(アン)インストール

江戸川雷兎

 ――――アンインストール中です……



 私が目を開けて最初に認識した世界は黒かった。瞼を開けても閉めても黒かった。身体を動かしてみる。すぐ目の前にも左右にも壁があることに気づいた。

 どこかに閉じ込められているようだった。

 拳を握って、どんどんどんと目の前の壁を叩いてみる。びくともしない。

 ここから出せと声に出してみようとする。なぜか上手く言葉を発することができなかった。空気だけが口から洩れる。

 自分の身体をまさぐってみる。吸盤みたいなものが全身のいたるところについており、そこからコードが延びている。左腕についた吸盤を右手で引っ張ってみる。ブチっと音を立てて外れた。簡単に外れるようなので、次々と外していく。このコードはどこに繋がっているのだろう。

 突然、プシュッと音がして、一筋の光が射し込んだ。

 世界に色がつき始める。だが、眩しさに思わず反射で目を覆う。しばらく経ってから、ゆっくりと瞼を上げる。自分の姿を確認する。一糸纏わぬ姿だった。

 外へ出ようとするが、足がもつれて外の床に叩きつけられてしまった。

 私の視線の先に、長方形の棺桶のようなものが設置してあった。銀色の棺桶の横には、一つのモニターとそれを覆うように大量のコードがそこから延びている。棺桶の下方には数本のチューブが繋げてある。

 自分の入っていた棺桶の隣にもまた同じような棺桶があった。その隣にも、その隣にも。後ろにも。前にも。視界の続く限り、どこまでも。

 遥か遠くに壁がそびえ立っている。見上げると、そこに空はなく、真っ白い天井が広がっていた。

 一体ここはどこなのだろう。自分の記憶を辿ってみようとしたところで、私は気づいた。

 私の記憶って何だろう?

 自分の、名前が、出てこなかった。


 ここにいても埒が明かない。よろよろと立ち上がってみる。すぐに倒れてしまう。自分が入っていた棺桶に手をかける。ふらふらするが、支えがあればなんとか立てる。はたして、どの方向に行くのが正しいのか。迷った挙句、一番近くに見える壁に向かってゆっくりと歩き始めた。

 腰ほどの高さの棺桶を支えに、次にモニターのところへ。だが、モニターの画面に触れたときにヴォンと音がして、驚いて背後に倒れてしまった。

 痛い。今のは何だろう。立ち上がってモニターを確認する。

 一枚の画像と、文字列が映っていた。深刻そうな表情をした少年とも少女とも判別のつかない、十五歳くらいの子どもの画像だった。その横に『E00156802/2068/04/23』とデジタル数字で書かれていた。

 恐る恐る、もう一度モニター画面に触れてみる。ヴォンと音がして、画面が切り替わった。大量の文字列が上から下へ流れてくる。いつまで経っても終わらない。気味が悪くなってきた。気分が悪くなってきた。

 起動してしまったモニターはそのままにして、先へ進むことにした。

 モニターから手を離して一歩踏み出す。だが、すぐに前方に倒れこんでしまう。受け身が取れずに絡まったコードの上に叩きつけられる。コードが皮膚に食い込む。

 何度か立ち上がっては歩こうとし、歩こうとしては倒れを繰り返す。時間はかかったが、それを繰り返すうちにいつの間にか自然な感じで歩けるようになった。

 歩きながら先ほど目にした数字を思い返してみる。

『E00156802/2068/04/23』。

 はたして覚えている意味があるのかは甚だ疑問だが、別に覚えたくて覚えたわけではない。むしろ、最初から自分の頭の中にインプットされていたかのような……。

 どれくらい歩いただろうか。ようやく壁に辿り着いた。壁の材質は金属のような、セラミックのような。コンコンと叩くと耳障りでない無機質な音が響く。

 右手に扉のようなものを見つけたのでそちらへ向かう。

 扉は両開きのものだった。取っ手は見当たらない。何とはなしに扉に触れてみると、ピッという音が鳴り、触れた個所から青白い光の筋が波紋のように扉を這っていく。壁の奥から何かが起動する音が響く。

