第3話 僕を連れて行ってくれ
甲高い悲鳴が尾を引いてリフレインする。
「くそっ、くそぉっ……!」
白い狐はどんどん遠くなって、しまいには見えなくなってしまった。この夢に長く居てはいけない。そして、田中が長居してしまったのは僕がいたせい――
助けなきゃ。どうやって? 田中はどこに行った?
……落ち着け。分かっていることを整理するんだ。
まず、ここは夢の世界。眠った人々が一緒に見ている同じ夢。それなら現実で目を覚ませばいい。ここから出られる。大学生の彼が言っていた『飲み込まれる』というのは目覚めずに深く深く眠り続けてしまうという意味ではないか。
現実で箱の中の暗闇に魅入り、箱の中の夢で夜空の暗闇に吸い込まれる……。
嫌な予感がした。
残された時間は多くはない。それに僕だって田中と同じ時間この世界で過ごしている。いつ連れていかれるか分からない。
僕には田中みたいな美貌もないし、勉強だってできるわけじゃない。
でも、
「僕のせいで……、田中が苦しむのは、違うじゃないか」
僕にだって意地はある。
田中を追いかけるんだ。そうさ……僕はたぶん、田中のことを好きになっていたんだ。こんな異常な世界なのに田中に頼られて嬉しかった。泣いて震える背中を見て、勢いよく笑う彼女を見て……、彼女を独占しているという得体の知れない満足感に僕は支配されていた。
でも、こんな暗闇に閉ざされた世界じゃ意味がない。
現実では僕に興味なんて持ってもらえないかもしれないけれど、それでも夜の悲しみに襲われるような場所にいてほしくない。
目を閉じて、耳を澄ます。
『カラス!!』
助けを求める声がする。
――ここは夢の世界。夢の世界なら、君のために僕は何にだってなれる。
鳥の羽ばたく音が背後から聞こえた。一羽、また一羽。僕を中心に黒い翼の鳥たちが次から次に集う。たくさんの命の拍動が背中から押し寄せて、ぱっと目を開ける。瞳を煌めかせて黒に濡れた躰を堂々と見せつけるように、道に、屋根に、空に何百、何千というカラスが羽ばたいている。
「今行く」
僕の声に合わせてカラスたちが大きな声で鳴いて、空気が震えた。ひときわ大きな羽ばたきが頭上で響いたと思ったら一瞬で視界が漆黒に包まれる。
三メートルほどもあろうかという巨大なカラスが僕の肩をがっしり掴んで羽を一回はばたかせると、僕は町の遥か上空にいた。
一軒家がミニチュアのように小さく、毎日通っている高校だってちっぽけに見える。小さなカラスたちが僕らを守るように列になって付いてくる。
前に目を移すと、スカイツリーの向こう側に背の高いビルが立ち並び、緑豊かな皇居、そこから波紋が広がるように数えきれないほどのビル、店、住宅がドミノのようにたたずんでいる。月明かり以外が失われた夜の世界ではどの建物も生気がなく、取り残されたようにただ死を待っているように見える。
この東京は悲しくて、孤独で、独りの色をしている。
僕はそれを知らなくてはいけないし、ここにとどまってもいけない。
田中、どこにいる?
華奢な背中をまぶたの裏に思い描き、きつく目を閉じる。
「僕を連れて行ってくれ!」
カラスの群れは風を巻き起こし、ロケットのように急上昇する。漆黒の羽は艶めいて、重くのしかかる暗闇を弾き返す。
――夢ならば、強く願えば叶うはず。
突然あたりがしんとして、ゆっくり目を開ける。果てしなく真っ暗な空に、僕は立っている。光のない東京はもう見えなくなってしまった。
視線の先には――いつもの制服の背中。体育すわりでどこかを眺める田中の茶髪が静かになびいている。
「……田中」
上も下もない暗闇に二人きり。
振り返った彼女の顔は熱い涙に濡れてぐしゃぐしゃで胸が締め付けられる。
「僕に教えてくれ」
一歩踏み出す。
「僕に、田中の孤独を」
もう一歩、もう一歩、駆け出していく。
「君の見た孤独を、僕にも見せてくれ!」
飛びつくように抱きしめる。
その瞬間、今まで足で立っていた夜空の地面が砂のように消えた。
「!!」
はじめはふわりと浮かび、ほどなくして容赦なく加速する。僕らは頭から一直線に落下していく。風が頬を刺すようで痛い。カラスたちは矢のように僕らを必死に追いかけている。
知るはずのなかった田中の鼓動が僕の胸の中で鳴って、響き渡る。
同じ時代を生きていても交わるはずのなかった僕らの心臓の音が、少しだけ重なった。
頭から水に突っ込む感覚。
空からまっすぐ海に落ちた。口の端から漏れ出る泡は本物みたいだ。
目をしっかりと開けて進む先を見る。暗い群青色の底なしの色が怖い。
その向こうに、学校で数人の友人に囲まれている田中が見える。
『香は志望校どうするの?』
『いつも試験は上位だもんね香。〇大でしょ?』
二人は海の底へと突き進んで潜る。
クラスメイトたちはごぼごぼと泡にかき消えて、今度は田中と両親が現れる。
『香、やりたいことをやりなさい』
『好きな大学選んでいいんだからね』
両親の言葉に笑い返す田中が小さな泡になって消える。
「やりたいことなんて、ないの」
僕の腕の中でぽつりと声がした。
「成績だって、パパとママが喜んでくれるから勉強してただけ。学校でも、みんなが楽しそうにしているのを邪魔したくなくて、本当の気持ちをうまく言えなかった」
海の底で、ベッドで一人丸まっている田中が見える。その手には黒い箱が収まっていた。これが、現実の田中だろう。
「パパとママは私に『何か』を期待していて、でも私はそんなもの持っていない。差し出せるものがない空っぽな私に価値なんかなくて」
僕らは海の底に降り立つ。離れないようにしっかり手を繋いでいた。
田中がベッドで眠る田中自身の頬を撫でる。
「自分をさらけ出すのが怖くて誰にも言えないし、言っても理解されそうにもなくて……。無性に悲しくて」
手を強く握られて横を見る。長いまつげが伏せられて、うるんだ瞳から涙がぽろぽろこぼれ落ちていた。
「……僕は、」
僕は君じゃないから、君の苦しみを本当の意味で理解はできない。君だけが苦しいから、人は孤独なんだ。
「僕は、孤独の色を、知っている」
すべてを飲み込むような深い闇夜、この深い群青の海、薄暗い抜け殻のビルたち、そして――君の横顔を伝い落ちる、透明できれいな雫の色を。
それは僕の心にもあるものだから。
「君は一人じゃない。僕がいる!」
もう夜は終わりだ。僕と明日を見に行こう。
そう瞳で問いかけて、僕は君を抱きしめた。
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