第10話 竜と鬼

 水涼みすずは良い子ね

 お母さん、お母さん、お母さん


 水涼は何が好きなのかしら

 お母さんが好き、お母さんが大好き


 そう、お母さんも水涼が大好きよ

 お母さん、お母さん、お母さん


 水涼は他に何が好きなのかな

 うんとね、火。火が好き


 火? 燃える火の事が好きなの?

 うん、水涼は火が好き


 どうして水涼は火が好きなの

 お友達だから。火は水涼の言った通りに燃えてくれるから


 でも危ないわ。火で遊んでは駄目

 危なくないよ、危なくないよ


 いいえ、危ないわ。もう火で遊んではいけません

 何で、危なくないよ、だってほら、こんな事もできるんだよ


 きゃああっ、消して、誰か消して!

 大丈夫だよ、水涼が消すから。あれ、消えない。あれ、消えない


 誰か、誰か助けて……誰か

 お母さん、火が消えないの。火が消えてくれないの。お母さん


 誰か水涼を……水涼だけでも

 お母さん、お母さん、お母さん


 水涼……あなたは……良い……子

 お母さん! お母さん! お母さん! 何か言って、返事をして、お母さん!




 目を開けた。部屋は暗い。ドアがノックされている。その音が目を覚まさせたのだ。身体を起こす。重い。何とか立ち上がり、入り口へと歩く。ドアを開けると、その隙間から覗き込んだのは、日美子の笑顔。だがそれは一瞬にして曇った。


「ハヤヒノちゃん、大丈夫なの」


 その一言で、いま自分は酷い顔をしているのだろうな、とハヤヒノは自覚した。


「大丈夫、ちょっと血圧が低いだけ」

「夕飯の用意できてるけど、無理っぽいならそう言っておく?」


「ううん、大丈夫。すぐ行くから、下で待ってて」

「そう、じゃ待ってるね」


 日美子はドアの前から離れた。ハヤヒノは一度ドアを閉め、大きな溜息をついた。あのとき、炎に飲み込まれる小桜貴美子と目が合った。笑っていた。それが脳裏から離れない。おそらくトラウマになっている。そのトラウマが心の古傷を刺激し、あんな夢を見せたのだろう。ハヤヒノは両手で頬を叩いた。今は落ち込んでいられる場合ではない。しっかりしなくては。もう一度溜息をつくと、顔を上げ、ドアを開けた。




 ハヤヒノが食堂へ下りて行ったとき、既に夕食は始まっていた。充満する出汁の香り。テーブルの真ん中には大鍋いっぱいのおでん、各々の前には野菜の掻き揚げの乗ったうどんが置かれている。食欲はあまりないが、うどんくらいなら入るか、ハヤヒノはそう思いながら席についた。


「全員揃ったわね」


 テーブルの隅の席には有銘が座っている。前の皿にはおでんの大根と卵が取ってあった。


「食べながらでいいから聞いて頂戴。今現在わかっている事を話します。まずは天穴について。最初に前提だけど、天穴の向こう側、リザードマンの世界を竜側、天穴のこちら側の世界を人側と呼ぶ事とします。では本題。天穴は時空の歪みであって、勝手にできたり消えたりします。だからその総数は不明です。そして竜側の天穴と人側の天穴は、一対一で通じているわけではない模様です。つまり、竜側のAという地点に天穴ができたからといって、それが必ず人側のAダッシュ地点に通じる訳ではないという事。Bダッシュ地点やCダッシュ地点に通じてしまう事もあるらしいの。そしてどうやらドラーコはその出現場所のコントロールをある程度可能にする技術を持っているとの事。とはいえ人側の天穴をどこにでも自由に出せるかと言えばそうではなくて、やはり限定はされるらしいわ。過去に歩兵竜が出現したのは十一箇所、そのうち四箇所は地名に蛇が付き、三箇所は地名に竜が付いています。地名に蛇も竜も付いてない四箇所の内、龍神伝説があったのは一箇所ね」


「じゃ、残り三箇所は?」


 おでんのちくわを頬張りながら、ナビコナが尋ねた。


「残り三箇所は竜と蛇については、全く関係なし。ただし」


 有銘は卵を一口食べた。


「その三箇所には鬼の伝説があるわ」

「鬼かあ」


 トリフネはキメペの頭の二本角を思い出した。有銘は続ける。


「馬場あき子の『鬼の研究』という本に、『蛇と神と鬼とは、いずれも洞穴への不安と畏怖から生まれた系譜を成し合うもの』という一節があるの。古代においては鬼も蛇も同根であったという考え方だけど、天穴の向こうの竜側の世界がイメージされるわね。あと鬼の正体については諸説あるけど、産鉄民の事であるという話は昔から根強いわ」


「サンテツミンて何」

「何」


 フツヌシとミカヅチは、うどんをすすりながら首を傾げた。


「鉄を作っていた人たちの事よ。山で鉄鉱石を掘り、川で砂鉄を攫って、それを蹈鞴たたらで融かして鉄を作るの。その生活の都合上、彼らは川に近い場所で暮らしていたとされるわ。そして竜や蛇の付く地名には、かつてそこに川があり、時折氾濫していたという歴史を持つ場合が少なからずあるのよ。ならばそこには、産鉄民が住んでいた可能性もある。その産鉄民が鬼だとすれば」


