第15話 恋
テーブルの真ん中には大皿に山盛りの餃子が置かれ、各席には炒飯と小皿が置かれている。例によってスサノオの分の炒飯だけはラーメン用の丼に大盛りであった。
「あたし、餃子はパス」
ハヤヒノはげんなりした顔で席についた。
「私も」
トリフネも右に倣った。
「何言ってんだい、疲れた身体にはニンニクとニラが効くんだよ。文句言わずに食べな」
寮母の言葉に、ハヤヒノはむっとした顔で言い返す。
「だって臭いよ。人前に出られない」
「出なきゃいいだろ、明日は土曜日だ、学校も休みだし少々臭くったって困りゃしないよ」
「出動かかるかもしれないじゃん、臭いって笑われるの、あたしらなんだよ」
「俺平気」
「俺も」
ミカヅチとフツヌシはひょいひょいと餃子を小皿に取って行く。
「まあ、ちょっとくらいなら大丈夫だよ」
ノコヤネも遠慮がちに餃子に手を伸ばす。ナビコナも当たり前の表情で餃子を取る。スサノオはもう言わずもがな。まったくうちの男どもは、と言わんばかりにハヤヒノは溜息をつく。それを横目に、ツクヨミが餃子を取り始めた。続いてコトシロも。そして日美子が喜々として小皿を持ち上げたのを見て、
「やっぱちょっとだけ」
とトリフネまで言い出した。
「意地張ってないで、あんたも食いな」
寮母に言われて、それでも、
「あたしはいいの」
そう言って、ハヤヒノは炒飯を口に詰め込んだ。
月は雲間に隠れている。星明りもない夜の闇。皿に残った最後の餃子と、中華鍋に残った最後の炒飯をたいらげた後、スサノオは真っ直ぐ屋上にやって来た。闇の中、眼を凝らす。物干し台が立っているのが薄ぼんやりと見える。そこに向かってスサノオは速足で近付き、鼻先が物干し台と当たる寸前、身をかわした。そして振り返りざま手刀を繰り出し、それを物干し台に当たる寸前に止める。前蹴りを上、中、下段と三発、次いで回し蹴りをそれぞれ物干し台に当たらないように放つ。ナイフを抜き、突く、突く、突く、斬り下げ、斬り上げ、逆手に持ち、振り下ろしたとき、階段の扉が開き声がした。
「なーにやってるの」
階段の明かりを背に、逆光ではあったが、呆れ返っているハヤヒノの顔が、スサノオの眼にははっきり見えた。
「食後の運動? にしちゃ物騒よね」
「動けるときに動いておかなければならない」
スサノオは息切れ一つなく、静かに答えた。
「あんたそんだけ鍛えといて、まだ足りないわけ」
「筋肉がいくらあっても、それだけでは意味がない。身体を自由に動かす為にはそれ用の神経回路が脳内に必要だ。そして神経細胞を結合させる為には、反復練習が欠かせない」
「あらまあ随分と論理的でございますこと」
「論理的に考えるように教育されている」
実験体M8号。ハヤヒノは嫌な言葉を思い出した。スサノオにとって教育とは如何なる意味を持つのだろう。彼を『教育』した人々は、何を思って『教育』したのだろうか。ハヤヒノは心がやるせない悲しみで溢れるのを感じた。
「どうした」
スサノオは不思議そうな顔でハヤヒノを見つめた。
「どうもしないわよ。あんたが嫌味を理解しないから、おかしな話になるんじゃない」
「そうか、嫌味だったのか。経験がないから判断できなかった」
「まったく。あんたと話してると調子狂うのよ」
「すまない」
ハヤヒノは疲れたのか、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。
「ねえ、聞いていい」
「何だ」
「興味本位だけど」
「構わない」
「半日食べなかったら餓死するって有銘ちゃん言ってたけど、あれ本当なの」
「試した事はないが、おそらく本当だ」
「どうしてそんな事になるの」
「ミオスタチンというタンパク質を知っているか」
