一章 死体と魔法と侵入者・前

「なんにも悪いことしてないわよっ!」


 そう叫びながらも少女は死角への注意を忘れなかった。

 右後方に三人、まっすぐ左に一人。囲みを突破するなら薄いところ――一人の側を狙うのが定石だが、少女は右に走った。そちらにいた三人が虚を突かれたのは一瞬のこと、すぐさま適切な判断を下し、連携を密にするため位置を調整する。

 少女が右手を突き出した。鍛えられた指ではなかった。弓などひいたら一発で皮膚が裂けそうな頼りない指には、何も握られていない。仮に何か持っていたとしても、男たちに届く距離ではなかった。もちろん、懐に飛び込めるような間合いでもない。


「っ! 散開!」


 にも関わらず、三人の男たちは素早くその場から飛び退った。少女は根性という単語を二十回ひねってもう一度固めなおしたような笑みを浮かべ、三人がいた位置を走り抜ける。口の中だけで何事か呟く。

 右にいた一人の気配が少女の背後に迫る。彼だけは逃げずに追ってきたのだ。殺気ではないが、それに近い何かが迫ってくる。少女は振り向かない。肩の上に片手を持ち上げ、握りこんでいた何か親指で弾いた。

 直後、男の目の前で光が生まれた。


「くあおぁぁああっ!」


 光を直視してしまった男が、顔を押さえてのけぞった。

 少女が弾いたのは、携帯式の閃光弾だ。表面をこすって熱を持たせると、数秒後に閃光を発するようになっている。本来は獣除けに用いられるもので、高価なものでも珍しい道具でもない。殺傷力などかけらもないようなものだが、使った距離が近すぎた。閃光弾を食らった男は、鈍器で痛打されたような苦しみを味わっているだろう。しかし、その苦しみも長くは続かなかった。少女が男のみぞおちに、全体重を乗せたかかとを叩き込んだのだ。今度は苦悶をもらす間もなく、男は動かなくなった。


「このガキ!」


 一旦散開した三人が、再び少女を包囲した。


「あんっ……」


 あんたらうざったいのよ真っ黒い格好してゴキブリみたいにぞろぞろぞろぞろ。ゴキだったらゴキらしく隅っこ行きなさいよと少女は言うつもりであったが、言えなかった。


「……うげ」


 周囲の建物から、男たちと同じような格好の男女が大勢、少なくとも十五人は集まってきている。ゴキブリは目撃数の二十倍潜んでいるものらしい。それに比べれば全然少ないのだが、ゴキブリ百匹潰すよりも、人間十人の包囲を突破するほうがずっと難しいのは言うまでもない。


「観念しろ」

 男の一人が言った。

「逃げられるものではないとわかってるのだろう」

 別の男が言った。

「捕虜の扱いは国際法を順守すると約束する」

 さらに別の男が言った。


 少女は男たちの識別を試みたが、三秒で諦めた。いや、もちろん見分けはつく。夜間とあって黒い制服は視認性が悪かったが、周囲の建物のあちこちにたいまつが掲げてあるので真っ暗ではない。体型で判断するには十分な明かりがあった。少女は男たちを識別する必要を感じなかったのである。この三人を見分けたところで、すぐに十五人追加されるのだから。

 少女は、すっ、と構えを解いた。

 説得が効いた、と思ったのだろう、男の一人が少女に近付く。


「……お前にどういう事情があるのかは聞かん。聞けば同情するやも知れん」

「そりゃどうも」

「おとなしくするなら命は保証する」


 親切心か恫喝か、恐らくは両方の意味を持たせて、男はそう言った。

 だが、少女は神妙にしなかった。

 男の手首を素早くつかみ、ひねる。


「ガキだと思ってなめてんじゃないわよ!」


 男はほとんど抵抗できずに地に倒れた。少女は男の背中に乗る。もちろん、腕はからめたままだ。

 一体どこで習得したのか、と思わせる鮮やかな極め技だった。組み敷かれた男の肩から不吉な軋みが聞こえ、男の額に脂汗が流れた。

 意外な方法での反撃に、残りの二人も反応できない。少女は近接格闘向きの体格には見えなかったし、それを見に付けているような歳にも、もちろん見えなかった。

 わずかな膠着。こちらに向かっていた男女が到着し、周辺を取り囲んだ。

 状況は余計悪くなったはずなのに、少女には余裕があった。

 ぐるりと周囲を見まわす。集まった人間は、全員同じ服を着ていた。少しだが、男のほうが多いようだ。十五人と踏んでいたが、数えたら二十四人もいた。その中の十三人が武器を持っていて、さらにその中の五人は銃を構えていた。