「人間に鉄の作り方を教えたのが、天穴の向こうのリザードマンだって言うんですか」


 ノコヤネは眼を丸くしていた。


「それが歴史的事実なのかは私にはわからないわ。ただ、今ある情報を組み合わせれば、そういう解釈もできるわね」

「つまり竜とか蛇とか鬼とかに関係してる場所イコール天穴のできやすい場所って事?」


 ハヤヒノは箸を置いた。まだ二口程しか食べていない。


「その可能性がかなり高い、という事。人側の天穴の場所をドラーコがどのようにコントロールしているのかまでは、キメペ氏にも不明だそうよ。まあ仕方ないわよね、軍事機密だろうし。取り敢えず今後の政府の方針としては、竜、蛇、鬼に関わる地域をピックアップして、近隣の自衛隊駐屯地に対歩兵竜装備を揃えるらしいわ。予算がきちんと付けられればの話だけど」


 有銘は大根を箸で切り、口へ運んだ。軽く噛んで飲み込む。


「次に、今日の襲撃について。これは十中八九ロヌの特殊部隊によるものだと思われます。超能力を使って一見無関係なところから攻撃を仕掛けるのは、ロヌの常套手段との事。昼にも言ったけど、敵は神童を重要な戦力として見ています。切り崩しの為には手段を選ばないかもしれない。しかもキメペ氏によれば、ロヌには未来予知を無効化できる技術があるらしいわ。つまりコトシロの託宣に頼るわけには行かない。いいこと、あなた達は全員で一つのチームです。これは強みなのだけれど、一人が欠けただけで機能不全を起こしかねないと言う意味では弱点でもあります。必要なのは各自が注意し合う事よ」


 ハヤヒノは眼を伏せている。ノコヤネはそれを横目で見た。


「注意し合うって言われてもなあ」

「そう、敵がいつどこから来るかわからないんじゃ」


 フツヌシとミカヅチは不満げだ。


「ノコヤネの負担が増す」


 そう言って立ち上がったのはスサノオ。うどんの丼は既に空っぽになり、そこに鍋からおでんをひょいひょいと取って行く。丼は卵とロールキャベツと丸天と牛筋でいっぱいになった。有銘は小さく苦笑した。


「そうね、常に全員の状態を把握できるのはノコヤネだから、当面しばらくは負担をかけることになるわ。大変だけど、お願いね」

「あ、はい。僕は大丈夫です」


 相変わらず子犬のような返事である。


「しかし、ホント食べるよねえ」


 トリフネが呆れた声を上げた。スサノオの丼はあっという間に半分になっている。一口で頬張ったロールキャベツを飲み込むと、スサノオは言った。


「タンパク質と繊維質とナトリウムが摂れる」

「聞いてないから」


 目を伏せたまま、ハヤヒノが突っ込んだ。そのとき。


「第十六地区、都心」


 コトシロが立ち上がった。その眼は見開かれ、髪は逆立っている。


「大きい」




 黒いフルスモークのミニバンは都内の道路を流していた。中ではキメペが景色を見てはしゃいでいる。


「ほうほう、ここは高層建築の多い場所ですな。いやあ見事に高い。壮観であります」

「お国では高層建築は少ないのですか」


 賀茂の問いに一瞬振り返り、大きくうなずくとすぐまた外に目をやる。本当に楽しそうだ。


「向こうの世界は総じて政府官庁の権威が強めなのです。宮殿や庁舎は高層建築なのですが、その周囲の建物がそれを見下ろす高さで建てるなどというのは、計画自体に許可が下りません。高層建築を作る技術はあっても文化がそれを許さないのです。しかし都市部では人口の流入に対して居住や労働に必要な空間の増加率が圧倒的に足りません。それは非合理的に過ぎるのではないか、という意見も散見されるようになりました。十年後には変わっておるやもしれませんな」


「人口の流入は制限していないのですか。それでは都市部の治安維持にかかるコストは相当なものになると思いますが」


「ここは人の数も多いですな。祭のようだ。にも拘わらず、夜だというのに治安の悪化が見受けられない。これは見習わねばなりますまい。我が国リウの都市部は、もう少し殺伐としております。人口の流入制限はしょっちゅう議題には上るのですが、実行された試しがない。官僚の慣例至上主義はどこの世界でも変わらないのではありませんか」


「耳の痛い話です」


 賀茂が苦笑して見せた、その時。


 助手席の護衛の胸ポケットで、スマートフォンが振動した。通話の着信。「はい」と出た護衛の顔色が変わる。


「何があった」


 護衛は振り返ると賀茂に告げた。


「雨野特務審議官からです。第十六地区に強制避難指示が発令されます」

「コトシロか」


「はい」


 この近隣には竜や蛇や鬼に関連した地名は無かったはずだが。賀茂はしばし黙考した。


「頃合いですかな」


 キメペの静かな、しかし覚悟を決めたつぶやき。


「私としては、もうしばらくお話を伺いたかったのですが」


 残念そうな賀茂の顔に、嘘はなかった。


「あなたがそう仰るのであれば止むを得ません」


 賀茂は車を路肩に止めさせた。天穴が開くまで待機である。




 江戸時代この地域にあった、とある藩の下屋敷に、邸内社として水神――即ち竜神――が勧請されていた事が判明するのは、まだ後の事であった。

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