第2話 海の底、みたい

 昨日は学校の外に出たあと休める場所を探そうということになり、どちらともなく保健室に向かった。一言二言交わして静かになったと思ったら、僕に背を向けて田中は静かに泣いていた。

 震える小さな背中を見て、唇を噛む。肩をさすろうかと手を伸ばしかけて降ろす。

 ただのクラスメイトごときに何ができる? 僕は田中の気持ちに寄り添えるのか。


――ここを抜け出す方法を考えよう。この異常な夜を終わらせよう。僕にできるのは、それだけだ。


 そう決意して――僕は今、また目を覚ましたのだ。

 田中はすやすや寝ているけれど、脱出するためにはこの世界を調べなくてはならない。

 昨日の深い霧を思い出して背筋が震える。なるべく休ませてあげたいと思うけれど、一人で行動することは危険だと本能が告げている。

 肩をつんつんとつついて起こす。


「……何」


 眉間に深いシワが刻まれてにらまれる。どうやら寝起きは最悪らしいし、怒った顔は普通に怖い。

 教室で目覚めたとき以来、田中のイメージは変わっていた。近寄りがたい、美人で隙のない人だと思っていたけれど、今は気まぐれな猫のように自分に素直な感じがする。


「もう一度、見に行かない? 外」

「……」

「おい、目を閉じるな」

「…………」

「……なあ、僕一人じゃ不安なんだけど」


 その一言に田中の耳がぴくりと動いた気がした。ベッドに寝ころんだままの田中が細く目を開けて僕をじっと見る。


「へえ。私が必要?」

「……はあ」

「ねえ、どうなの」

「…………必要だから、起きてくれよ」


 とてもじゃないけれど目を合わせたくない。急に恥ずかしくなって、恥ずかしくなっている自分を見られたくない。

 がばっと田中が起き上がる音がした。


「ふふ。じゃあ行こう」


 不意打ちの笑顔。

ピンク色の頬は瑞々しく、果実みたいだった。ぶわっと体が内側から火照るのを感じてたまらずベッドから飛び降りる。熱を冷ますようにつかつかとドアに向かうと「待ってよ」と田中がついて来る。

 保健室のドアを開けるとき、小さく「ありがとう」と聞こえた気がした。

何のお礼なのか今の僕にはさっぱり分からなかった。


       ■


 相変わらず空は暗いままだけれど、校舎の中とは違って外の霧は薄かった。何となく歩調を合わせて進む。

 校門を出てアスファルトの道に出て、辺りを見回す。


「青くないか……?」

「うん……」


 町が、青い。ブルーの絵の具を町中に塗ったみたいだ。

 というよりも――


「海の底、みたい」


 つぶやく田中に深くうなずく。

 立ち並ぶ一軒家の白い外壁には濃い群青色が揺らめいていて、まるで遥か上に水面があるかのようだ。ブロック塀は海辺のテトラポッドのように海の色が映って濡れた色をしている。

