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 この数ヶ月間、記憶のないまま、作られた記憶のままで生活してわかったことがある。物事とは総じて単純なものなのだ。簡単すぎて、ときにはそれがわからなくなる。要は何事も難しく考えすぎなのだ。

 人間はどうしようもなくいなくなっているし、街の外は砂漠化している。この世界にいるのは私と、不知火雪と、関孝太郎だけ。目の前にあることが事実で、現実なのだ。いくら想像を巡らせようと、それは変わることがない。

 だからこそ、だからこそ私は自分自身の記憶を探そうと思った。

 街の外を見てから約一ヶ月が経っていた。関孝太郎は、昨日またどこかへ出かけていった。彼はこの街を個人的に調査しているらしい。この街が自分の記憶にある故郷だと言っていた。自分の本当の家でも探しているのだろうか。

 いつもなら私は不知火雪の仕事を手伝っているのだが、少し一人で過ごしたい、と彼女に言ったところ、私が深刻な表情でもしていたせいか、「気のすむまで悩むがいいさ」と言ってそれ以上私に干渉しようとはしなかった。

 数か月すごすうちに私は私の番号を忘れてしまっていた。日々膨大な情報が脳に送り込まれてくる。ただの文字と数字の羅列、意識して覚えなければすぐに忘れてしまう。だからもう一度自分の番号を探すところから作業を始めた。

『E00156802』。これを思い出し、調べるのに半日ほどかかってしまった。紙に書きつける。書いた紙はジーンズのポケットにしまった。これで忘れても大丈夫だ。

 私の記憶はどこへ行ってしまったのか。元々存在しなかったのか? いや、そんなはずはない。私の眠っていた棺桶の番号は『E00156802』。そしてデータベースにもこれと同じ番号が存在していた。記憶を保存する必要がないのであれば、はたしてデータベースの中にわざわざ保存先を作る必要があるのだろうか? 私の『E00156802』の次は『E00156803』ではない。何を基準としているのかわからないが、このナンバリングは全ての数字を網羅しているわけではないのだ。

 自ずと一つの解答へ行き着く。

 誰かが私の記憶を奪ったに違いない。

 奪ったという言い方は語弊があるかもしれない。故意に他人の記憶を自分の脳に組み込もうなど、よほどの事情がない限りするはずがない。記憶専門の泥棒でもいれば話は別だが、時代が時代、状況が状況だ。他人の記憶を手に入れたところで何もメリットがない。

 奪ったのでないとしたら、間違えて他人の記憶をインストールしたのでは?

 私の立てた仮説はそれである。それがもっとも現実的だと思う。

 私の番号は『E00156802』。これだけの長さの数字と文字の羅列であれば、パッと見ただけでは覚えられまい。現に私も自分の番号で覚えていたのは『E』とそれに続く数字三つだけだ。『E001』……この次の数字は『5』だっただろうか、『6』だっただろうか、というような感じで、かなり曖昧だった。

 だが、そこで一つ自分の行動と矛盾が生じる。

 目覚めたとき、一度見た自分のナンバーを覚えていたのだ。脳に焼きついたかのように『E00156802』という数字を暗唱できたのだ。これが意味することは何か。

 記憶は劣化する。一度覚えたことでも他の膨大な情報量に圧迫され、記憶の奥深くへと沈んでいく。

 目覚めた瞬間、私たちは自分の記憶を持たない状態なのだ。私の場合、年齢的に十五、六歳だとしたら、十五、六年分の記憶を持たず、生きていく上で必要最低限の知識を与えられただけの状態で目覚めた。でもそれだけだ。ハードディスクがほぼ空っぽの状態なのだ。その状態で記憶に刻まれたものであれば、記憶のサルベージは非常に容易なものであるはずだ。

 だからこそ、最初に見た数字が間違っていたら、それを間違いだと知ることがなければ、そのままその記憶が固定されてしまうはずだ。

 世の中は思っているよりも単純なのだ。

 自分の棺桶の前に立つ。棺桶の側面にも番号が掘り込まれている。身体を屈めて、その番号を見る。棺桶に刻まれた数字もデジタル数字と同じ字体だ。

 例えばこの『E』という文字。指で下の線を隠すと『F』にしか見えなくなる。逆に、下の線が隠れているせいで『E』とも『F』とも判別がつかなくなっている、とも言える。例えば数字の『6』。横の一画を隠すだけで『5』というふうに見えるようになる。数字の『8』は隠す位置によってはどんな数字にも化ける。

 さらに、この数字と文字の羅列であれば、逆さから見た際に『208951003』となる。実際に私も一度、棺桶の横に刻まれた数字を読み間違えた。だが、これは文字を含まない。もしかしたら『Z』という文字を『2』という数字に空目したのかもしれない。それだったら『Z08951003』というナンバーになる。

