二章 少尉と少女と魔法の密室・前

 周囲を構成する六面のうち、五面までもが石でできていた。

 唯一、床だけが木製であるようだが、化粧板をはがせばそこにも石材が見えるだろうと容易に想像できる部屋だった。

 少女はそれを認識し、寝転がったままため息をついた。

 失敗した、と思った。

 しかし、記憶を呼び起こそうとはしなかった。回顧と反省は何も生まない、とこれまでの人生で学習している。考えるべきことは一つ、どうやったら逃げ出せるか。

 爆薬もなしに壁を抜くのは不可能だ。ずいぶん高い所に窓があるが、鉄格子がはまっていた。部屋は薄暗く、空気も淀んでいた。窓は本来の機能を放棄している。

 部屋には家具もなかった。隅っこに妙な臭いのするつぼが置いてあっただけである。その臭いの原因に思い至って、少女は鼻をつまんだ。

 そして気付く。両の手首に、分厚い金属製の手かせがはまっていた。手かせの厚みは二センチもあるだろうか。両腕をつなぐ鎖の一つ一つですら、その半分近い太さを持っている。まともな筋力ではどうやっても破壊不可能だ。しかし、見た目に反して軽かった。少女は両手首を打ち合せた。手かせが軽い音をたてる。ため息。


「……当然と言えば当然よね」


 ミスリル銀だ。古来より神聖な金属として知られているそれは、着用者の魔力を著しく減衰させる力を持っている。もっとも有名な使い方は、対魔法使い用の拘束具である。それ以外の使い道を、少女は知らない。


「……《雲河》」


 試しに少女は風を起こしてみた。外套がはためく程度の力を出したつもりだったが、前髪がちょっと揺れただけだった。

 魔法による強行突破案、却下。

 続いて持ち物を点検する。

 荷物がないのは当然(食料庫で発見された時点で諦めていた)としても、腰にくくっていた短刀が鞘ごとなくなっている。ブーツの脇に縛っておいた一本も同様だ。着衣はそのままだったが、妙な感触があった。気を失っている間に一度脱がされたのに違いない。同じ服でも、自分で着たのと誰かに着せられたのとでは全然違う。少女はベルトの穴を一つずらした。締め付けられていなかったことに、少しだけ感謝する。

 髪に手をやる。解かれていた。寝ている間に頭皮を引っ張られないように、ではないだろう。ゴムは床に落ちていたが、髪に隠していた数本の針がなくなっていた。少女は落ちていたゴムを拾ったが、顔をしかめてそれを投げ捨てた。

 残念ながら、身体検査は完璧に行われたようだ。暗器は一つ残らず没収されている。

 ひみつ道具を使って鉄格子を外す作戦も、残念ながら却下するしかない。

 演技力に頼る作戦――腹痛などの適当な理由で見張りをおびき出し、ぶん殴る――は最初から考えていなかった。昨夜あれだけ暴れたのだから、そんなつまんない手には引っかからないだろう。弱いふりしておけばよかったかもしれない。

 おっと、反省も後悔もしないんだった。

 考えることがなくなって、少女は自分の意思で寝た。

 閉じ込められているからには、いきなり殺されることはないだろう。


    †


 足音よりも気配を先に感じて、少女は目を覚ました。

 などと書くと、少女がとんでもない武術の達人に思えるかもしれないが、違う。そういう修練を積んだことはない。ただ、これまで一人で生きてきた関係上、他の存在――人にしろ猛獣にしろ――への警戒が常人よりも高いのである。逆説的だが、そうでなければ戦時下の荒野では生きていけない。強かったから生き残っているのではなく、生き残った必然として、能力を身につけたのである。この二つは同じようでいて、全く違う。前者は戦争で兵士が生き残る理論。後者は生命が生命として生き残る理論だ。淘汰のシステムと言い換えても良い。

 少女は今のところ、生物的にも社会的にも淘汰されていない。それだけだ。

 そして少女の意識はまだ、己が淘汰されることをよしとしていない。だから、敵かもしれない気配に敏感に反応した。付随する情報が処理されるのは、その次である。

 まず匂いを感じた

 暖かい匂い。

 続いて足音が複数。

 さらに遅れて、くぐもった話し声。

 少女はドアに目を向ける。ここは石ではなかったが、気に入らないことにもっと硬い物質――鉄でできていた。小さなのぞき窓がついている。内側にノブがないのはどういうことだろう。この部屋の意匠は「本来の機能を無視する」ことで成り立っているのだろうか。

 そんなはずはない。窓に手が届かないのも窓が小さいのも、ドアが内側から開けにくくなっているのも、ついでにベッドが大雑把なつくりなのも全て、この部屋の本来の目的にかなっている。

