味の悪さがあった。心なしか、自分の身体なのに思うように動かせない不自由さすら感じる。


 記憶は明瞭はっきりと思い出すことはできなかったが、ふつふつと湧き起こり始めた空恐ろしさに玲士朗は悪寒を感じた。それは心持ちからくる背筋の寒さだけでなく、いつの間にか濃く、深くなった暗闇と冷たくなった夜気の所為でもある。


 自分はまったく変わっていないのに、ほんの一瞬で、外界の印象がまるで異なってしまっている。これではまるで浦島太郎状態である。


 混乱しながらも、玲士朗は右手に感じる温かな重みに気づいて、恐る恐る視線を転じる。そこには玲士朗の腕にしっかりと抱きつき、両眼をきつく閉じて身体を震わせる柚希の姿があった。


 普段は見せない幼馴染のか弱さに、玲士朗は奇しくも平静を取り戻しつつあった。柚希を少しでも早く安心させてやらなければという思いが、彼の精神を律する原動力だった。


「おい柚希、何やってる」


 言葉の割に穏やかな玲士朗の呼び掛けに、柚希は恐る恐る目を開ける。玲士朗の姿を認めて安堵の笑みを浮かべるのも束の間、密着させていた身体をパッと離して、周章狼狽しながら弁解した。


「こ、これはそのぉ……しがみつく丁度いいものが近くになくて……それだけだから!」


「そうかい。俺の腕は安全バーじゃないんだけどな」


「わ、わかってるよ。神隠しに遭うとかいう話だったから、もしものときは玲士朗も一緒にと思って」


「道連れにする気だったのか、恐ろしい女だな」


「言い方が良くないなぁ。えーと……アレ、なんて言うんだっけ。一円かよちくしょう! みたいな発音のアレだよ」


「……一蓮托生?」


「それ!」


「バカ丸出しだな」


「バ、バカじゃないもん! どうして玲士朗はいつもそういう言い方しか出来ないのかなぁ。かわいそうだなぁ柚希ちゃんが」


「はいはい、すみませんね口が悪くて。そんなことより――みんな、大丈夫か?」


 誰もが呆然と立ち尽くしながら、玲士朗の言葉にぎこちない動きで振り返る。最前まで楽しげだった雰囲気が一転し、各々人が変わったように放心した面持ちではあったが、はぐれた者も怪我をした者もいなかった。


 柚希は幼馴染達のもとへ歩き出しながら、不安そうに呟く。


「ねぇ、最前の光る蝶々、何だったんだろう。あれを見た所為かな、何だか急に寒気もして……玲士朗?」


 立ち止まって足元を注視する玲士郎に、柚希は当惑した。颯磨が玲士朗の様子を窺う。


「玲ちゃん、どうかした?」


「……なぁ、この坂って、アスファルトだったよな?」


 玲士朗の指摘に、誰もが視線を落とし、息を呑んだ。坂道は舗装されておらず、剥き出しの乾燥した大地に見たこともない草花が生い茂っていた。


「それに、街灯もない」


 夜道を照らしていたはずの街灯も見当たらない。それでも不自由さを感じなかったのは、茂った木の葉の間から差し込む月光の眩い明るさがあったからだ。


 慣れ親しんだ世界が一瞬にして変貌してしまった不気味さに誰もが言葉を失った。


「……怪談は本当かもな」


 スマートフォンを操作しながら事も無げに放言する鷹介に、梢が食って掛かる。


「か、神隠しなんてある訳ないでしょ!」


「そう思いたいが、見たこともない蝶の大群に囲まれて、気が付けばどうやら最前までいた場所とはまったく別の場所。しかもお約束のようにスマホも圏外ときてる。ちょっと普通じゃ考えられない状況だろ」


 梢は言葉に詰まった。慌ててスマートフォンを取り出し、表示される画面を確認して唇を噛んだ。冷静な鷹介を恨めしそうに睨む。


 詩音が剣呑な雰囲気に割って入った。


「とりあえず、坂を抜けてみない? おかしなことはいっぱいあるけど、まずは状況を把握しないと」


 詩音の提案をれて、一同は恐る恐る歩き出す。誰もが口を閉ざし、不安を精一杯かわし続けていた。意識はそのことばかりに腐心してしまい、足取りは緩慢で機械的だった。


 坂を抜けると、開けた小高い丘に出た。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれていて、重く、垂れこめた闇が奥へ行けば行くほど濃くなっていくのが見て取れる。


 初めて訪れた場所なのに、どこか見覚えのある光景に玲士朗の心臓は跳ね上がる。この丘は、あの少女の佇んでいた丘に違いない。だが、辺りを見回しても、一際強い存在感を放っていた彼女の姿は見当たらない。やはりあれは幻覚だったのかと、釈然としない気持ちが不安をさらに掻き立てる。


 一同は丘陵から眼下を眺める。ところどころ切り開かれた林の先に、小振りで平屋の木造家屋が点在しているのを確認できた。人の気配はあるが規模は小さく、数十人程度が暮らす集落といった雰囲気だ。


 松明だろうか――ゆらゆらと明滅するオレンジ色の灯りがいくつか見て取れた。集落に接するように広大な湖もある。穏やかな水面に月の鏡像が浮かび、月光を反射して碧く輝いている。


 眼下を一望した美兎は、落胆とともに呟く。


「やっぱり、私達の街……じゃないね」


「神隠し確定だな」


 鷹介が無情に言い放ち、一同は戸惑いの声を上げる。しかし、鷹介は楽観的だった。


「まぁ別に死んだわけじゃない。状況が分かっただけでも一歩前進だ」


 カメラのファインダー越しに集落を遠望していた悟志は、沈鬱な表情でボソリと呟く。


「僕達、帰れるのかな」


「人はいるみたいだし、ここが日本ならすぐに帰れるよ」


 颯磨は気軽な調子だったが、悟志の不安は募るばかりだった。


「もし、日本じゃなかったら?」


「うーん……時間はかかるかもね。まずは日本大使館と連絡をつけるところから始めないと」


 大きな溜め息を吐きながら、涼風が懸念を口にする。


「でも、日本にしろ外国にしろ、神隠しに遭ったなんて話、到底信じてくれないでしょうね」


 詩音も眉間に皺を寄せて考え込んだ。


「鼻で笑われるか、心の病を疑われるか……まぁ今悩んだって仕方のないことなんだけど」


「とにかく、早く下の人達に事情を説明しましょうよ」


 性急に丘を下ろうとする梢を、柚希が制止した。


「ねぇ梢、待って」


「何よ柚希。私、早く家に帰りたい――」


「空に、カーテンがある」


 呆然と頭上を見上げる柚希の視線の先を幼馴染達も一斉に追った。深い群青色の夜空には、散りばめられた宝石のように月と星々が煌々と輝くだけでなく、月光を浴びて蒼白くぼんやりと光を反射する天幕のようなものが張り巡らされていた。


 その美しくも夢のような光景を見て、詩音が訝しむ。


「オーロラに似てるけど、テレビで見たのと大分違う……」


 誰もがその幻想的な絶佳ぜっかに魅了され、同時に胸騒ぎも感じていた。この世のものとは思えない耽美な夜空のカーテンは、光り輝く蝶の大群と同様、理解し難い不可思議な現象が起きる前触れではないか、と。

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