「近付いたらこいつを殺す!」

 少女は大声で宣言した。包囲網の誰かが「何やってんだあのバカ」と呟くのが聞こえた。少女の下敷きになっている男の顔見知りなのだろう。いや、少女を除くこの場の全員が、お互いの顔は知っているはずだ。


「貴様、何者だ!」

「近付かないで! あたしは本気!」


 少女は腰から短刀を抜いた。

 少女は真剣だったが、その声を聞いただけでは、学校に行きたくないと駄々をこねる小さな子供にしか思えなかっただろう。今や人質と化した男がうめいたが、どのくらいの説得力をかもし出したかは不明だ。

 にらみ合いが続いた。

 もっと人が増えるか、と少女は予想していたのだが、二十四人以上にはならなかった。包囲網はじりじりと縮んでいる。気付かない、と思っているのだろうか。だとしたらおめでたい連中だ。少女は慎重に距離を測った。まだ遠い。

 包囲は冗談抜きで全周に及んでいる。右も左も、前も後ろも黒い服の男女ばかりだ。となると銃を使うつもりはない、と判断できる。もう少し引きつけよう、と少女は考える。

 が、


「撃て!」


 誰かの号令が響いた。コルクを抜くような音がいくつか聞こえた時には、少女は人質を捨てて後ろに飛んでいた。直前まで少女がいた位置に、投網がいくつも被さる。暴徒鎮圧用の捕獲網投射装置だろう。立ち上がりかけた人質が絡め取られて悲鳴をあげるが、そちらにかまってはいられなかった。二十四人が一斉に動いている。

 少女はありったけの閃光弾を地面に叩きつけ、目を閉じた。方々で悲鳴と罵声が上がる。

 目を開けるより早く、背後から風圧を感じた。その場に伏せる。地面に手をつき、両足を広げた。変則的な水面蹴り。真後ろで悲鳴。声からすると女のようだが、いちいち判別してはいられなかった。短刀を唇にくわえ、両手で地面をつかんだ。獣のような姿勢で横に飛ぶ。着地と同時に短刀をしまう。血を流すのは好きではないし、荒事の専門家と近接格闘するつもりなど毛頭ない。

 では、少女は何を武器に闘うつもりなのか。

 閃光弾はそれほど効いていなかった。せいぜい五人がふらついている程度。獣除けの閃光弾では、文字通りの眼前で炸裂させないと、一撃で行動不能に持ち込むのは不可能だ。それでも乱戦に持ちこんだ意味はある、と少女は思った。

 十九人、と頭の隅に記録。

 まともにやって勝ち目のある数ではない。

 少女は片手を突き出し、叫んだ。


「《将雷》!」


 少女の手の甲に、一瞬、不可思議な紋様が浮かんだ。手のひらが指す先、何もない空間に、突如として稲妻が生まれる。

 魔法――世界の法則を知るものにのみ許された力。

 指向性のない稲妻はほとんどが地面に吸われたが、運悪く発生点の近くにいた何人かが、全身を震わせて倒れた。悲鳴をあげる暇もない。


「バカな、こんなガキが!」

「驚いている暇はないよっ!」


 少女は周囲に怒鳴り返し、違う方向に手のひらを突き出した。


「《忠雷》!」 


 再び生まれる、やや大きな稲妻。

 だが、今度は男たちの反応も早かった。稲妻の速度には対応できなくても、少女の予備動作を見れば、大方の位置とタイミングはつかめるのだ。


「捕まえろ! 接近すれば魔法も使えないはずだ!」


 誰かが叫んだ。それに応じて、少女の近くにいた男たちがにじり寄る。先に人質に取られた男のような失敗をしないためだろう。見た目で油断してもらえるのは一度だけだ。

 が、少女には余裕があった。


「《重子》!」


 唱えると同時に、男たちの動きが鈍った。突然重くなった体に戸惑う男たちの隙間を、少女は一気に駆け抜ける。少女に向かって伸びた手が、見えない手に引っ張られたかのように落ちる。手の持ち主の顔には一様に「信じられない」と書かれていた。その表情のまま、姿勢を崩して次々に転ぶ。