「聞いた事ない」
「簡単に言えば筋肉を分解するタンパク質だ。血中のミオスタチン濃度が高ければ、鍛えても筋肉は成長しない。逆に低ければ、軽いトレーニングでも筋肉は成長する。俺はこのミオスタチンを生成する遺伝子が、生まれつき欠損している。いや、正確には意図的に欠損した状態で誕生させられた。つまり体内にミオスタチンがない。だから鍛えなくとも筋肉が勝手に成長し、常にタンパク質や糖質を身体が要求する。その要求に見合うだけの物を身体に取り入れなければ餓死する。そういう理屈だ」
「その為に八時間も食べ続けなきゃいけないっていうの」
「今のところは、八時間だ」
「どういう意味」
「子供の頃はもっと短い時間で済んでいた。身体が大きくなるほど、食事の時間も増えた。いずれ一日中食べ続けても足りなくなる日が来るだろう。そうなれば、俺は餓死するしかない。つまり自分の身体に食い殺される事になる」
「だったらトレーニングなんかしちゃ駄目じゃない。寿命が縮まるんだよ」
「どうせ鍛えなくとも筋肉は発達する。そして鍛えなければ間違いなく弱くなる。それでは意味がない」
「意味って何よ」
ハヤヒノは立ち上がった。
「生きる事以上に意味のある事なんかある訳ないでしょう」
「かもしれない」
スサノオはうなずいた。
「だが俺はまだ自分に限界を設定したくはない。できる事はやっておきたい。可能ならば全て。今のうちに」
「ば」
馬鹿じゃないの、そう言いかけてハヤヒノは口を噤んだ。スサノオは何もおかしな事は言っていない。どちらがおかしいかと言えば、突っかかろうとする自分の方がおかしいのだ。
「……ごめん、あたし、やっぱ変だよね」
「いや、別に変だとは思わないが」
「あの、さ。あんたの眼から見て、あたしってどう思う」
やはり、ただの良い子に見えるのだろうか。それともスサノオの眼ならば、もしかしたら、その裏にある薄汚い部分まで見えてしまうのだろうか。
「抱きたい」
だからスサノオの返事は、最初全く意味が分からなかった。
「……え?」
「抱きたいと思ってる」
「いや、えっと、私の事だよ?」
「そうだ」
「だから、あの、冗談、だよね」
「嘘を吐くなと教育されている」
ここに来て、ハヤヒノの全身の血液は噴流の如く頭部へと移動した。顔が燃え出さんばかりに熱い。耳の奥に轟轟と音を立てて血流が走り、頭がくらくらした。
「ば……ば……ば、馬っ鹿じゃないの!」
それだけ言うのが精いっぱい。よろよろと背を向けると、力なくドアにもたれかかる。そしてジタバタしながら何とかドアを開け、階段へと逃げ込んだ。フラフラの状態で部屋に戻ると、ついには熱を出して寝込んでしまったのだった。
結局その夜は出動は無く、土日も何事も起きなかった。週末らしい週末を過ごせて神童の皆は上機嫌――寝込んでいた者もいたが――だった。ただ、雨野有銘特務審議官が顔を見せなかった事を苛立たしく思っている者が一名いたのを除けば。
ノコヤネは親の顔を知らない。だがそれ自体は神童の中では珍しい事ではなかった。神童のメンバーは、スサノオを除いて基本、児童養護施設から迎えられている。施設に入所する子供の最大の入所理由は親による虐待らしいが、神童の中でその過去を持つのはツクヨミだけだ。他は親に死別したか、生まれてすぐ捨てられたか。ノコヤネは後者だった。
とはいえ、どちらにせよ親の顔を覚えていない点では同じである。いや、なまじ親が生きている事を知っていただけ、生殺し感はあったかもしれない。実の親がいつか迎えに来てくれるかもしれない、という淡い期待をどうにか捨て去れたのは、神童に入った後の事。