 独房だ。

 留置場との違いは一つだけだ。通路に面しているのが、ドアか鉄格子か。向こう側が見える分、留置場のほうが収容者にやさしいかもしれない。

 足音がドアの前で止まる。


「窓の下の壁に背中をつけて両手をあげろ」


 女の声がした。聞き覚えのある声のような気がした。少女は言われたとおりに下がった。

 細いのぞき窓に、二つの目が現れた。少女は慌てて両手をあげる。目が引っ込み、ドアが開く。

 途端、おいしそうな匂いが強く漂ってきた。


「動くな!」


 女の声が響いた。少女は無意識に動き出していた両足を引きとめ、壁に寄りかかった。独房に二人の人物が入ってきた。一人は目付きの険悪な女(少女の私見である)。もう一人は頼りなさそうな長髪の男。男のほうが、パンとスープの乗ったトレイを持っていた。


「こんな部屋じゃ食欲わかないかと思ってたけどね」男は楽しそうに言った。「なかなかどうして、タフな胃袋持っているなぁ」


 少女は両手を頬にやった。そんなに自分はもの欲しそうな表情をしていたのだろうか、と自己嫌悪に陥りかけた。確かめようにも鏡はなかった。


「容疑者に対して気安いぞ」


 女が言った。男は「まあまあ」と言いながら進み、部屋の中央にトレイを置いた。少女を見たまま後退する。


「とりあえず食べなよ。話はそれから。あ、そうそう、部屋の真ん中よりこっち側に来ようとしたら、隣のおっかないお姉さんがぶっ放すから」


 何を、と聞くほど、少女は間抜けではなかった。銃口に狙われながら食う飯ほどまずいものはないと思うのだが、それも言わずにおく。今撃たれたらどうしようもない。

 少女はパンを握りつぶして、口の中に放り込んだ。スープも一息に飲み干す。


「はい食べ終わった。で、話って何?」

「……もうちょっと噛んだらどうかと僕は思ったりしているんだけど……」

「悠長に飯食っていられる人生送ってこなかったんで」

「あそう。大変だったんだね。君がやったの?」


 答えになっているようでいて、全くつながらない質問が含まれていた。少女は首を傾げる。


「スタン。表現力を疑われているぞ」


 女が冷たく言った。男は女をちらりと見た。男はごまかすように空咳をする。


「君が殺したの?」

「誰を?」


 少女は即座に質問を返す。男が返事に詰まった。


「一応、誰も殺してないと思うんだけど、もしかして心臓が悪い人とか混じっててショック死した?」

「いくら心臓が丈夫でも、あれなら即死だったと思うけど」

「んなワケないじゃない。人間って、結構電圧に耐性あるんだよ。本物の雷ならまだしも、即席魔法式のちっこい稲妻じゃ絶対死なない」

「絶対?」

「若くて健康なら絶対。若くなくて不健康な兵隊はいないから、昨日に関して言えば絶対」


 少女の三段論法に、男は妙なすれ違いを感じた。


「あのさ、誰のこと言っているの?」

「そっちこそ」

「…………」


 沈黙が場を支配した。もちろん深刻なものではなく、言葉にすれば「ありゃりゃ?」程度の沈黙。


「事実認定が必要のようね」


 女が当たり前のことを口にした。


「その前に自己紹介よ。常識でしょ?」


 少女がそう言った。少女の認識が最もずれている。

 女は辛抱強く、ため息をこらえた。


「昨夜、一人死んだ」

「誰が?」

「黙って最後まで聞け。……死んだのは我が軍の上級士官候補だった男だ。現場は明らかに他殺。時をほぼ同じくして不審者が発見、逮捕された。普通に考えたら犯人はその不審者、つまり貴様だ。あたらめて問う。お前が殺したのか?」

「殺人事件?」


 少女は真顔で訊ねた。驚いた様子はない。


「そうとしか考えられない、と言うことだ。素直に自白するなら相応の対応を約束する」


 少女は視線を落とし、空になった碗のふちを指でなぞった。


「まずいことになったなぁ」

「貴様がやったのか?」

「違うわ」


 少女の答えは早かった。焦っているようには見えない。感情を制御しているのだと、女は気付いた。十年とちょっとしか生きていない子供が、そうやすやすと身につけられる能力ではない。

 多少荒っぽくする必要があるかもしれない。女はそう考え、腰のものに手をかけた。


「待った」


 男がそれを制した。


「そもそも君は、ここに何しに来たんだ?」

「え? それは、その……道に迷って」


 誰が信じるそんな与太。

 とは言えそれが嘘だと証明する方法はない。第三駐屯地周辺には壁も掘もないのだ。生垣と変わらない塀など、簡単に乗り越えられる。「迷う」と言う言葉の定義を無視できるのであれば、迷いこむのは不可能ではない。

 軍事施設の割に警備がゆるいのは、第三駐屯地の立地によるところが大きい。帝都近郊の基地のように、周辺住民がいるわけでもなく、前線基地のように、周囲は敵だらけ、というわけでもないからである。もっとも、帝国の懐事情が最大の影響源であることは、説明するまでもないだろう。