 二、三秒ほど経ってから、ゆっくりと扉が開き始めた。

 扉が完全に開いてから奥に入った。部屋全体がぼんやりと光っている。

 身体が完全に扉の向こう側へ入ると、自動的に扉が閉まり始める。

 完全に扉が閉まると、薄暗いと思っていた部屋も案外明るいことに気づく。全体的に青っぽい部屋だった。たった今閉まった扉に向き合い、もう一度触れてみるが、今度は反応がなかった。

 部屋を見渡す。奥のほうの壁にまた色が変わっているところがあった。何かパネルのようなものだった。十八のマス目が入っている。恐る恐る人差し指を伸ばして触れる。ピッと音が鳴って、上を向いた矢印が現れた。それに触れると、今度は〇から十二までのデジタル数字と『R』というアルファベット、そしてアルファベット『B』を伴った一、二、三のデジタル数字が相次いで現れ、辺りがふっと真っ暗になった。

 急に暗くなったのでびっくりして慌ててパネルから離れる。しかし、二歩下がったところで背中に何かが当たった。壁ができていた。右へ行こうとすると、また二歩ほど歩いたところに壁があった。左方にも壁がある。

 真っ暗闇かと思っていたが、自分の身体ははっきりと見えていた。

 顔を上げ、パネルを見る。一つだけ違う、『R』という文字に触れてみる。ブウン、と低い音が耳に響く。

 瞬間、ふわりと身体が浮いた気がした。

 浮いた身体は落下せずに、そのままどんどん上昇を続ける。上を見ると、青色のデジタル数字がどんどん大きくなっていく。

『2』『3』『4』『5』…………。

 数字が『R』へ変化したところで止まった。がくんと身体が揺れる。

 真っ黒な壁が、下部から崩壊し始めた。不規則に、徐々にすうっと空気中にその黒色が消えていく。いつの間にかパネルの数字も消えていた。

 周囲を見渡して自分がどこにいるのか確認する。灰色の壁や床、天井があり、そこを緑色の蔦状の植物が覆っていた。

 壁が四角くくり抜かれた場所がある。周りの灰色よりもさらに白い世界がその向こうに広がっていた。

 ふらふらとした足取りで光の世界へ向かう。四角を潜る。

 じりじりという感覚が全身を襲う。解放感が全身を包む。見上げると青い空が広がっていた。

 視線を下げる。視界に飛び込んでくる青色と灰色の境界線。

 荒れ果てた世界だった。傾いた建物。今にも崩れそうなビル。すでに崩れたビル。それを覆い尽くすように広がる緑色の植物たち。大小様々なビル群が眼前を覆う。とても人が住んでいるとは思えない惨状だった。

 私はこんな街に住んでいただろうか。記憶を探ろうとしたが、そもそも自分の名前すら思い出せない私に探ることのできる記憶などなかった。

 なんだか、寂しかった。私はこんなところで何をしているのか。ここは一体どこなのだろうか。私以外に人間はいないのか。なぜ、私はこんな状況に陥っているのだろうか。いくら問いかけても、それに答えを与えてくれる記憶そのものがない。

 そもそも、私は何者なのだろうか。

 一気に疲れが押し寄せ、足の力が抜けてコンクリートの上にへたり込んでしまった。記憶のない私は、こんな世界でこれからどうすれば――

 背後でガシャンと音がした。何の音だろう、と振り返ってその主を確認する。

 人の姿があった。その足元には籠と、布の束が落ちている。

 唖然とした表情をしていたが、その顔はすぐに柔らかな微笑みに変わった。

 建物の中から、四角を潜ってその人はこちらへ向かってくる。髪の長い、女性だった。

「ああ、君は――」

 その女性は私の目の前に立ち、そうか、と呟く。

 誰ですか、と問いかけようとしたが、声は出なかった。

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