Ⅲ

 目覚める。顔面に激痛。ジンジンと耳鳴りがする。口の中いっぱいに血の味が広がっている。視力は回復していた。「あー」と声を出しても、骨伝導のみの違和感のある音しか聞こえない。鼓膜が破裂したのか。それとも別の傷害を抱えたのか。まあいい。この肉体もじきにいらなくなる。

 顔面が痛むのを我慢して、起き上がる。背中も痛いことがわかる。

 脇に大柄の男が倒れていた。こめかみからバールを生やしていた。少しずつだけど、そこから血が漏れている。明らかに事切れていた。

「あーあ、やっちゃったよ……」

 殺してしまった。でもまあ、いいか。どうせ最終的に殺すわけだし。

 だけど、ちょっと、急に気になることができた。

 もしその人間の生体反応がなかったら記憶を抽出ってできないのか?

 死んだら、酸素が脳に行き渡らなくなったら脳細胞って死んでいくんだっけ、よくわかんないけど。

 意識が飛んでからどれくらい時間が経ったのかわからなかった。それほど時間は経過してはないだろうけど、でもこいつが取り返しがつかないくらい死ねる時間はあったはずだ。

 台車に載せる。死体は重い。この重さも久しぶりだ。

 へっ、顔面を殴るだけでなんだってんだ。至るところを殴られてレイプだってされたことあるあたしを舐めんな。

 台車を押してエレベーターへ。エレベーターでコンピュータールームへ。

 バールは抜いた。付けた状態だとヘッドギアが入らないから。

 椅子に座らせる。死体はぐったりしていて、中々姿勢が決まらなかった。血で滑る。ぬるぬる。なんとかヘッドギアをつけ、モニターへ向かう。『アンインストール』の項目を選ぶ。血で濡れた手でもちゃんと反応した。

『保存先を選んでください』

 保存先? 記憶を保存する先か? 知るかそんなの。適当に選んじゃえ。

『本当にアンインストールしますがよろしいですか?』

『YES/NO』と表示される。迷わず『YES』だ。YES! YES!

『180秒後にアンインストールを開始します……規定場所に対象者が現れない場合は自動でキャンセルされます……』

 数字が減り始める。おっ、いけそうか。大丈夫か?

 やがてカウントダウンが終わる。静かに終わった。

『アンインストールを中止します……』

 ああ? 中止? やっぱり死体じゃ無理なのか。

 舌打ちして死体を解放する。椅子から引きずりおろす。

 興奮で痛みを忘れていたが、また顔が痛くなってきた。ガンガンする。畜生、好き放題殴りやがって。もう一発顔に蹴りを入れてやった。

 物事はポジティブに考えよう。こうボロボロになったから安易に不知火雪を油断させることができそうだ。

 エレベーターで倉庫へ。結局意識があるとないとでどう差異があるのかわからずじまいだ。意識のあるまま捕らえる必要がある。

 ロープを用意した。ジーンズに挟んで隠す。

 さあ、彼女はどこにいるだろうか。食堂か? それともまだ外か?

 エレベーターを降りて食堂へ向かう。突然廊下の角を曲がってきたりしたらいけないので、足を引きずる演技を。もちろん足なんて痛くないけど。痛いのは顔だけ。

 と、突然食堂の扉が開く。

 あたしの身体が出てきた。すぐにあたしに気がついて走ってくる。

「――? ……………!」

 口は動いているが、声が聞こえない。やはり耳に障害があるようだ。でも概ね言っていることはわかる。

「孝太郎さんが……襲いかかってきたんです……」

 それを聞いて彼女の顔が青ざめる。また何かを喚いている。

「こっちが反撃して……動かなくなったから逃げてきた……」

「どこにいるの?」みたいな口の動き方をした。これはこっちで捕まえなくてもわざわざコンピュータールームへ行ってくれそうだ、手間が省ける。

「こっち」

 あたしが歩き出すとそれについてくる。あたしの身体を支えてくる。何か言っているが、聞こえないので無視する。

 エレベーターに乗ってコンピュータールームへ。すごく順調に物事が運んでいる。怖いくらいだ。

 椅子に座れと言って座るはずがない。関孝太郎の死体を発見したら駆け寄るだろう。そこへ背後から近づいてひとまず縛り上げる。そこから乱暴でもいいので椅子へと連れて行き、そこでがっちりと拘束する。そして不知火雪の記憶をアンインストール。そしてこの身体からあたしの記憶をアンインストール。椅子が二つあったらよかったのに、そしたらもっと簡単に事が済みそうだ。ここで問題が発生するのだが、この時点でどちらも記憶を持たない状態にリセットされているのだ。人工記憶は持ち合わせていると思いたい。それだったら基本的な読み書きはできるはずだ。こっちからメッセージを残し、それの通りに行動してもらえばいい。もちろん絶対にそうなるという保証はない。一種の賭けだ。だが、周りに何もなく、当てもなかったら指示に従うしかあるまい。あたしだったら従うね。そしてあたしの身体にあたしの記憶をインストール。この身体は始末。完璧とは言い難いけど、これが最善の策のはずだ。あたしはあたしの身体を取り戻すんだ。

