1-2
この日、初めて私は安藤さんと一緒に帰ることにした。喋る胸の存在を知ってしまったその日の内から無視ができようか。それにこれについては、私だけが知らなかったという圧倒的遅れがあるので、それを取り戻したいというのもあった。幸い、私と安藤さんの帰る方向が同じなのは以前から知っていたので、私は安藤さんに声をかけることが出来た。
安藤さんは一緒に帰ることを了承してくれた。しかし、その時の安藤さんの様子と言ったら無機質無関心こそ相応しい、嬉しそうにも嫌そうにもしなかったのだった。
了承を得たところで私と安藤さんは一緒に教室を出た。するといきなり私が今まで知らなかった世界の存在を知らしめられた。
学校を出てを少し歩いたところで、今日の日直だった田中さんとすれ違うという時。
「あ、胸さん、今朝花瓶の水を換えておいてくれたんだって? ごめんね」
「何、気にするな。暇だっただけだよ」
今朝も良い事してたのか、良い事しないと気が済まないのか。とまあ、そんなことは置いておいて、胸がどうやって花瓶の水換えるの!? 百歩譲って花瓶は持てても、蛇口は捻られないでしょ!
二人? の会話はそれで終わり、私と安藤さんは自宅を目指して歩道を歩いていく。その途中、私たちは木村さんとすれ違い、彼女に話しかけられた。
「胸さん、今朝は財布を拾ってくれてありがとう。おかげでお昼ご飯食べられたよー」
「当たり前のことをしたまでさ」
まあ、これは確かに当たり前というか、胸さんを上げるためならもう何でもアリだな。
二人の会話はこれで終わり私と安藤さんは横断歩道を渡る。しかしまあ、この後もクラスメイトの岡田さん、太田君、日岡さん、森岡君とすれ違ったが、一人残らず「ありがとう」「さっきは助かった」と感謝の言葉を並べていく。
――って、下校時に外でこんなにすれ違う!? 皆どんなルート通ってんの!? すれ違う以外会話のきっかけないのかよ!
それはさておき、そんな胸さんとそれを取り巻く助けられた人々による世界が存在することを知らしめられ驚きを隠せない。ここまで来ると胸さんが本当にいい胸で、皆から慕われてて目立つというのを嫌でも納得する。
しかし、こうなるといよいよ私だけ知らなかったのが謎になる。……もしかして私だけ胸さんに助けられたことが無いってこと!?
本日二個目の悲しい事実を知ったところで、私はついに胸さんについて質問する機会を得た。五分くらい歩いたが今の今まですれ違うクラスメイト達に邪魔されて、全然私のしたい話が出来なかったのだ。
「ところで胸さん――」
「ちょっと待て。路地裏を見ろ」
しかし私が満を持して話を聞こうとしたところで、なんともタイミング悪く邪魔が入った。見ろと言われたのですぐ脇の路地裏を見てみると、気弱そうな女子生徒とガラの悪い男子生徒が向かい合って立って、何やら口論をしている様に見えた。安藤さんが顎に手を当てて言う。
「あの女の子、絡まれているわね」
「え、うそ」
いつからこの町はこんなに治安が悪くなったんだろう。とにかく厄介ごとに巻き込まれるのは私としては御免だが、胸さんは「見ろ」と言ったのだからそれは無理な相談なのだろうと予想出来た。事実、直後横に居たはずの安藤さんは居らず、気が付いたら路地裏に入っていっていた。
「良いじゃねえか、ちょっとお茶するくらいさあ」
「待て。馬鹿なことは止めとけ、坊主」
胸さんはそう男子生徒に言い放つ。すると「なんだ、てめえ」と如何にもなセリフを言いながら男子生徒は振り向く。そして安藤さんの顔を見て言った。
「なんだ、男の声がしたと思ったら、女か」
「いえ、私じゃないわ。ここを見なさい」
そう言って安藤さんは自分の胸を指さす。
「なるほど、お前の胸が喋ったのか」
「理解力ありすぎだろ!」
思わず私はツッコミを入れる。普段どんな環境で生活してたら胸が喋るって発想になるの!? それともこの世界では胸が喋るの当たり前だったのか、私が知らなかっただけで!
「へ、胸風情が人間様に喧嘩を売るとは、良い度胸してるじゃねえか! 胸だけに!」
えぇっ! なんかこの人、急にテンションがおかしくなりだした!