 表向きは、監視塔のみで十分、と言うことになっている。戦略的な理由が必要ならば、帝都と前線とをつなぐルートから外れているからと思って差し支えない。第三駐屯地の存在価値は、軍全体の中では比較的低かった。

 しかし、この状況を素直に受け入れると、少女の存在に対して認識のずれが発生してしまう。

 少女がスパイだと仮定した場合、たいして価値もない目標を狙ったことになる。

 そしてこのあっけらかんとした態度だ。

 暗殺を主眼においた工作員には、とても見えない。そうとわからないように振る舞うのが一流の証ではあるが、少女の態度はそれを山一つくらい越している。


(普通の女の子じゃないのか?)


 それが、男の抱いた印象だった。スパイとして育成された子供であると考えるより、魔法が使える普通の生まれの子供、と考えたほうが、確率的にもしっくりくるように思えた。


「どこに行くつもりだったの?」

「帝都」


 男は少女の目の動きに注目した。動揺は全くない。意識的に制御された動きもなかった。つまり、少女はこの会話を「雑談」と認識している。


「何しに?」


 そう訊ねるた瞬間、わずかだが、少女の頬がこわばった。


「それは個人的なことだから言いたくない」

「言わないと拘留されつづけるよ」


 言っても拘留されるのだが、一応、嘘ではない。


「しょうがないな」


 少女は呟いた。切り替えが早い。判断力かそれとも打算か。


「結構複雑な家庭の事情により、血のつながっていないお父さんを訪ねる予定」


 嘘は言っていないようだ、と男は判断した。脇を見ると、女もうなずいている。


「ところであんたらこそなんなの? 食事当番にしては話長くない?」

「あんたら? 口の聞きかたに……」


 女が怒りを押さえながら言った。少女は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。辛抱の足りないオバサン、とでも思っているのだろう。


「だったら名乗ってよ。あたし、ユハ」

「本名?」

「もちろん。やましいことしてないんだから堂々と名乗れるんじゃん」

「不法侵入。警備兵への暴行。窃盗及び軍への妨害工作」


 女が罪状を並べた。


「妨害工作って何よ?」

「食料庫を荒しただろう? 貴様はほんの少しだと思っているかもしれないが、今の我が国の事情を考えれば、反逆罪の適用すらあるかも知れん」

「帝国国民なら、でしょ?」

「その通り」そう答えながら、なぜか女は笑った。「外国人なら問答無用で銃殺だ」


 少女の顔がかすかに引きつる。


「……帝国国民です。はい」

「話がまとまったところで……」


 と、男が言った。実際には何もまとまっていないのだが、会話を切り返すための意味なし文句だ。同じものは、どんな組織の会議でも聞くことができる。真に意味のある交渉など、この世に存在しないのである。


「ユハ、だったね。僕はスタン。こっちがジジ。一応どちらも少尉だけど面倒なら省略可」

「ちょっと」


 女が抗議した。男は涼しい顔で返す。


「いつまでもあんたとか貴様とか呼び合っていると、気分が殺伐としてこない?」

「それは、まあ……」

「殺人事件があったのはさっき言った通り。個人的な見解だけど、君はどうやら無関係らしいね」

「じゃ、ここから出して」

「それはできない」

「上官には逆らえませーん?」

「違うよ」


 スタンは表情を軽く引き締めた。


「君がやっていない、と仮定した場合、他に犯人がいることになる。詳しく調べるのはこれからだけど、あれはどう見ても他殺だ。じゃあ、いると仮定した真犯人は、今どうしていると思う?」

「なんだか知らないけど容疑者候補が向こうからやってきてラッキー」

「正解。さらに言うと、その場合は真犯人も軍人、もとからこの基地の関係者、の可能性が高いよね?」

「表に出たら、今度はあたしが殺されるってことね」

「そう。適当な証拠品を握らされて。正直、独房に入っているのが一番安全だと思う。……後でまたくるから、昨日のこと整理しておいて。外部犯の可能性もあるし、その場合、君が不審者を見ている可能性が高い」


 ユハはうなずき、床に座ったまま腕を組んだ。

 スタンとジジは神妙な面持ちで独房を出た。



「スタン。あんな子供の言うことを信じるのか?」


 ジジの低い声は質問ではなく、叱責の口調だった。

 スタンは何事もなかったかのように、手をひらひらと動かす。


「別に信じちゃいませんよ。でも、使えると思わない?」

「…………」

「不確定要素は排除しろって言いたい顔だね、それは」

「わかっているなら……」

「少しは可哀相だと思うし、それが危険なのもわかるよ。でもこの事件は使える」

「根拠は?」

「勘」


 スタンは少年のように微笑んだ。


「行こう」


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