第7話 ターバンの下

 戦闘が全て終了し、神童のメンバーが聖天寺学園の学園寮に戻って来たのは、もう午前七時前。流石にこの日は皆、学校を休んだ。


 天照日美子も今日は明番、つまり夜勤明けという名目で事実上の休みをもらった。だが。眠れない。体はぐったり疲れているのに、神経が敏感になって目が冴えてしまっている。無理もない、と己が事ながら思う。非常勤のお役所仕事にありついたと思ったら、いきなり戦場へ連れて行かれたのだから。


 ベッドに入って三十分、一時間、そして二時間が経ち、とうとう三時間が経った頃、我慢できなくなって身を起こした。パジャマの上からコートを羽織り、廊下に出ると階段へ向かう。そして階段の前で立ち止まる。一階の食堂へ行こうか、とも思ったがまだ昼時には早いし、そもそも食欲がない。寮母さんの迷惑になるだけだな、日美子はそう考え階段を上った。上は確か屋上というか、物干し場になっているはずだ。陽の光を浴びたい、なんだかそんな気分だった。


 屋上のドアを開けると、秋の冷たい空気が身に纏わり付いて来る。コートを着て来て正解だった。空を見上げると快晴の秋晴れ、とは行かなかったが、それでも薄い雲の間に青空が見えている。少しは光も浴びれそうだ。


 ふと、日美子は視線を横に移した。気配を感じたのだ。風になびくシーツの向こうに先客がいた。サングラスの少女が物干し場の片隅にしゃがみ込んでいた。


「ツクヨミちゃん?」


 日美子が近づくと、ツクヨミは立ち上がった。


「気分でも悪いの」


 首を横に振る。


「眠れないの」


 今度はうなずいた。


「そっか、私も眠れなくて。何でだろうね、そんなに神経質じゃなかったはずなのに」


 日美子の向けた笑顔に、ツクヨミは眩しそうに横を向いた。


「……人がいっぱい死んだから」

「え?」


「いっぱい死んだのに、それが見えていたのに、顔色一つ変えない……嫌な子供」

「誰がそんな事を言ったの」


 そう尋ねながら、誰にも言われてはいないのかもしれないな、と日美子は思った。言われなくても感じ取れてしまう。それは超能力でも何でもない、思春期の少女の普通の感覚。自分もかつてはそうだった。だが今それを口にしても、少女の眼にはただ大人が媚びを売っているようにしか映らないだろう。


 ドアが開く音がした。日美子とツクヨミが振り返ると、ターバンにローブ姿のスサノオがきょとんとした顔で立っていた。


「あれ、あなたも眠れないの」

「いや、眠った」


 スサノオも日の下に出てきた。


「腹が減って目が覚めた」


 そう言うとチョコバーを取り出し、一瞬で袋を剥いて、かぶりついた。半日食べなければ餓死すると言われた少年は、まるで呼吸をするように、当たり前の顔で食事を始めた。食べるだけなら部屋で食べればいいのに、と日美子は思ったが、空の見える場所で食べたい気分だったのかもしれない。


「ねえねえ」


 その声はスサノオの背後から聞こえた。そこに立っていたのはナビコナ。と、日美子が認識したとき既に、スサノオはセベリルの銃口を向けていた。


「危ないなあ」


 ナビコナは笑顔で銃口に白く細い指を突っ込んだ。


「花月じゃなかったら腰を抜かしてるところだよ」


 スサノオは無言で銃をローブの中に戻した。そして何事も無かったかのように食事を再開する。その顔をナビコナは覗き込む。


「ねえねえ、それって美味しいの」


 スサノオはまたも無言で、ナビコナに向かって手を突き出した。その手には新しいチョコバーが握られている。ナビコナはそれを受け取り、袋を破り、端っこを少し齧った。その眉間に縦皺が寄る。


「甘ーい」


 そしてナビコナはそれをツクヨミに差し出す。


「ねえねえ、ツクヨミも食べてみて」


 ツクヨミは一瞬驚いたような顔を見せると、チョコバーを受け取り、少し躊躇した後、恐る恐る小さな口で齧った。


「……甘い」


 その眉間に寄る縦皺をナビコナは指差して大笑いすると、


「ねえねえ、日美子さんも食べてみて」


 と言った。ツクヨミがチョコバーを日美子に差し出す。


「え、私も?」


 何で私が、と思わなくもなかったが、ナビコナがわくわくしながら見つめている。ツクヨミとスサノオも見ている。仕方ない、諦めて日美子はチョコバーを口に運んだ。端っこを削るように一口齧る。


「甘っ!」


 思わず声が出た。口全体にねっとりと広がる濃厚な、一口で血糖値が跳ね上がりそうな猛烈な甘み。大笑いしているナビコナを横目に、日美子はチョコバーをスサノオに返した。


「こんなに甘いの何本も食べて、大丈夫なの」

「問題ない。糖質と脂質とタンパク質が摂れる」


 そう言うと、スサノオはそのチョコバーに齧り付いた。あ、間接キス、と日美子は思ったが、口には出さなかった。もうそんな歳でもないと思うし。ただ、ちょっと顔は赤くなったかもしれない。


