第5話 メーネとの邂逅、ゴブリンとの遭遇

 一同が押し黙る中、その憂慮は澄み透った 鶯舌おうぜつの形で現れる。


「あれは『無憂の天蓋ペール・ヴェール』。この『テルマテル』を護りたいと願う心が形を成したものです」


 玲士朗達はぎょっとして背後を振り返った。


 そこには、玲士朗達と年端の変わらないであろう少女がいつの間にか佇立していた。束ねられた白金の長い髪、雪肌に明るい聖鳥卵色ロビンズエッグブルーの大きな瞳が 陶器人形ビスクドールのような美しさを讃えている。 肢体からだの線に沿った、どこか東洋を思わせる意匠の濃い色の長服に身を包み、楚々とした雰囲気を纏っている。


 終ぞ目にしたことのない容姿の少女に、玲士朗達は絶句していた。


『不気味の谷』という現象がある。人ではない存在を人の容姿に近づければ近づけるほど、親近感は強くなる一方で、ある一定の度合いに達すると、逆の方向に感情を振り切れさせる。高まった好意は一転して違和感や不自然さをもたらすのだ。


 少女の印象はこれに近かったかもしれない。紛う事なき人ではあるが、その美しさ、挙措動作、身に纏う雰囲気、表情、瞳の輝き、全てが。美を愛でない者はいないが、神が細部に宿り、神韻縹渺しんいんひょうびょうを現出させた人型をいざ目の前にしたとき、恐らく誰もが玲士朗達と同じ印象を覚えるに違いない。


 少女は凛とした所作で歩み寄る。優雅な足取りは、まるで地に足がついていないかのように軽やかだった。


 吸い込まれるほど深い色の瞳が玲士朗達を正面から見据える。長い間、疎遠になっていた友人と再会できたことを喜ぶような、一方で何かを詫びるような、愛しさと憂いの混じった視線。


 玲士朗はようやく思い至る。目の前の少女こそ、この丘陵で寂しげな背中を見せていた少女に違いない、と。あの光景は幻覚や妄想ではなく、現実だったことに胸のつかえが一つだけ下りた心地がした。


 幼馴染達が未だ少女に対して警戒心を抱く中、玲士朗は穏やかな口調で話しかける。


「テルマテルって言葉に聞き馴染みがないんだけど、この土地の名前か何かか?」


 少女は表情一つ変えずに答える。


「テルマテルはこの星の名前。この世界は、あなた達が暮らしていた世界とは別の世界」


 少女の言葉を、玲士朗達は俄には受け入れられなかった。劇的でもなく、悲壮感もなく、自然な口振りから語られた所為もある。戸惑いによる静かなざわめきの中、梢が呆れた様子で大きく溜息を吐いてみせる。


「酷い冗談。悪ふざけに付き合っている暇はないの。早く行きましょう」


 踵を返そうとする梢を、詩音が呼び止める。


「ちょっと待ちなさい梢。見切りをつけるにはちょっと早いんじゃない?」


「詩音……まさか、まともに取り合うつもり?」


「話を最後まで聞きたいだけ。判断するのはそれからでも遅くないでしょ」


 詩音は少女に向き直った。


「名前、訊いてもいい? 言葉は通じてるのよね?」


 少女はゆっくりと首肯する。


「メーネといいます」


「メーネ、か。綺麗な名前ね。私は椋木詩音」


「クラ……キシオン?」


「椋木が家系を表す言葉で、詩音が名前。分かる?」


「……嗚呼、なるほど。理解しました。ありがとうございます、シオン」


 初めて見せるメーネの純真な笑みと謝辞に、詩音も自然と表情を綻ばせる。


「で、このテルマテルは、私達が住んでいた日本とは別の国……じゃなくて、別の世界なのよね?」


「はい。といっても、すぐには受け入れられないと思いますが」


「まったくだ。少なくとも、別世界の人間同士だっていうなら、こうやって都合よく言葉が通じているっていうのは、ちょっと納得し難いな。俺達の世界じゃ、外国人は大抵異なる言語を持っていて、一朝一夕でここまでの意思疎通はできない」


