得体の知れない女性に連れられて、私は建物の中の広い空間へと案内された。その空間には、大きなテーブルが六つあり、そしてその周りに椅子が並べられていた。

 女性は――二十代前半くらいだろうか――私に椅子を勧めて部屋の外へと出ていってしまった。敵意は感じられなかった。

 壁はベージュ色だった。目の前のテーブルにもテーブルクロスが敷かれている。出入り口は二つ。私が入ってきた観音開きの扉と、奥の方にもう一つ。

「お待たせ」

 例の女性が部屋に戻ってきた。何かを持っている。

「いつまでも裸のままじゃ嫌だろう、これを着るといい」

 そう言って私に持ってきたものを手渡してきた。広げてみる。下着と、ジーンズと、Tシャツと。裸のままであることを忘れていた。差し出された衣類を身に着ける。

 その女性も同じような格好をしていた。Tシャツにジーンズ。ひょっとして、私がたった今着たものは彼女のものなのか。それともここにいる人は皆一様にこのような格好をしているのか。

「さてと、お腹は空いていないかい? 君がいつから食事をしていないのか知らないが、まあ、空腹だろう。少し待っていてくれ。有り合わせのものでよければすぐに用意できる」

 彼女は座っておくように私に勧めると、奥のほうへと引っ込んでしまった。

 彼女は一体何者なのか。どうやら今から私のために食事を準備してくれるらしい。初対面の相手にそこまでするものなのか。もしかしたら彼女は私のことを知っているのかもしれない。

「こんなものしかないけど、ないよりマシだろう?」

 しばらくしてから、お盆を携えて彼女は戻ってきた。お盆が目の前に置かれる。パンと、薄い橙色をしたスープ、そして透明な液体の入ったコップ。

「毒なんか入っていないさ。君をここで殺しても僕にはメリットがない」

 さあ食べなよ、と勧めてくる。

 そうだ、人間は何かを食べなければならない。食欲、性欲、睡眠欲が人間の三大欲求で、それらを満たさなければいずれその肉体は死へと向かってしまう。

 スプーンを手に取ってスープを口にする。匂いはほとんどない。色と同じように味も薄かった。決して美味しいとは言えない。だが、スープを口に運ぶ手は止まらなかった。脳が食べろ、飲み込めと命令してくる。

 パンは硬かった。ぐっと指に力を入れると、もさっと千切れ、パン屑が少量お盆の上に落ちる。一口大のパンの欠片を口の中に放り込んだ。もしゅもしゅと音を立てて咀嚼する。私の口の中の水分をほとんど奪い去っていった。飲み込もうと喉に力を入れるが、思わずむせてテーブルの上に吐き出してしまった。彼女が慌てて私の許へ寄ってきて、背中をさすってくれる。コップの液体を差し出してきたので、それを無理矢理口の中に流し込んだ。

「ゆっくりでいい」と彼女は言った。

 パンをスープに浸して食べたらどうか。一口大に千切ったパンをスープへと沈める。スープを吸ったパンはしとしとになり、柔らかくなった。食べやすくなった。味のなかったパンにスープの味が加わり、多少なりとも美味しいと感じるようになった。

 彼女が見ていることなど忘れ、しばらくは目の前の食事にがっついた。

 気がつけば皿は空になっていた。いつの間にか彼女は私の目の前の席についていた。

「満足したか?」

 私はお礼を言おうと口を開く。だが、やはり私の口からは声が出てこなかった。何度も挑戦してみるが、どうしても声にならない。

「あー、大丈夫大丈夫。僕も最初はそんなんだった。喋るということを長い間してなかったらそうなるらしいね、身体が発声する方法を忘れちゃってるのさ。でも少し練習したらまた前のように言葉を話せるようになるよ。ところで、言語が違ってたらそもそも話が通じないから、ちょっとこっちから質問させてもらうけど、僕の言葉が理解できてるかい?」

 頷く。

「そうか。じゃあ、おそらくまだ記憶はないだけなんだね。君の身に一体何が起きてるのか……今すぐ説明してもいいけど、互いに意思疎通できないとちょっと厳しいかな。とりあえずまずは喋ることを練習したほうがいい。動く――ことはできるんだよね。屋上まで一人で行くことができたんだから。じゃあ次は言葉の練習だな。まずは喋れるようになってから、だ」

 私は首を横に振る。喋れないという意思表示のつもりだ。

「そりゃあ何百年も喋ってないんだから当り前さ。だから練習する。一人でしたい? 僕に付き添われたい?」

 私はまた首を横に振る。そして人差し指を立てた。立つことも、歩くことも自分でできるようになった。一人ででもできる。

「わかった」と言ってから彼女は立ち上がって「ちょっと待ってて」と部屋を出ていこうとする。私は慌てて、彼女を呼び止めようとテーブルを二回ほど叩いた。彼女はそれに気づいて振り返ってくれた。

 私は、彼女を指差した。

 彼女は、自分を指差した。

「あ、ああ、僕の名前はシラヌイ、ユキ。もし話せるようになったら――ユキでいいよ」

 そう言ってどこからか紙とペンを持ち出してきて、何かを書く。私の目の前に掲げられたその紙には漢字で『不知火雪』と書いてあった。

 彼女は――不知火雪はにこっと笑った。


 不知火雪が部屋を用意してくれた。私が目覚めた部屋や食堂よりはだいぶ狭い部屋だった。内装もシンプルで、部屋の中にあるのは簡易ベッドと小さな椅子が一つ、それに姿見だけだった。

 不知火雪は私をこの部屋に案内すると、早々に立ち去ってしまった。自由にこの建物内を散策してもらって構わないと言っていた。

 さて、確かに言葉を発することができなければコミュニケーションが取りづらい。声を出す練習をしなくては。

 立つことも歩くこともすぐにできるようになった。身体は覚えているのだ。

 まずは、声らしきものを出すことからだ。

 声とはどう出せばいいのだろう。いざ考えてみると、よくわからなかった。とりあえず、呻いてみる。

 ウァ、とか、ヴォ、とかとにかく口から音を出してみる。喉から音は出ているようだ。

 五十音の練習。まずはあいうえおの母音から練習しよう。何事にも基本になる音だ。これに「k」だとか「s」だとかの子音を付属させることで五十音が完成する。

 うぁ、うぁー、おぁー……。

 あぁ、ぁ、あああ、あー。

 あ、あ、あ、あ。

 繰り返すことでなんとなくそれっぽい音になっていく。

 い。

 う。

 え。

 お。

 あ、い、う、え、お。

 部屋には時計も窓もなかった。だから、あいうえおの五音が形になるまでにどれくらい時間が経過したのかわからない。相当経った気はする。エネルギーも思っていた以上に消費した。

 母音だけでは会話をすることはできない。五十音――計四十六音を口にできるようにならなければ満足に話すことはできない。

 何度も何度も練習するうちに、いつの間にか私の記憶は途切れてしまっていた。

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