「大体、胸に何ができるってんだ、黙って見てろ」
男子生徒は胸さんを無視して女子生徒に手を伸ばし、女子生徒はそれに怯える様に縮こまる。
駄目だ。確かに胸さんはいい胸かもしれないけど、胸が何か物理干渉できるかって話だ。胸さんじゃ止められないよ。
……よし、仕方ない。怖いけどここは私が勇気を出して――。
しかし、次の瞬間男子生徒は驚きの声を上げた。
「な、なに!? こんな方法が……!?」
それもそのはず胸さんはがっちりと男子生徒の腕を掴んで、その魔の手を止めていた。というか挟んでいた。胸で男子生徒の右腕を挟んでいた! もうちょっと様子が違えば「彼氏の腕に抱き着く彼女か!」と言いたいところだけど。
「ノーハンド……」
私はぽつりとこぼした。男子生徒の腕を挟む胸、その胸を安藤さんは手で押さえていなかった。もちろん男子生徒に抱き着いたりもしていない。腕は完全に体側、言い換えれば気を付けの姿勢。ということは胸がひとりでに動いたということに他ならなかった。……実際動くのを想像をするとちょっと気持ち悪い……。
「なんであなたまで驚いているの? 空き巣犯を捕まえたって話をしたんだから、これくらい出来るって想像できたでしょう?」
「う……、確かに……?」
いや、どうやって捕まえたのかこれで初めて謎が解けたけど。こんなの想像は出来なくない? いや、でも他に手段はないのか……? って、なに真面目に考えようとしてるんだ私は!
「ちなみに警察からの表彰状も、胸さんが挟んで受け取ったわ。犯人を捕まえたのは胸さんだからね」
「その理屈はあってるけど、その受け取り方は失礼通り越して冒涜だろ!」
「いつまで遊んでいやがるんだ?」
私たちの会話に男子生徒が割り込んでくる。そうだ、今は女子生徒を助けないと。それに、男子生徒に安藤さんの胸の感触を堪能させたままにするのは癪だ。そこへ胸さんが言う。
「口で言っても分からないなら、痛い目に合わせるしかないな」
「お、望むところだぜ」
男子生徒はそう言って、胸さんを振り払い後ろに下がって少し距離を取った。
「喧嘩の腕には自信あるぜ」
男子生徒は笑いながら、指をポキポキと鳴らす。
「粋がりやがって……」
そう言って胸さんもポキポキと鳴らした――って、どこから鳴らしてんの?
「君たちは巻き込まれない様に下がっていてくれ」
まあ、君たちというのは状況的に私と絡まれていた女子生徒の事なのは分かるんだけど、顔も目もないし、こっちを向くとかも無いからちょっと調子が狂う。そんなことを思いつつ、私は女子生徒の手を取って、安藤さんの後ろへと避難する。
私たちの避難が済むと、早速喧嘩が始まった。
男子生徒は走って、胸さんに殴りかかろうとするが、私から見ると女を殴る最低な男にしか見えない。
そして安藤さんは男子生徒の拳を胸で受け止めた。……いや、胸さんは自身で男子生徒の拳を受け止めた。ややこしいな……。
しかし、男子生徒の攻撃は一発では終わらない。そこから男子生徒はパンチを連打する。胸さんは防戦一方だ。
男子生徒は次々パンチを繰り出すが、その全ては胸さんを狙って胸だけに当てていた。胸以外の安藤さんの体には一切当てていなかった。一応あんな男でも、けんか相手しか殴らないという矜持みたいなものがあるのだろう。
しかしそんな矜持も、私から見ると女の子の胸をひたすら殴り続ける変態にしか見えないのだった。
っていうか、あんなに胸を殴られたら安藤さんも痛いんじゃないか? 大丈夫かな……。私はとても心配になった。
「大丈夫、安藤さん?」
私が声をかけると安藤さんはこちらを振り向いた。その顔は殴られているということを感じさせない涼しいものだった。
「大丈夫よ。ダメージは全部胸さんが肩代わりしてくれているから」
「そ、そうなんだ」
良かった……いや、良いのか? 胸さんが肩代わりしてくれても胸は安藤さんの体の一部では……? まあ、本人が平気だって言うんだから良いのか……? 謎のメカニズムだ……。
しかし。
「おい、てめえ!」
急に胸さんがドスの利いた声で怒鳴りつけ、私の体はびくりとした。
「女の体をこんなに殴りやがって……それでも男か!」
あ、あまりに理不尽だ! ほらあの男子、もうどうすれば良いのか分からなくなってキョロキョロしちゃってるよ! 誰か彼にどうすれば良いのか教えてあげてよ!
「歯ぁ、食いしばれッ!」
そんな男子生徒に胸さんは殴りかかろうとする。まあ、実際には安藤さんが男子生徒に駆け寄っているようにしか見えないのだが。
男子生徒は胸さんの声の迫力に圧されて動けなくなったのか、避けるのではなく防御姿勢に入る。
さあ、ついにお互いの拳が届く距離にまで近づいたところで、胸さんは技名を叫ぶ!
「喰らえ! 右ストレートパンチ!」
まんま且つ少し丁寧な技名!