 皮肉めいた鷹介の言葉に、しかしメーネは平静を失わない。


「もっともな疑念だと思います。しかし、残念ながら明確な回答を持ち合わせていません。ただ、皆さんは来るべくしてこのテルマテルへやって来ました。決して偶然ではない。そのことが関係していると私は考えています」


 颯磨もメーネに問いかけた。


「偶然ではないって、どういうこと?」


「皆さんは望まれてここへやって来たんです。この世界――テルマテルに」


 メーネの意思深な発言に対して、皆一様に眉を顰めた。ここが極東の島国ではなく、見知らぬ土地であることは認めざるを得ないが、星自身に自我があるという考えは、彼らにとっては荒唐無稽な言説でしかなかったし、あまつさえ、そのような霊的な存在が現実世界の摂理に干渉して超常現象を引き起こしたなどという説明は、とても受容できるものではなかった。


 目にするもの、耳にするもの全てが玲士朗達の現実感覚からかけ離れ過ぎていて、誰もが言葉を失う中、じっとりと粘つくような視線を背後から感じた悟志は身体を弾かせて振り返る。薄気味悪い何かに怯えるような悟志の表情を見て、一同は不安とともに彼の視線の先に目を凝らす。


 重苦しい闇に飲み込まれた木々の合間に潜み、玲士朗達の様子を窺いながら徐々に近づく何者かの気配がある。単独ではなく、複数だ。


 獣にはない、人特有の悪意が充満していた。本能的な欲求を満たすための生存行動ではなく、恨みや憎しみ、嗜虐、征服欲といった飽くなき欲望を満たさんがための衝動。ここまで露骨な邪悪さを、玲士朗達は体感したことはなかった。それ故に、彼らの身体は恐怖に戦慄し切って硬直した。


 メーネが苦々しく呟く。


「――ゴブリンが来ます」


 かろうじて視認できる木々の合間の黒闇こくあんから、複数の人影がぬらりと這い出し、月明かりの下に不気味な姿を現した。


 粗末な衣服を身に着けた濃灰色の体躯は幼子のように低く小柄で、体格と不釣り合いな長い耳と大きな両腕を持っていた。爛々と妖しい光を放つ朱い瞳、頬まで裂けた口から覗く獰悪どうあくな牙、血を吸って赤黒く変色するナイフのような爪は、見る者に本能的な防衛機制と恐怖心を強烈に励起させる。


 ざっと数十はいるであろう異形の存在を目の当たりして、涼風は端正な顔を恐怖に歪めた。


「何、あれ……」


「あれがゴブリンです。ここは彼らの生活圏ではないので、恐らく集落を追放された小集団が野盗化したのでしょう」


 メーネは表情一つ変えない。この異世界で生きる彼女にとって、ゴブリンのような存在はさして大したことではないらしい。だが、つい今し方、異世界転移に巻き込まれ、理解も追いつかぬまま見ず知らずの土地に放り出された高校生達にとっては未知との遭遇である。明らかに好戦的な容貌と意気を見せるゴブリン達と対峙して、梢は恐怖と嫌悪も露に震えた声を絞り出す。


「野盗って……化け物じゃない」


「いいえ、彼らは皆さんと同じ人類です。同じ祖から分かれた霊長の八種族の一。ただし、他の種族と共存を望まない人類秩序の乖乱かいらん者でもありますが」


 敵意を持って立ちはだかるゴブリンの姿をまじまじと見つめて、颯磨は緊張のあまり生唾を呑みこんだ。


「話が通じる相手じゃなさそうだね」


「残念ながら」


 試みることすら無益であるとメーネは諦観する。それを裏付けるように――否、この世界にやってきたばかりの玲士朗達に、残酷な現実と絶望を叩きつけるように、ゴブリン達の目的が彼ら自身によって声高らかに宣言される。


