第三章 上野 紫

第5話 義理の娘はお父さまと結婚する夢を見る

 ここは……どこだ?

 広い野原だ。花がたくさん咲き、チョウが飛んでいる。俺は明るい野原をとぼとぼ歩くと、去年亡くなった上野うえののおばあさんに会った。

「上野のおばあちゃん!」と俺が呼んでみたのだが、彼女は悲しそうに微笑ほほえむだけだった。

 しばらくして、おばあさんが口を開いた。

「お願い……ムラサキちゃんをお願い……私の孫を……どうか、一人前の淑女レディーに……」

「おばあちゃん!」

 俺が叫ぶと、急に風が巻き起こり、花が散り、野原が暗くなっていった。

 そこで、俺は夢からめた。


「お父さま!起きてくださいまし。ムラサキを残して死んではいや!」

 家のベッドの上で目を覚ますと、ムラサキが俺へすがっていた。小学生の小さな体に、キュロットスカートがよく似合っている。

「お父さんは死なないよ。誰が可愛かわいいお前を残して死ぬもんか」と俺はムラサキのおかっぱ頭をなでた。

 ムラサキの美しいまつげが朝露あさつゆの花のようにれている。よほど泣いたのだろう。俺はそんな娘の姿に心が痛くなった。

 俺はゆっくりと起き上がった。背中がずきずき痛むが、けがや出血はないようだ。

 周囲を見渡すと、俺の部屋だった。アオイが運んでくれたのだろうか。

「ダーリン、ごめんなさい」と俺を気絶させた張本人が両手をついて謝罪した。

 心の広い俺はアオイを許した。

 今日の間に、アオイへ説明するチャンスは何度もあったわけだからな。よほどのさとりを開いていない限り、アオイが怒るのも無理はない。

 ただし、「もう手首をひねるなよ」と俺はくぎを刺した。


 俺は改めて、ムラサキをアオイへ紹介した。

「ムラサキは俺の養子なんだ。実の子じゃない。遠野さん。ちょっといろいろと説明しにくい複雑な事情があるんだ。俺と血がつながっていないのは確かだ。そう昼間に説明しておけばよかったんだけどね。できれば、このことを秘密にしておきたいんだ」

「秘密?兄貴にも言ってないの?」とアオイは不思議がった。

 俺は首を横に振った。「言ってない。いつか、あいつに謝らなきゃ」

 そう言うと、アオイは立ち上がって怒り始めた。だが、さきほど、俺を投げ飛ばした時の異常さはなく、怒り方は異なっている。「んもう、大事なことを黙ってさ!」と自分のほおをふくらませて、腕組みをする。そんな様子がはたから見ていて愛らしい。

 俺は考えた。アオイが暴力をふるうのは、俺が浮気をしたか、浮気をしたと疑ったときだけなのだ。

 なるほど、遠野が「お前は安心だ」と言っていた理由はこれか。この先、俺が浮気をしなければよいのだ。


 そして、俺はムラサキへアオイを紹介した。「ムラサキ、こっちはお父さんと同学年で、名前は遠野アオイ。お父さんの大切なお友達だ」

「ムラサキちゃん、あたし、婚約者のアオイ。よろしく。今日から、あたしがあんたの新しいママよ」

 おいおい。俺はさっき「お友達」と強調したはずだ。勝手にママを名乗るとは図々ずうずうしい。

 ムラサキは首をかしげた。それから、俺にこう聞いた。

「婚約者?お父さまはこんな暴力女と結婚するのですか?」

「いいや。ムラサキ。結婚も何も決まっていないのだよ」と俺は答えてやった。


 ムラサキが半べそをかきながら、「お父さま、抱っこ」と俺に抱きついてきた。俺も娘を安心させたくて、両腕で抱き込んだ。

「大丈夫だよ。お父さんはムラサキのそばにいつもいるからね」と俺は優しく言った。

 それを見ていたアオイが突然、ムラサキを指さして、叫び声に近い声で言った。

「あー!あんた、近い将来、一人前の女性になったら、ダーリンの妻の座を射止いとめようとしているんでしょう!ゆくゆくは、ダーリン好みの女に育って、義理の父親と結婚する気ね!」

 アオイの妄想を俺は聞き流した。くだらない妄想だ。

 すると、俺の見たこともない淫靡いんびな表情を浮かべたムラサキが立ち上がって、こう宣言した。

「そうです。私は、お父さまの花嫁になるのです」

 だが、そんな娘の言葉を一蹴いっしゅうするように、俺は笑った。「はっはっは。ムラサキは無邪気むじゃきだなあ。子供の空想だよ。遠野さん」

 その次の瞬間だ。

 ムラサキは俺のくちびるに軽く口づけをした。


「ダーリン、義理の娘と浮気をするなんて、ひどすぎるよ!みんなにばらすよ!」とアオイは拳をにぎる。

 キスをやり終えたムラサキが不敵に笑う。

「ふふ、DV女が何を言うのです。お父さまはすでに身も心もムラサキのもの」

「はっはっは、ムラサキ」と俺は笑った。「お父さんはお前に身をささげた覚えはないぞ」

「ということは、心はささげたの?ダーリン」とアオイの殺気が一段と増した。

 俺は真顔になった。

「……ちゃんと聞いてくれ。アオイ」

 俺は語った。

 確かに、俺の人生をささげようと思っていたんだ。

 俺はムラサキの祖母と約束したんだ。俺がムラサキを立派に育ててみせると約束したんだ。もちろん、未成年の俺が親になるなんて非常識なのはわかっていた。でも、約束を破りたくなかった。

 そのことを、俺はアオイに真剣に話した。

 ちゃんと俺の考えが伝わるとは思えなかったが、アオイには俺の秘密を話しておきたかった。家族以外には話したことがない秘密を。

「――俺はムラサキを育てると約束した。お前には、その約束にかかわる真実を知ってほしいんだ」

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