 何をされたのか、誰もわかっていなかった。短い混乱の間に、少女は囲みに突入していく。どこか楽しむような笑みが、幼い顔を飾っていた。


「《翼手》!」


 次の呪文で、少女は宙に飛び上がった。空を飛んだのではない。が、通常人の筋力ではあり得ない高さに到達し、さらに包囲を抜ける。

 だが――


「きゃわっ!」


 少女は無事に着地できなかった。背後から撃ち込まれた投網が足にからまり、姿勢を崩して地面に落ちたのだ。

 ぽん、ぽん、ぽん、と連続した発射音。少女の上に次々と網がかけられる。少女は短刀を抜いてそれを切ろうと試みたが、動くほどに絡まってしまう。

「あたしは絶滅寸前の野生生物かっ!」

 誰に向けたものなのかわからない叫びに、投網の発射音がかぶさる。投網の四隅には錘がつけられていた。さすがに脱出不能だと思ったのか、少女は間もなくおとなしくなった。


「手間かけさせやがって、ちび」

「……ちびって言うな」


 網の隙間から声が聞こえた。もちろん、互いに姿も見える。少女は苦労してそちらに目を向けると、網の中で手のひらを返した。


「《響雷》!」

「ぐああっ!」


 先ほどの三倍もの威力の稲妻を浴びて、その男は昏倒した。 


「死にたいやつからかかっておいで!」


 少女は啖呵を切ったが、網の中では格好つかないことはなはだしかった。


    †


 唐突だが、少女を捕らえようとしているのは軍人である。

 帝国軍第三駐屯地、が彼らのいる施設の名前である。

 軍施設で大暴れしている魔法使いの少女、などと言うとなんだか壮大な理由と生い立ちと使命と、おまけにいわくと伝説がありそうに聞こえるが、実際にはそんなものはない。高級料亭のテーブルクロスのしみほどもない。少女は白い肌に黒い髪の、どこにでもいる帝国人だ。言うまでもなく、軍人ではない。

 では、少女は一体何をしていたのか、が気になるところだが、それは当人が語ってくれるのを待つことにして、ここでは、舞台となる第三駐屯地、及び帝国について、いくらかの解説を試みることにする。

 帝国はその名の通り、皇帝を頭とする独裁色の強い国家であるが、数多の物語に描かれたような「悪の帝国」というわけではない。帝政は政治の一方式に過ぎず、その形態に善悪を当てはめるのは無意味であろう。

 重要な点は一つだけだ。

 帝国はこの時、戦争状態にあった。それも、負けるだろうとほとんどの国民が理解している戦争だ。そうなってしまった理由は「独裁の悪い面が出てしまったから」である。もっと深い考察も可能ではあるが、本筋と関係ないので省略する。

 結果を言えば帝国は戦に負け、解体されて分割統治されてるのだが、この時点ではまだ健在であった。少なくとも軍部と皇帝は、降伏を選択肢に入れていなかった。

 負けると予想されていても、(また、国民が勝利よりも終戦を望んでいたとしても)それでもやめられない理由が、国家にはある。何とかして戦況を覆す必要がある。と、首脳部は考える。それは同時に、なぜ戦況が悪化したのか、を考えることでもある。かつて、帝国軍は不敗を誇った時期もあった。それが一変したのはなぜか。

 ぼんくら皇帝は考えられなかったようだが、将軍たちはそうでもなかった。帝国の敗因は既にわかっていた。

 魔法の実戦投入が遅れたから、である。

 古くから「神秘の力」、「神の奇跡」として各地の宗教に伝えられてきた魔法が、技術として(あるいは武力の一部として)活用できると帝国軍首脳部は気付けなかったのだ。伝統と歴史ある帝国騎士団の威光が、時代の流れを見失わせたからと言えなくもない。戦勝国には実績のある古い戦術に固執する傾向が見られる。結果、次の戦争には負ける。湖のときの帝国がそうであった。

 魔法を使えない限り、帝国軍に未来はない。

 遅れ馳せながらこの意見が上申され、皇帝もようやく許可を出した。滅びるよりはなんでもやってみろ、というやけっぱち気味な命令だったらしい、と連合寄りの立場にある歴史学者なら分析するだろう。

 そういった背景で、その日の一ヶ月ほど前から、第三駐屯地には新設の魔法部隊が駐留していた。


 ここで少しばかり時間をさかのぼる。

 場所も多少、移動する。

 少女が警備兵に発見された時刻、第三駐屯地の上級士官用の宿舎では、ある事件が発生していた。


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