そんな親の愛情に飢えて育ったノコヤネが、母親ほどにとまでは行かないものの、年の離れた有銘に寄せる好意は、何らかのコンプレックスの対象としてのものであったのかもしれない。しかし本人にその自覚はない。その身の内にあると自身が信じているものは、純粋な恋愛感情であった。
有銘はもう三日、寮に姿を見せていない。何かあったのではあるまいか、ノコヤネは不安を掻き立てられたが、実際に何かあったのなら、少なくとも日美子には連絡がありそうなものである。と言うか、日美子はまだ研修期間中のはずだ。有銘の側に付いていなくて良いのかと思うのだけれど、当人はまるで気にならないらしく、休日を満喫している。「審議官どうしたんでしょうね」と水を向けても、「きっと忙しいのよ」としか返ってこない。いや、より正確に言うなら、「きっと忙しいのよ」と言いながら意味深な笑顔を浮かべる、なのだが。その笑顔の意味は何だと問い質したい気にもなるものの、心当たりがあり過ぎるので、藪をつついて蛇を出すような真似はやめておいた。
それにつけても有銘が心配である。いっそ歩兵竜が現れてくれれば、と不謹慎な事を思わなくもない。そうすれば間違いなく有銘と会えるのに、と。まるで有銘と自分が織姫と彦星の如く間を引き裂かれた恋人同士であるかのように思えてくる。
だがそこまで妄想すると、さすがに少し冷静になる。そもそも自分はまだ有銘に告白すらしていないのだ。告白。嗚呼告白。いつか自分にもできるのだろうか。そんな勇気が湧くのだろうか。日曜の夜、ノコヤネは部屋で一人頭を抱えて悶々と過ごした。
翌朝、ノコヤネが食堂に降りると、ちょうど日美子が立ち上がったところだった。
「あ、ノコヤネくんおはよう」
「おはようございます。もう出かけるんですか」
「うん、雨野審議官から電話があって、ちょっと早めに出てくれって事だったから」
ああ、良かった。やはり無事だったんだ。安堵するノコヤネの前を日美子は通り過ぎて行った。
「じゃ、行ってきまーす」
玄関に向かう日美子を見送るノコヤネに、寮母が声をかける。
「何ニヤニヤ突っ立ってるんだい、さっさと席に着きな」
ノコヤネは慌てて椅子に座った。しかし頬が緩みっぱなしである。顔を両手で擦ってみたが、あまり効果はないようだ。
「キモい」
ハヤヒノがコーヒーを飲みながら眉間に皺を寄せている。
「何だよ、そんな言い方しなくてもいいだろ」
本人は至って真面目に抗議しているのだが、言ってるそばから顔がにやけてしまう。
「うわ、駄目だこりゃ」
「重症だ、重症」
フツヌシとミカヅチがトーストを手に呆れ返る。いけない、これはいけない。今からこの調子だと、学校で有銘に会ったりしたらどんな顔をしてしまうかわかったものではない。ノコヤネはもう一度顔を擦り、話題を変えようと指の隙間から周囲を見回した。そして気付いた。あの大きな影が見当たらない。
「あれ、スサノオは」
その言葉に、ハヤヒノがギクリと反応した。
「そんなの、あたしが知る訳ないでしょ!」
「いや、別にハヤヒノに聞いたんじゃないんだけど」
「ハヤヒノちゃん、まだ熱あるんじゃないの。顔赤いよ」
トリフネが心配そうに覗き込む。
「だ、大丈夫だから。ホント大丈夫だから」
「スサノオはねえ」
突然話し始めたナビコナに、またギクリ。
「今朝は一番に食堂に来て、さっさとご飯食べて部屋に戻ったみたい。何か気まずい事でもあったのかなあ」
チラチラと見やるナビコナの視線に、ハヤヒノは切れる。
「だから知らないって言ってるでしょ!」
「ああ、こっちも駄目だ」
「重体だ、重体」
フツヌシとミカヅチはまた呆れ返った。
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