「見たゾ見たゾ。奴ら、次元を渡ってキタ」


「伝承どおりダ。創造主バラル神に弓引く涜神とくしんの輩。奴らを皆殺しにして、神への忠節を果たすノダ。さすれば我らは歓呼とともに再び里へ迎え入れられル」


「何たる僥倖ぎょうこう! 天啓てんけいはここに示されタ! 我らが神の御胸みむねを遂行せヨ!」


 哄笑こうしょうとも咆哮ともつかない耳障りな歓声がどっと沸き起こり、地鳴りが辺り一帯を震わせる。


 玲士朗は全身の皮膚があわ立つのを感じた。未だかつて体感したことのない悪意と殺意の猛毒に当てられて、意識は過剰な拒否反応を示す。


 恐怖に慄く柚希は、思わず玲士朗の右腕に強くしがみ付いた。だが玲士朗も柚希を気遣う余力はなく、勝鬨かちどきを上げんばかりのゴブリン達の狂騒から視線を逸らすこともできない。


 興奮冷めやらぬまま、ゴブリン達は各々が得物を構え出す。鉄剣をはじめ石斧せきふいしゆみといった武器は、そのどれもが刃こぼれや欠損変形を来し、これまで数限りなく繰り返された蹂躙と虐殺の歴史を暗に物語っている。


 ゴブリンの一人が獲物を品定めするように不気味な視線で玲士朗達を嘗め回し、怯えて腰を抜かす梢を凝眸ぎょうぼうする。


「女ダ女ダ。弱くて愚かな人間の女……死ぬまで何度も犯して、魂を浄化し、バラル神への供物に捧げてヤルゾ」


 ひ、と短い悲鳴を上げ、梢は瑞々しい肌を一瞬で蒼白に染め上げてしまう。


「い、嫌……嫌ァ!」


 目の前の現実を拒絶するかのようにしきりに頭を振って、梢は一心不乱にその場から走り出す。


「梢! ダメよそっちは――!」


 涼風の制止の声も振り切って、恐慌状態パニックに陥った梢は高低差の激しい丘の端で足を踏み外してしまう。あわやそのまま落下してしまうところを、鷹介が間一髪追いついて、梢の腕を掴み引っ張り上げる。


「まったく、本当に世話が焼ける!」


 苛立ちを隠すことなく吐き捨てながらも、鷹介はしっかりと梢を抱き留めた。腕の中におさまる梢は、華奢な身体を大きく震わせ、言葉にならない何事かを必死に訴えていた。きつく閉じられた両眼からはボロボロと大粒の涙が溢れ出し、息が止まってしまうかのような息遣いに苦しんでいる。その憐れな姿を目の当たりにして、梢に対する鷹介の苛立ちは、彼女を恐慌の断崖にまで追い込んだゴブリン達への義憤に変わっていた。


「皆さん、私の側へ!」


 メーネの叫びが一帯に響き渡る。


 高校生達は瞬時に敵味方の区別を把握したわけではない。だが、如実な敵対行動を取るゴブリンの登場は、否応なくその去就を決断させた。ゴブリンに対抗する術も、この場から逃げ出す方法も持ち合わせていない九人は、メーネの傍らへ身を寄せ合うように集合する。


「し、しーちゃん……私達、助かるのかな」


 不安と恐怖で声が震える美兎を励ますように、詩音は努めて威勢の良い口調で放言する。


「大丈夫、ゴブリンなんて雑魚キャラの代名詞みたいなもんよ。心配しないで」


 悟志は狼狽し、上擦った声を上げる。


「ゲ、ゲームの話だろそれは」


「気概だけでも強く持ちなさい。それに、メーネには何か考えがあるみたい。とにかく信じましょう」


 生来面倒見のよい性格の詩音は、怯える美兎と悟志の手前、強がって見せたものの、少年少女を蹂躙する愉悦に浸る醜悪なゴブリン達の顔貌は、彼女の良く知るゲームのそれとはまったく受け取る印象が異なる。


 生々しい残忍さ、冷酷さ、邪悪さ。一片の躊躇も容赦もない悪逆な害意を前にして、自分達の勝機など皆無としか思えなかった。詩音は悔しさに歯噛みした。


 獲物達が一か所に集結したのを認めて、ゴブリン達も数による物量で押し潰す戦法に出た。大地を震わせんばかりの喊声を上げて一斉に突進するゴブリン達の前に、メーネが立ち塞がる。


