第14話 暗闇
「うちの男は馬鹿ばっかし」
そう吐き出すと、ハヤヒノはオレンジジュースをぐびっとあおった。男前である。
「まったくまったく」
トリフネがうなずいた。
「そうなの?」
コトシロがツクヨミに尋ねる。ツクヨミはあまり興味が無さそうに、「さあ」と言った。
日美子は困った顔で微妙な微笑みを浮かべていた。昼食後、何故か日美子の部屋に女子五人が集まって女子会が始まってしまったのだ。
「ミカヅチとフツヌシは鈍感だし、ナビコナは生意気だし、ノコヤネは無神経だし、スサノオは単細胞だし」
ハヤヒノは憤懣やるかたないといった風であった。
「ホントホント」
トリフネは大いにうなずく。
「いやあ、何もそこまで言ってあげなくても」
なだめる日美子に、ハヤヒノから即ダメ出しが来る。
「日美子ちゃんは甘い!」
「うん、甘い甘い」
トリフネは首でも鍛えてるのかと言いたいほどにうなずき続けている。
「うち関連でまともな男って、賀茂政務官くらいだよ」
「ああ、政務官いいよねえ、ナイスミドルって感じで」
ハヤヒノとトリフネはうんうんとうなずき合った。
「ええ、そんなもんかなあ」
日美子にとって賀茂政務官は親戚の小父さんである。日美子が非常勤職員として採用されたのは、賀茂のコネがあっての事であった。だから恩義は感じてはいるが、男性という視点ではどうにも見れなかった。
「日美子ちゃんは趣味が特殊なんだよ」
呆れた顔で突っ込むハヤヒノに、
「そんな事ないよ。私はドストレートのドノーマルだよ」
よく意味のわからない強調をした日美子であった。そして、
「もしかして日美子さんって、年下趣味だったり?」
ニヤリと笑うトリフネに対し、
「あれ、それトリフネちゃんだよね」
と真顔で返す。トリフネは無言で撃沈した。
「あんたもホントよくわからないよね。あんなガキの何がいいんだか」
ハヤヒノは倒れたトリフネをしげしげと眺めた。
「私だってわかんないよ。でもそうなんだから仕様がないじゃない」
トリフネは真っ赤になった顔を両手で隠している。ハヤヒノはもう一口、オレンジジュースをぐびりと飲んだ。
「けどま、ノコヤネも他人の相談に乗る前に、自分の事をちゃんとしろよ、とは思うよ」
「そう、それだよそれ」
トリフネは復活した。
「私の事にかまってる余裕なんかないじゃんね」
「それってどういう事」
日美子は首を傾げた。それを見てハヤヒノとトリフネは眉を寄せる。
「あれ、もしかして気付いてない?」
「あんなにわかりやすいのに? 私より絶対わかりやすいのに?」
「えっと、つまりノコヤネくんにも誰か好きな人が居るって事?」
日美子の問いに、
「有銘ちゃんだよ」
ハヤヒノは即答した。
しばしの沈黙の後、日美子の口は横に広がった。
「……え、えええーっ!」
「本当に気付いてなかったんだ」
ハヤヒノは心底呆れた、という顔をした。
「いや、でも、だって、えっと、確かノコヤネくんと雨野審議官て十五歳くらい差があるよね」
「あるよ」
「それで、あの、その、恋愛対象になるものなの?」
「でも男が十五歳年上だったらある話じゃん。だったら逆もあるでしょ。それに有銘ちゃん童顔だし」
「それは、確かにそうなんだけど、でもなあ、ええーっ、そういうもんなのかあ」
「だから日美子ちゃんの趣味が変わってるんだって」
「そ、そうなのかな」
日美子はだんだん自分の趣味に自信が無くなって来た。
盛り上がる三人を横目に、ツクヨミはコトシロにオレンジジュースを注いだ。
「ありがとう。美味しいね、これ」
「うん」
女子会トークはまだしばらく続くようである。
いつの間に眠っていたのだろう、雨野有銘は浴室の扉が閉まる音で目が覚めた。ベッドサイドランプのみが点灯する暗い部屋。
「ごめんなさい、私」
「構わない、寝ていたまえ。疲れが溜まっているのだろう」
バスローブ姿で髪を拭きながら、賀茂道延はベッドに腰かけた。ここは賀茂の個人所有のマンションの一つだった。
「溜まっているのは疲れだけじゃないわ」
一糸纏わぬ身を横たえ、有銘は賀茂の背に手を伸ばす。
「残念だが、今日は時間がない」
賀茂は下着を身に着けると、ワイシャツを手にした。
「もう行くの」
「リウの特使殿をなるべく早く国に帰さなければならない。次の天穴がどこに開くかにもよるがね。その為に関係方面と話を擦り合わせておく必要があるのさ。こんな格好で仕事の話をするのも間抜けだが」
「いいえ、仕事の話をしているときのあなたは好きよ」
「そう言ってくれる君を私も愛している」
「でも奥さんとは別れないんでしょう」