 などとやっていると、ヒンジの軋む音を立てて勢いよくドアが開いた。


「うるさい」


 仁王立ちしているのはハヤヒノ。


「眠れない」


 しかし何故かその姿がナビコナのツボに入ったようで、腹を抱えて笑い転げている。


「何がおかしい」

「ひゃ、ひゃって、ひゃって、怒ってるし。ひゃひゃひゃ」


「燃やすぞお前」

「ま、まあまあまあ」


 日美子が慌ててとりなす。


「ごめんなさい、うるさかったかな、うん、部屋に戻ります。はい、みんなも部屋に戻ろ、ね、ね」


 いまだ笑いが止まらないナビコナの口を押さえながら、日美子は皆を促しドアの内側へ入ろうとした。が。


「ちょっと待った」


 ハヤヒノが寝起きの不機嫌な眼で睨みつけているのは、スサノオ。


「あんた、そのターバンとローブ、洗ってんの」

「いや」


「臭い」


 情け容赦も身も蓋もない言い様に、日美子の顔が引きつる。いくら何でもこれは怒るのではあるまいか。しかしそんな心配もどこ吹く風、スサノオは平然としていた。


「臭くはないが」

「いや臭い。あんたが気が付いてないだけ」


「そうか」

「そう」


 するとハヤヒノは、スサノオに手を差し出した。


「貸して」


 スサノオの表情は変わらない。けれど困惑しているようにも見える。


「そのターバンとローブ。洗っといてあげるから」


 差し出した手をぶんぶん振る。短気なのか面倒見が良いのか、どっちキャラなんだろう、などと日美子は考えてしまった。そしてスサノオは、しばし躊躇したものの、思いの外素直にターバンを解き始めた。片面が青で片面が黄色、二枚合わせの長い布が解かれると、内からは漆黒が湧き出てきた。


 それはサラサラの、腰まで延びるストレートの髪。成程、これをまとめる為のターバンなのか、日美子はちょっと感心した。


「あんた、髪伸ばしてるの」


 ハヤヒノは気圧されたかのように一歩下がった。若干引き気味なのか。


「いや。切れと言われた事がない」


 スサノオのその言葉に、日美子はあの名前を思い出した。実験体M8号。彼はどんな子供時代を過ごして来たのだろう。


「切った方が良いのか」


 その問いは、スサノオにとっては何気ないものだったのだろう。けれどハヤヒノにとっては――日美子にとっても――答えに窮する程度には重みのある言葉であった。


「そ、そんなの……自分で考えなさい」

「そうか」


「それよりも、はやくターバン貸して。あとローブも」


 スサノオはターバンを手に軽く巻き付け、塊にしてからハヤヒノに手渡した。そしてローブを脱ぐ。中から出てきたのは、太い腕、厚い胸板。まさに筋肉の鎧。黒いタンクトップの上から両脇にセベリル645のホルスター、背中にはセベリルSP120ショットガンを背負い、右肩から左腰にショットガンの実包が連なった弾帯を、左肩から右腰にはチョコバーを詰め込んだ弾帯をかけ、腰の周りには各種手榴弾、左右の太もも横にはダガーナイフを差している。眩暈がする程のワンマンアーミー振りであった。


「あんたは花火禁止ね」


 思わずつぶやいたハヤヒノに、スサノオは即答した。


「花火くらいでは誘爆しない」

「真面目に答えなくていいから」


 そう言ってローブを引ったくるように受け取ると、一度背を向け、そして振り返った。


「ついて来て。洗濯機の場所と使い方教えるから。次からは自分でやること」


 階段を下りて行くハヤヒノに、スサノオは素直について行く。中ほどまで下りたとき、ハヤヒノはもう一度振り返った。そして主にナビコナを睨みつけて言った。


「あんたたちは部屋に戻ってなさい。昼までね」




 ちりん、鈴が鳴った。スポーツバッグの端についた、小さな金色の鈴。小桜貴美子が歩く度に、ちりん、と鳴る。学校の敷地内を、しかし校舎から離れて歩いて行く。ゴミ置き場、その向こうには今は使われていない焼却炉がある。そこから漂う、煙の臭い。


「なんだよ、風紀委員じゃん」


 小桜の前に立ちはだかったのは、五人の男女。手に口にタバコが見える。聖天寺学園は基本的に良家の子女が集う場である。だが、落ちこぼれはどこにでも居る。


「あーあ、見つかっちまったよ」

「どうする、口封じでもすっか」


「あれえ、風紀委員黙っちゃったよ、ビビッてんじゃねえの」


 へらへらと笑いながら近づいて来る五人に、小桜はぽつり、小さな声で、しかしはっきりとした口調でつぶやいた。


「ゴミ」

「ああん、んだとてめえ!」


 激高した一人が小桜の胸倉に手を伸ばした。しかし。その手が胸に触れる事はなかった。鈍い音と共に、全ての指が逆方向に曲がったのだ。激痛に悲鳴を上げんとしたその顔面を、小桜の小さな手が、裏拳で打った。顔の形が変わり、首があらぬ方向に曲がる。身体は宙を舞い、ゴミ袋の山の中に飛び込んだ。


 他の四人は呆然と立ち尽くしている。いま目の前で起きた事が受け入れられないのだ。小桜は手を水平に伸ばすと、ぎゅっと握った。四人は同時に胸を押さえた。心臓を握り潰されているかの如き感覚。全身から力が抜ける、目の前が暗くなる。四人は次々に倒れた。


「ほんと、ゴミ」


 感情のこもらぬ声で再びそうつぶやくと、小桜はまた歩き始めた。ちりん、鈴が鳴った。

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