 自分の番号を見間違えた。そう考えたほうが探す目途が立つ。といっても、組み合わせを考えれば膨大な量になるが。

 存在する数列もあれば存在しない数列もある。記憶のデータのある数列もあれば記憶のデータのない数列もある。

 広大な冷凍睡眠室で当てもなく動き回るよりも、コンピュータールームで未だに持ち主のいない記憶を探すほうが労力がかからないと判断する。

 私の番号『E00156802』。これにわずかな変化を加えて、その記憶のデータがあるのかないのかを確かめていく。データがなければ、犯人はその記憶番号の持ち主ではない。データが残っていれば、私の記憶を奪った犯人である可能性がある。

 コンピュータールームへと足を踏み入れる。関孝太郎は今この建物にいないし、不知火雪は不知火雪で自分の仕事をしている。誰もこの場所に入ってくるはずがない。

 巨大なモニターの前に立つ。記憶関連のページを開いていく。検索画面が出てきた。

 最初に『Z08921003』というナンバーを打ち込んでみた。『検索中』という文字が数秒点滅した後、結果が表示される。

 あった。白抜きの文字で『Z08921003』と表示されている。データが現存している。ポケットから自分の番号の書かれた紙を取り出し、その裏に今表示されている番号を書き写す。

 番号で詳細を見ることができるのか、と色々試してみたが、この番号はあくまでも記憶をナンバリングしているだけらしい。冷凍睡眠室の各々の棺桶のモニターみたいに詳細情報が載っているわけではない。

 諦めて前の画面に戻り、次の候補番号を打ち込む。『F00156802』。『データが存在しません』と表示される。この番号の持ち主は犯人ではない。

 文字、数字を変えては検索を繰り返す。だが、いくら検索をかけても記憶のデータが残っているものは少なかった。

 何通りくらいの番号を検索しただろうか。紙には十三通りのナンバーが書き込まれていた。まだまだ考えれば組み合わせはありそうだったが、余白が足りない。どこかで目途を立てないと、延々とここに座り続けることになるだろう。今日はこれだけにしておこう。

 そろそろ夕食の時間だ。どちらにせよ、このコンピュータールームにはしばらく用はない。続きは夕食を食べてからでいいだろう。


 いつも通り味の薄い夕食を終えた後、私は冷凍睡眠室へと足を運んだ。不知火雪には部屋に帰るとだけ伝えた。

 ポケットから紙を取り出す。時間はたっぷりある。上から順番に確かめていこう。

 もしも記憶のデータが残っている番号の棺桶で誰かがまだ眠りに就いているのなら、その記憶のデータはその人物のものだ。私の記憶を奪った犯人ではない。だが、もしも誰も眠っていない棺桶なのに記憶のデータが残っているとしたら、その人物は別の誰かの記憶を自分の脳にインストールしている可能性がある。つまりその人物が犯人の可能性が高い。

 しかし、あくまで可能性が高いだけであり、私の記憶を奪ったのがその人物か否かは、それこそ神のみぞ知るであって、確かめようがない。

 だとしたら、なぜ私はこんなことをしている? 自分の記憶を奪った犯人を捜して何になる? そのような疑問が私の脳内を駆け巡る。

 確かに無意味かもしれない。いや、無意味なのだろう。

 でも、それでも、私はただ、答えが知りたいだけなのだ。それが正解でも、間違いでも。納得できればそれでいい。私自身が満足できればそれでいい。

 一つ目の棺桶を探す作業に入る。『Z』はアルファベットの最後の文字だから、棺桶は隅のほうにあるはずだ、と推測を立てる。『Z』群の棺桶は案外すぐに見つかった。

『Z』の中で、目的の番号を探していく。何も考えずに虱潰しに画面をタッチして起動させていくほうが早く見つかる気がした。

 中に人が入っているものはほとんどなかった。十数個起動させて、中に人が入っていたのは一つだけだった。

 二十三回目のモニター起動で、とうとう出た。

『Z08921003/2134/01/18』。

 画面にそのナンバーの凍刑囚の画像が映し出された。

 写真を見た瞬間、眩暈がした。心臓が高鳴る。呼吸が乱れる。

 ――そんなまさか。

 予想だにしていなかった。これは単なる偶然か、それとも――

 映し出されたのは少女だった。私と同じくらいの年齢の少女。だが、それが誰なのかははっきりわかる。断言できる。雰囲気でわかる。面影でわかる。

 ――不知火雪……。

 全身の力が抜け、膝が折れ、床に座り込んでしまった。

 もちろん、目の前の棺桶の中には誰も入っていなかった。

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