 黒いアスファルトは深い藍色に染まり、それがずっと先まで続いている。

 深く暗い海の底。

 流されて飲み込まれてしまいそうで、自分の足がちゃんと地面についているか急に不安になる。


「っ! ねえ! カラス、あれ……!」


 田中の人差し指の先に、スーツを着た大学生くらいの男性が電柱に背をあずけて座り込んでいた。足を投げ出してぐったりした彼に近寄る。


「……あの、」


 僕の声に彼は少しだけ顔を上げて力なく笑った。疲れてきっているのに目はやけに優しい。


「……高校生も大変だな。こんな場所で会うなんて」

「この場所を知っているんですか?!」


 身を乗り出して質問した田中に彼は少し驚いて、ポケットの中から四角い物体を取り出した。


「箱?」


 彼は小さな立方体をくるくると手の中で回す。箱は光沢のない黒色をしていて、どの角度から見ても完成されていて隙が無い。地球で作られた物ではないみたいに見える。


「これ、拾わなかったか?」


 覚えがなくて首をかしげる。


「ここは夢だよ。みんなの夢」

「みんな?」

「そう。この箱を持った人たちが、深く深く潜って繋がりあった、夢」

「潜って?」

「君はどうしてここに来れたんだい? ……そっちの子は知ってるみたいだけど」


 横に立つ田中は何かに気付いたようにこわばった顔をしていた。


「俺たちは、この箱の中に集まって夢を見ているのさ……。だから、ほら」

「!」


 ヨットだ。ヨットが、アスファルトに浮かんでいる。僕は目をしばたかせるけれど、ヨットはずっしりとした体をゆらゆらさせてそこに在る。現実ではありえない光景に息をのむ。


「俺、ヨット部でさ」


 真っ白なヨットの船体を大切そうに撫でる。


「部活頑張ったし、後輩に教えるのだって得意だったし……。でも、そんなこと、社会にとっちゃどうでもいいんだよな。全然だめでさ、就活」


 そんなこと、と言うときの彼は自分で自分を刺しているようだった。


「なーんか、面接とか何回もやってさ。色んな言葉を考えるんだけど、考えるほど俺からかけ離れてるような感じがして。……ああ、俺には素直に自慢できることなんて何もなかったのかなあって思ったら、すげえ悲しくなっちゃって」


 静かにヨットに乗り込んで、マストとセイルに手で触れる。その瞬間、風なんて吹いていないはずなのにセイルが張るように膨らむ。

 慣れた手つきで操作した彼のヨットはアスファルトの道をなめらかに泳いでいく。


「でも、一人でへこんでたらさ……やっぱり、あいつらに会いたいなあって、思ったからさ。あんまり長居したらまずいぜ……飲み込まれちまうからな。気を付けろ」


 不穏な言葉を残して彼は去る。笑顔で振り返って「またな」と僕らに手を振った。僕と田中は手を上げて、道の向こうに消えた彼を見送った。


「なあ、田中、箱のこと何か知って……、ッ!」


 腕が引き寄せられて田中の方を向くと――田中が、二人いる。

 不安そうに僕の腕にしがみつく田中と――その田中を後ろからあざけるように見ている田中。獲物を前にして品定めをするようにニヤリと唇をゆがめて、近寄ってくる。

 その田中が震えている田中のブレザーのポケットに手を突っ込んで例の箱を取り出した。


「この箱はねえ……」


 普段の田中とは思えない、じっとりとした話し方に背筋に悪寒が走る。


「孤独の箱よ。寂しくて、悲しくて、どうしようもなく独りの人間の前に現れる」


 妖しい雰囲気の田中がためらいなく箱をぱかっと開く。箱の中には押し寄せる夜空と同じ色をした漆黒がとぐろを巻いていた。


「心がこの暗闇と同じ色を感じたとき、眠りについた私たちは『箱の中に入る』。深く深く眠り、箱の中の夢を見る」


 つまり、ここは箱を持った人々が共有している夢の中なのか――


「君たちはここに長く居すぎたの。何故カラスくんがここにいるのかは分からないけど……君がいたからこの子は帰りたいって思わなかったのかもしれないわね」

「!」


 空気が震えた次の瞬間、二人目の田中は巨体の白い狐になっていた。狐が丸まった身を伸ばすとふさふさの毛並みが波打って体が膨らむ。ミシミシと道路標識を押し倒し、僕と田中はブロック塀に押し付けられる。


「田中!!」


 狐は僕の腕につかまっていた田中の肩を大きな口でくわえて、ひょいと引きはがした。放り投げられた田中が狐の背中に乗せられる。


「さあ……行きましょう」


 力強く地面を蹴って天高く狐が飛翔する。そのまま、白い巨躯が夜空を駆けていく。


「カラス!!」


 僕は白い狐が遠く離れていくのを見送ることしかできなかった。

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