 関孝太郎の死体が見え始める。ハッと表情を変えて不知火雪もといあたしの身体はそれの許へ駆け寄る。思った通り。

 何か言っているけど聞こえない。背後から近づく。

 もう少しで射程距離というところでハッと振りかえられた。ロープを構えたあたしの姿を思いっきり見られた。

 彼女の判断は早かった。立ち上がってあたしから逃げていく。待て。逃がすか。

 だが、すぐに脚がもつれてこけた。チャンス。とびかかり、伸しかかる。ロープなんて邪魔だ、投げ捨てる。実力行使だ。あたしの身体を反転させる。気絶しない程度に、心を折る程度に殴る。先ほど自分がやられたみたいに殴る。だが、あんな考えもなしには殴らない。一発一発相手の表情を確かめながら殴る。決して気絶はさせない。どうせあたしの身体だ、あたしが何しようと勝手なんだ。どうせ傷ついても死にさえしなければあの治療カプセルでどうとでもなる。

 意識が飛びそうな表情をしたらすかさず殴って意識を保たせる。

 どれくらい殴ったかわからない。反撃する気配すらなかった。最初のうちは泣きながら何か言っている気がしたが、耳が機能していないので何も聞こえなかった。

 顔は腫れ、見る影もなかった。だが、目は開いて微かに涙が零れている。抵抗する気はもうなさそうだ。腫れた頬をぺちぺちと叩く。ぐう、と苦しそうな顔をする。鼻から目から口から血が出ている。

 一応縛っておこう。投げ捨てたロープを拾い上げ、腕と胴体を縛る。

 ふくらはぎを持ち上げ、椅子のところへと引きずっていく。

 椅子に座らせ、ロープを解き、今度は胴体を椅子と一緒に縛り上げる。これでもうどこにも逃げられない。

 一切の反撃がなかった。これはこれで何だかつまらない。複雑な気持ちだ。

 ふと、不知火雪があたしの目を見てきた。何かを訴えたがっているような表情だ。あたしが手を止めると、彼女の唇が「う」の形をした。

「う?」

 う、あ、あ、い。彼女の口がそう動いた気がした。そして急に彼女の目から涙が零れ始める。

 う、あ、あ、い。……まさか、すまない、か?

 反射で腫れた頬をもう一発殴った。すまない? 何に対して謝ってんだこいつ。もしかしてあたしの記憶奪ったこと自覚してんの?

「だから何だってんだよ。許されると思ってんのか?」

 髪の毛を掴んで顔を持ち上げる。うう、と呻くだけでもうそれ以上喋ろうとはしなかった。

 あばよ、と別れの挨拶を告げ、ヘッドギアを頭に嵌める。腫れあがった顔でもちゃんと入った。皮膚に触れると苦しそうに顔を歪める。我慢しろよそれくらい。あたしだったら我慢するぜ?

 よし、アンインストールだ。さっきの関孝太郎と同じ行為を繰り返す。だが、今度は保存先をちゃんと指定する。

『E00156802』。ここに保存する。この記憶のあるべき場所だ。これで二度とこの記憶が掘り起こされることはあるまい。迷わず『YES』。

『180秒後にアンインストールを開始します……規定場所に対象者が現れない場合は自動でキャンセルされます……』

 これでいい。あたしの身体はあたしのものとなる。もう誰にも渡さない。

 カウントがゼロになる。ヘッドギアの突起が一瞬大きくなったかと思うと、全て内部に吸い込まれていった。刺さったのか? うっと声を漏らし、自分の頭を押さえる。本当に大丈夫なのか? インストールするときもあんな感じでハリセンボンに突き刺されたのか?

 ヘッドギアが明滅する。あたしの身体が痙攣する。

 時間は数えていなかったが、少なくとも数分は経った。気の抜けるような音でヘッドギアの突起が再び現れる。拘束もとれたみたいだ。モニターをみる。

『アンインストールが完了しました』

 続いて現れる白抜きの文字で『E00156802』。完璧だ。

 次の作業に入る。あたしの身体だからって丁寧に扱うと思うな。椅子から引きずりおろしてそこらへんに投げおく。意識はまだあるようだったが、痛みで動けなさそうだ。どちらにしろ、記憶がないので何が起きているのかわからないだろう。

 あらかじめ用意していた紙に、記憶のなくなったこの身体へのメッセージを書く。


『お前は記憶がないのだろう。安心しろこの紙の通りに行動すれば記憶が戻る。

 まずそこに寝ている女の身体をお前が座っていた場所に座らせるんだ。

 ヘッドギアを嵌めろ。意識を失っていたらどうにかして目を覚まさせろ。

 そしてモニターへ向かえ。アンインストールとインストールが選べる。

 インストールを選び、「A00169900」と入力しろ。

 そのあとの選択は「YES」だ。

 180秒後、お前は自分の運命を知る。

 いいか、絶対にこの通りに行動しろ。でないと、お前の記憶は一生戻らない。』


 これでいい。この紙をあたしの身体のTシャツに貼り付ける。ここに貼れば否が応でもいつかは気づくはずだ。

 さて、時間だ。これからあたしの記憶は一旦身体を離れる。上手くいくかはわからない。何とも言えない。だが、信じよう。わずかな時間だが共にした身体だ。この身体を信じるしかない。

『アンインストール』を選択し、『A00169900』を保存先として指定する。特に意味はない。黒抜きの番号で最初に目についたから選んだだけだ。

『本当にアンインストールしますがよろしいですか?』

『YES/NO』と表示される。少し躊躇ってから『YES』を選択した。ふう、と息を吐く。深呼吸。大丈夫、大丈夫だ、あたし。

『180秒後にアンインストールを開始します……規定場所に対象者が現れない場合は自動でキャンセルされます……』

 時間は三分もある。焦るな。さあ、行くぞ。

 椅子に座る。ヘッドギアをつける。血の臭いがした。それがあたしをひどく安心させてくれた。

 もう一度深呼吸。もう一回、もう一回。

 顔が固定された。急に呼吸ができなくなる。

 そして――

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