最初の怪奇は水の中から
だが、イラ先輩監督役は思っていたよりハードだった。
先輩は数時間ずっと、机に向かってウンウンとうなるばかり。
「二万文字以上の小説って、書いたことないのよね」
プロットの段階で、行き詰まっているという。
「一日どれくらい書けます?」
「五〇〇〇文字なら一晩で書けるわ。実際、送ってみたの」
言った後に、ホラー投稿先とは違うサイトへアクセスする。
夏に向けた青春小説を応募する、学生限定の新人賞だ。
ホビー誌やラノベ系ではなく、メジャー新聞社が主催している。
「あんたに触発されて、ちょっとした百合を書いてみたのね」
ネタに詰まったときに、フッと橙子を題材にした小説を書いてみようと思ったらしい。
身体の大きい橙子をモデルにした、格闘美少女小説を。
「どういうわけか筆が乗って、プロットから執筆まで一日かからなかったわ」
「あたし、どんな設定なんですか?」
「学生女子プロレスラーよ」
ガックリと、橙子は肩を落とす。先輩にも、そういう目で見られていたとは。
「でも、才能あるじゃないですか。そっち路線で行きましょ」
読ませてもらった。
実際、ホラーより断然面白い。
自分のツボだからかも知れないが。
「特にこの、主人公の必殺技、相手の首を足で挟み込んで、膝蹴りの後で顔面から落とす技とか、感動すら覚えます!」
「イヤよ。私はホラーが書きたいの。題材だって、この主人公を別人として流用して、手がけようと思うの。その技も、商業作品のパクリよ」
ホラー小説の舞台は、南海の孤島だ。夏休みの強化合宿で、主人公たちは南の島を訪れる。
「まるで、今のあたしたちみたいですね」
「でしょ? だから誘ったのよ」
そこはインスマスとかいう都市にまつわる奇祭が行われていた。
主人公たちは島で祀られている神のイケニエにされそうになり、祭りを阻止しつつ島を脱出するのだ。
プロットできてんじゃん、と心のなかでつぶやく。
「このまま、書き進めちゃいましょ」
「でもねぇ。犠牲者を出すかどうかで、悩んでいるのよねー」
「出ないほうがいいですよ! 怖いよぉ!」
頭を抱えて、橙子は震えだす。
「でも、死人が出ないと盛り上がらないわ」
「そこをなんとかするのが、プロ作家としての腕の見せ所ですよ!」
「そうなのかしら。例えば?」
「サービスシーンとか!」
イラ先輩が、心配そうな顔になる。
「だって、しょぱなからサービスカットがあるじゃないですか!」
本編は島に上陸早々、海で水着回からスタートしていた。
男性読者を想定しているのか、当分合宿シーンで疲れるからか知らないが。
「プールにでも行きたいのね?」
当たっている。
夏休みに入っても、執筆ばかり。橙子はロクに遊んでいない。
「頭でっかちになってもしょうがないわね。遊びに行きましょう」
執筆をあきらめ、イラ先輩は水着を用意する。
「どうしよう。サイズがないわ。もうアウトドアなんて何年も行っていないから」
「現地で買いますから、お構いなく」
どうせ橙子の方も、家にある水着のサイズが合わくなったところだ。
「また大きくなったの?」
「はい」
主に背丈が、であるが。胸はこれ以上デカくはならないだろう。
「よくプールになんか、行く気になりましたね?」
行きのバスに乗りながら、橙子は質問する。
「クトゥルフと言えば、水は欠かせないから」
神話の原作者は、苦手な海洋生物を題材にして、名作を生み出したという。
不得意なジャンルを描くのも、あながちムダではないのか。
プールに到着する。
「いらっしゃいませ」
大柄の男性店員が、レジ前で頭を下げてきた。目が離れているのが印象に残る。
「なんでしょう?」
ジロジロ見られている印象を受けたので、橙子は警戒した。
「いえ、何も」
店員も橙子を意識しなくなり、他の客を構う。
自意識過剰すぎたか。
現地で色気を隠せつつカワイイものをチョイスする。フリル付きビキニとショートパンツルックだ。
先輩は、タンキニである。持って帰りたい。
「なによ? ガキみたいって思ってるの?」
「いえいえ」
橙子は、スマホでキャッシュレス決済する。
「まるで近未来ガジェットね」
現金払いの先輩が、感心していた。
「いずれ普通になっていきますよ」
スマホをバッグにしまって、パラソルを確保する。
「泳ぎましょーよ、先輩」
「あんた一人で泳いでなさい。私は執筆してるから」
直後、先輩はパラソルの下で根を張ってしまう。
「ちぇー」
橙子は、頬を膨らませた。せっかく、先輩と遊べると思ったのに。
「後で遊びたいって言っても、かまってあげませーん」
流れるプールで、浮き輪に捕まる。
身体が大きいので、走りながらだとかなりの速度で進んだ。
途中で、なにかに脚が絡まる。なんだろう。ゴムのような?
「ひゃあ⁉」
突然、何者かに足首を掴まれた。このままでは、引きずり込まれてしまう!
「わーん先輩助けて!」
必死で浮き輪に捕まり、助けを呼ぶ。
「橙子⁉ 待ってなさい!」
サングラスを外し、先輩が飛び込もうとしたのが見える。
だが、急に足が自由になった。
「待って。先輩大丈夫です」
先輩を手で制する。
突然、橙子の前で水しぶきが上がった。
「すいません! 脚をどけてください!」
水上へ出てきたのは、小学生の男女たちだ。
低学年の男子から、脚を上げて欲しいと頼まれる。
「あっ、ごめんなさい!」と、橙子は足を上げてみた。
一人の少年が、水中へ。かと思えばまた浮上した。彼の手には、水中用のゴーグルが。
「ありがとうございます!」
どうやら、少年の一人がつけていたゴーグルが流され、橙子の足首に引っかかってしまったらしい。
身体の大きい女性に声をかけるのが怖くて、こっそり取ろうとしたという。
「なあんだぁ。怖かったぁ」
脱力して、プールから上がる。先輩の待つパラソルの中へ。
「もう、驚かさないでよ」
「だってぇ」
苦笑いで場を和ませようとした。
しかし、先輩の怯えっぷりが尋常ではない。
「てっきり、小説の内容を再現したと思ったじゃない!」
「え?」
スマホで書いている小説を読ませてもらう。
合宿メンバーの一人が、海で足を取られて溺れそうになるというシーンだ。
生徒は助かったが、足首にはウロコがびっしりと張り付いている。手形状に!
「ひえええ!」
思わず、スマホを投げ落としそうになった。
「バカ! これ高いのよ!」
橙子が落としかけたスマホを、イラ先輩がしっかりキャッチする。
「すいません」
「そんなに怖かったの?」
「怖いですって! あたしの体験談でもトップレベルの怖さですって!」
「あんたじゃ、何の基準にもならないんだけど?」
プールの帰り道、橙子は自分の脚を確かめる。日焼けで赤くなっているだけだった。
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