 誰もが心許ない視線でメーネの華奢な背中を見つめていた。その不安を感じ取ったのか、メーネは精悍な顔つきで背後の玲士朗達を振り返る。


「私から離れないで。必ず護ってみせます」


 破城槌と化したゴブリンの集団から三人のゴブリンが突出し、鉈と片手剣をメーネ目掛けて振り下ろす。メーネは怯むことなく、ゴブリン達の嗜虐に歪んだ醜悪な嗤笑ししょうを睨め付けていた。


 メーネの戦意に応えるように、彼女の周囲から瞳の色と同じ粒子が溢れ出し、弧を描いて後光のように滞留する。後光は形を変えて、メーネを護らんとする数条の光の帯となって折り重なり、防壁を形成してゴブリン達の攻撃を阻む。防壁と剣戟けんげきの力が衝突することによって生み出されたエネルギーは黄金色の光条に変換されて雲散霧消し、跳ね返る衝撃波はゴブリン達を遥か後方へ吹き飛ばす。怯んだゴブリンの集団はたたらを踏み、突進を停止させた。


「――綺麗」


 夜闇に映える鮮やかな光の帯を陶然とうぜんとした眼差しで見つめながら、柚希は戦場では場違いな感嘆の声を漏らす。


 傍らの玲士朗だけでなく、この場の誰もが息を呑んで、メーネが織り成す神秘的な光景に心奪われていた。それは、恐怖と不安から一時でも解放された安らぎの心地良さでもあった。


 だが、ゴブリン達はそんな感動も共有しない。一時的な行軍中止も、単にメーネを攻めあぐねたに過ぎない。彼らの美意識は、鮮烈な紅い血飛沫と、体液でぬらぬらと艶やかに照る臓物をこそ欲していたのだから。


 一度は当惑を見せたゴブリン達だったが、さらに無謀な突進を繰り返す。回り込んだゴブリン達は四方から襲いかかり、狂気に満ちた醜悪な笑みを浮かべながら防壁に肉薄し、弾かれては吹き飛ばされていく。


 異常な多幸感の中で自らが傷つくを厭わず、信ずるものに殉ずるためならば自他の命をも顧みないその身勝手さに、高校生達は細胞の内側から沸き起こる惨慄さんりつを感じずにはいられなかった。盲信とは、願望と思考停止の不幸な婚姻である。その幻想を共有できない他者にとっては嫌悪と拒絶の対象でしかない。


 決定的に、或いは根源的に相容れない忌敵いみてきであるゴブリン達の猛攻を前にして、しかしメーネの意識は散漫気味だった。時折、聖鳥卵色ロビンズエッグブルーの瞳が小さく揺らぐ。


「――彼女は、私達を試そうとしているのですね」


 憂いを帯びた独白も、戦陣の喧囂けんごうに掻き消される。


 何度目かの特攻が敢行された時、戦況は変化の兆しを見せる。


 メーネは迂闊だった。古来より、鉄壁の防御とは正面から破られるのではなく、内側から瓦解させられるものであったのだから。


 メーネの足元が不自然に蠕動ぜんどうしたかと思うと、やにわに地面を割いてゴブリンが飛び出してくる。鋭利な爪がメーネの腹部を串刺しにせんと突き上げられたが、滞留していた粒子が即座に防壁を展開し、ゴブリンの爪は弾かれた勢いそのままに粉砕される。それどころか、メーネの懐深く侵入したゴブリンは、光の帯の逆鱗に触れて宙高く吹き飛ばされ、地面に強く叩きつけられる。危局は何とか過ぎ去ったかに見えた。


 しかし、意表を突かれたメーネは体勢を崩し、平衡感覚を失っていた。空を仰いで倒れ込むメーネを玲士朗と柚希が慌てて抱き抱える。


 意識の集中が途切れ、玲士朗達を守護していた防壁が音もなく消失していく。もはや彼らとゴブリン達の間に障害はなく、殺意を遮断する何物も存在しえない。ゴブリン達は勝利を確信して、狂喜とともに飛び掛かかる。

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