「それは前提条件だ。私の今の地位も経歴も、妻の実家の人脈があっての事だからね。妻と別れれば、それらを全て失う事になる。つまり君とも会えなくなる。仕方あるまい」
「そうね、仕方ないわね」
賀茂は身支度を整えると、腕時計で時間を確認した。
「君はゆっくりして行きたまえ。たまには休養も必要だ」
そう言って一度玄関に向かい、ふとその足を止めた。
「ところで、天照日美子はどうしている。上手くやっているかね」
「ええ、子供達とも距離はないみたいよ。歳が近いせいかしら」
「彼女の祖父は私の伯父でね。子供の頃は世話になったんだ。面倒だとは思うが、よろしく頼む。それじゃ」
賀茂は改めて玄関に向かった。靴を履く音、ドアを開く音、そして閉じる音。
「無神経」
有銘はつぶやいた。
もう二年か。有銘は思う。もう二年もこんな関係を続けている。客観的に見れば、愚かだ、馬鹿げているとしか言い様がない。わかっている。理屈ではわかっているのだ。だが身体が、心が、言う事を聞かない。
子供の頃からエリートコースを歩んできた有銘の周囲には、常に嫉妬と羨望が渦巻いていた。同級生からも、その親からも、挙句の果てには自分の家族からも、それが当たり前だと思うほどに、嫉妬と羨望の視線を集めて生きて来た。そしてそれを正面から受け止めて来た。
絶対に負けるものかと歯を食いしばって来た。立ち塞がる者は常に打ち倒し、誰であっても踏み越えて来た。学校でも、官僚になっても、常に競争の中に身を置き続け、競争に勝利し続け、そしてあまりに勝ち過ぎたが為に今の閑職に飛ばされてしまった。ちょうどそんな時、彼は有銘の前に現れた。
彼女の人生の中で、初めての出会いだった。嫉妬も羨望もない、そして同情も憐憫もない対等な視線で見つめてくれた男。だから有銘は全てを許した。全てを受け入れた。そしてただの都合の良い女に成り果ててしまった。後悔はしていない。後悔など意地でもするものかと思っている。
だがそれでも寂しい時もある。切ない夜もある。笑顔で帰るべき家へ帰って行く彼の背中を、嫉妬と羨望の眼差しで見つめている自分に気付いた事もあった。愚かだ。馬鹿げている。理屈ではわかっている。結局そこへ戻ってしまう。堂々巡り。人並み以上に利口な頭を持っているはずなのに、考えても結論は出ない。
有銘は身体を起こした。身体の中にはまだ賀茂の感触が残っている。それは不快なものではなかったが、取り敢えずシャワーを浴びたい、そう思ってベッドを降りた。裸のまま浴室に向かう。そしてドアノブを握った。そのとき。
ことり、音がした。ドアの向こうから。小さな、何かが倒れたような音。それだけ。なのに、有銘の全身には鳥肌が立った。何が何だかわからない。しかし、いま自分が対峙しているこのドアの向こうに、何か得体の知れない恐怖が自分を待ち構えている、そんな気がした。
誰かに連絡を取らねば。携帯はバッグの中か。いや待て、連絡してどうなるのだ。そもそも何と言って人を呼ぶのだ。何かが居る気がする、では話にならない。マンションの浴室に居そうな何かと言えば、ゴキブリかせいぜいネズミくらいだ。そんな物の為に人を呼んで、自ら不倫を暴露するのか。そんな訳には行かない。人を呼ぶのならせめて、中に何が居るのかを確かめた後にしなければ。だがそれでは遅い、という気もしていた。
この躊躇している時間に、ドアの向こうの危機は加速度的に増大している、そんな気がしてならない。やはり人を呼ぼうか。そのとき、有銘の脳裏に、呼べばすぐに飛んで来てくれるであろう少年の顔が思い浮かんだ。だがそれはできない。こんな所に、こんな穢れた場所に彼を招くなど、絶対にやってはならぬ禁忌であると脳内のもう一人の自分が訴えた。ではどうすればいいのだ。
とにかくドアを開けよう。もしかしたら危険な何かがあるかもしれないが、それでも相手の正体が不明のままでは、救援要請などできる訳がないのだから。ドアノブを握る手に力が入る。ゆっくりと回し、一気に引き開けた。中には静寂と闇が詰まっていた。その闇の黒々しさに有銘は声を上げそうになったが、踏みとどまった。単に照明が点いていないだけだ。壁のスイッチに手を伸ばす。その手を、暗闇が包んだ。冷たい触感。
「ひっ」
有銘は手を引こうとした。だが手が動かない。と同時に、闇の中から黒い手が現れた。何本も何本も。それらは有銘の頭を、腕を、脚を、腰を、乳房を掴み、闇の中へと引き摺り込んだ。
「いやあああっ!」
浴室の扉は静かに閉じた。ちりん、部屋のどこかで小さな鈴の音がした。
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