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死刑制度が見直されたのが西暦二〇三六年のこと。死刑を実施する国が一部の国のみとなった時代のこと。果たして死刑制度の維持にどれほどの意味があるのか、とより強く議論されるようになった時代のこと。
他国は死刑の代替として終身刑を採用していた。この国も死刑制度の取りやめを決めた。だが、死刑の代わりに、死刑に相当する人間をコールドスリープさせるという発想に至ってしまった。
コールドスリープの技術が完成したのが二〇三四年、つまり死刑制度が見直されるつい二年前のこと。二〇三六年の時点で実用化はされておらず、運用は二〇五九年からの予定だった。あらゆる動物で短期間の実験を積み重ね、理論的には人体でも可能だったが、人体実験を行うとなるとまた倫理的に問題がある、とあらゆる方面からの非難を受けてしまうことを恐れて、人間に試せないでいた。そこで考えられたのが、死刑囚による人体実験。死刑囚をコールドスリープ装置に入れ、まずは短期間からの実験を開始する。やがて冷凍睡眠させる期間を徐々に延ばしていき、最終的に十年スパンで冷凍して、それが成功すれば、すでに予約殺到していた十年以内のコールドスリープ計画を二〇五九年を待たずに即運用開始。死刑囚たちには引き続き実験に参加してもらい、二十年、三十年、四十年……やがては百年単位での冷凍睡眠を実現できるようなものへと改良しようと計画された。
計画もやはり多方面からの非難が殺到したが、「殺していない、それに我が国の技術発展のために必要な犠牲だ」との主張で半強制的に採決。二〇三七年より死刑の代替として冷凍睡眠刑が導入された。
刑が確定し次第、即座に囚人は冷凍睡眠させられた。それまでに死刑が確定していた死刑囚も異例のことだが刑を変更され、冷たい棺桶の中に押し込められた。最初に睡眠に入った者は八名。半年間の長い長い眠りだった。
その刑罰は俗に凍刑と呼ばれた。
半年後、最初の凍刑囚が目覚める。科学者たちは彼らの検査を行った。最初に目覚めた凍刑囚は「寝ているときとなんら変わらない。ただ、ちょっと寝る前に何をやっていたのか覚えてないが」と話したという。検査終了後、その八名とさらに二名加えた十名の凍刑が執行された。今度の期間は一年間。
一年後、彼らは目覚める。七名は異常がなかった。まるで長い間眠っていたようだ、と、眠っていたことを実感しているものもいた。異常が起きたのは三名。彼らは、自分の名前や周辺事情を即座に思い出せなかったのだ。二人はカウンセリングを行うことで完全ではないものの徐々に思い出したが、一人はもう駄目だった。おぼろげな記憶はあっても、彼は何もはっきりと思い出せなかった。彼は精神病院へ送られた。
この頃、凍刑囚専用の施設が造られた。実験を行いながら、凍刑囚を収容する施設。収容限界人数はおよそ百八十人。初期段階としては十分すぎるほどのキャパシティだった。
三回目の凍刑は少し間を置かれて実行された。原因は記憶を失った三人だった。彼らはなぜ記憶を失ってしまったのか、多くの議論が交わされた。
三回目。二〇四〇年。前回までの九人にさらに四人の凍刑囚が加えられ、計十三人での執行となった。期間は二年。彼らが眠っている間も記憶の消えた原因は探られた。そして二年後の二〇四二年。彼らが目覚めたとき、恐れていた事態が起きた。十三名全員が自分のことを思い出せなかったのだ。うち四人は完全に記憶を忘れ去り、うち一人に至っては言葉を発することすらできなくなっていた。最もひどい症状だった凍刑囚は初期段階から実験に参加していた者だった。
はたして彼らに何が起きたのか。人々は思考した。そして一つの当たり前の結論に辿り着いた。
記憶は劣化するのだ、と。
我々は日々記憶を、過去を、自分を反復する。反復しない記憶は忘れ去られていく。極々当たり前の事象である。はたして、人は今までに食べたパンの枚数を覚えているのだろうか。覚えているわけがない。反復しないからだ。今日は一枚食べた、昨日は二枚食べた……だから私は生涯で二千五百二十一枚のパンを食べてきた、と毎日毎日馬鹿みたいに頭の中でパンの枚数を計測する人間などこの世に存在するはずがない。
凍刑囚は冷凍睡眠の最中、過去を、自分を、記憶を反復するということをしていなかった。きなかったのだ。眠っている間に記憶を反復するなどできるわけがない。夢だって記憶の反復に他ならないが、不確定要素が多すぎる。
この問題をどう解決すればいいのか。人工的に冷凍睡眠者に夢を見させる技術を確立すべき等の意見も出て、その場合新たな理論が云々という、より複雑な話になりそうだったが、案外解決は早かった。
二〇三九年、人の思考を脳から抽出する技術をこの国の科学者が大成させた。その翌年には人の記憶をデータとして取り出すことにも成功した。
これだ、と科学者たちは飛びついた。データとして記憶を取り出し、それを保存しておくことができれば、そのハードが破損しない限り、データが劣化することはない。だが、その段階ではまだ脳から外部のコンピューターへと記憶を移す一方通行の技術しか存在しなかった。
コールドスリープ計画への予約問い合わせは止むことがなかった。一時も早く実用化されることが望まれた。人々の関心はいつだって目新しいものへ飛びつくのだ。経済的効果も見越した国は、総力を掲げて記憶を移動させる技術の研究を始めた。技術の進歩は極めて速かった。一方通行ではない、脳からコンピューターへ、コンピューターから脳へ、の記憶の移動が可能になったのはわずか十年後、二〇五二年のことだった。
その翌年、四回目の凍刑執行。今度は大掛かりなものだった。約七十人の凍刑囚が記憶をコンピューターに移され、コールドスリープ装置に入れられた。期間は十年。今回の冷凍睡眠が成功すれば、二〇六四年に最初のコールドスリープ計画予約者が十年以下の眠りにつく運びとなった。技術確立から実に三十年後のことだった。
凍刑囚の記憶はすべて同一のコンピューターで管理されることになった。基本的に記憶はすべて抜き取るため、記憶のなくなった者はただの『歩く植物人間』になってしまうことも確認された。『歩く植物人間』とは、意識があるかどうかは判然としないが、動くことは辛うじてできる人間のことである。記憶のコピーは禁止された。記憶をコピーすることで、何かのミスが生じて同じ記憶を持った人間が二人現れてしまうと余計な混乱を招きかねないし、とどのつまり同じ人間が二人存在してしまうことになりはしないかと倫理的な問題が指摘されたためである。計画の支障になるような民衆の意見は散々無視されてきたが、こればかりは上の人間も認めざるを得なかった。
また、『歩く植物人間』という存在についても議論が交わされた。記憶を抜き取るということは、生きるための知恵、知識もすべて奪われるということである。それでは、万が一記憶が紛失してしまった際にどうするのか。コピーが禁じられた今、それが問題となった。解決案として示されたものが、共通の、最低限の知識を持った人工的な記憶を作ってしまえばいいというものだった。七十人の凍刑囚が目覚めたとき、また実用化された後に各々目覚める者たち、彼らが一斉に記憶を戻せるわけではない。自分の記憶が戻るまでにその人工の記憶を与えて最低限の生活の保障をしてやろうではないか、という意見が通った。かくして人工の記憶が作られた。
二〇六三年、第四回の凍刑囚たちが目を覚ました。とりあえずの記憶として人工記憶が与えられた。共通の記憶といっても名前や近辺の事情を知るものではなく、日常生活で困らない範囲の知識と語彙だったので、同じ記憶を持つ人物が大勢存在するという事態にはならなかった。みなが一様にただの記憶喪失者となったのだ。一人ずつ本来の記憶が与えられた。すると、以前の記憶を持った彼らにちゃんと戻った。実験は成功だった。
かくしてコールドスリープ計画は実用化された。二〇六四年に第一回目の一般人が深い深い、長い眠りへと旅立っていった。
だが、凍刑制度はそれでなくならなかった。翌年、十年の眠りから目覚めた七十人の凍刑囚は再び凍刑に処せられた。以後、三年毎に一定数の凍刑囚に対しての凍刑が執行されるようになった。
凍刑囚の施設は新調され、最大収容人数が二千四十八人と大幅にキャパシティが増大された。
成功後、二〇六五年より執行された凍刑には期限が設けられることはなかった。
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