「馬鹿め。どこから攻撃が飛んでくるか、丸分かりだ――ぐへらぁっ!」
しかし、男子生徒はその丸分かりの攻撃を防げなかった。それもそのはず――。
「ってこれ、ただの体当たりだ!」
私はツッコミを入れる。そりゃそうだ。胸は腕より短くて胴体に近いし、右胸と左胸にリーチの差なんて無い。おまけに伸ばしたり縮めたりも出来ないんだから、そりゃそうなるよ! 胸が当たったらそのまま胴体が追撃してくるよ!
胸さんのパンチなのか体当たりなのかよく分からない攻撃を受けて、男子生徒は吹き飛んだ。そこへ、胸さんはゆっくりと歩み寄っていく。ま、まさか追い打ち……! 情け容赦無し!
というのは私の早とちりで、安藤さんは両手を後ろで組んで前かがみになり、胸さんは言った。
「ほら、立てよ」
ああ、雨降って地固まるってのは違うけど、喧嘩の後は仲直り。立ち上がるのに俺の手を貸してやるっていう熱い場面ですねこれは。しかし何やら違和感があった。
……そうか、安藤さんが手を差し伸べていない! どこに掴まれば……ってまさか――!
次の瞬間男子生徒は、ごく当たり前の様に安藤さんの胸を掴んで立ち上がった。いやこれ安藤さん絶対痛いし酷いセクハラだよ! 拒んで一人で立ち上がれよ!
そして立ち上がった男子生徒は胸さんに言った。
「良いパンチだった」
言うほどパンチか?
「こんな強い奴に会ったのは初めてだ。これからは心を入れ替えるよ」
心を入れ替えるのは結構なことだけど、こんなことで考えが変わっちゃうのか……。
「それでなんだけど、どうか名前を教えてくれないか? 俺を負かした奴の名前が知りたいんだ」
「そうか、俺の名前か――名乗るほどのもんじゃねえさ」
カッコつけすぎだろ!
「か、かっけぇ……」
いやなんか男子生徒は憧れの眼差し送ってるけど、実際名乗るほどの名前じゃないよね『胸』って。ほとんど名前が無いみたいなもんじゃん。
「じ、じゃあ、胸さんって呼んでも良いか……?」
正解だよ!
「……好きにしな」
正解って教えてやれよ! いつまでカッコつけてんだよ!
「は、はい! それでもう一つお願いなんだが、記念に握手させてくれないか?」
あ、なんか嫌な予感がする……。
「それくらいは構わないさ――。そうだな、付けたままってのは失礼だ。なあ安藤、脱いでくれ」
やっぱり!
いやでも、さすがに男子の前でしかも路上で脱ぐなんていくら安藤さんでも――。
「良いわよ」
了承しちゃったよ! いや、これはさすがに駄目でしょ!
私は慌てて制服のボタンを外す安藤さんの手を止める。
「安藤さん、もっと自分を大切にして!」
「あなた、慌てることは無いのよ。あくまで見られるのは胸さん――彼なのであって、私の乳房が見られるわけではないのよ」
「同じことだよ! だったらあんたの乳房はどこに付いてんだよ!」
「さあ、どこかしらね?」
「え……、こ、怖いこと言わないでよ!」
「……冗談よ。でも、あなたがそこまで言うなら、やめることにするわ」
安藤さんが私の言うことを聞いてくれてホッとする。
しかし胸さんは残念そうに言った。
「そういう事だ、坊主。すまないな」
「……そうだよな。俺の方こそ悪かった」
男性生徒もこれまた残念そうに答えた。いや、これは仕方がないでしょ。握手ってことは見られるだけじゃすまないんだよ!? それともお互い揉みたいし揉まれたかったのか!?
「しかしこれでは、俺は誰とも握手できないかもしれんなぁ……」
「残念がることは無いわ。今回は相手が男性だったからよ。女性とだったら握手し放題よ」
「いや、屋外で脱いで胸揉ませるのは相手の性別が何であれアウトでしょ!」
それに、し放題って表現はどうなの?
「君はそう思うか……。実は俺は同族、つまり俺みたいな喋る胸と握手するのが夢だったんだがな……」
「それ、握手って言ってるけど、どう考えても裸で胸を押し付け合う構図でしょ!?」
「何あなた? 今度は揉まないのに文句を言うの?」
「いや、そういう問題じゃないっていうか……」
上半身裸の女性が胸を押し付け合うって、仮に室内であったとしてもエッチすぎてイケない事だと思ってしまうというか。
「じゃあ何が問題なの?」
安藤さん、分からないのならズバリ言うよ。
「握手って挨拶とか親愛の印でしょ? それにしては見た目が意味合いからかけ離れてるでしょ! どこに胸を押し付けあうのが挨拶の国があるの? もしそんな国があれば主要産業が観光業だけでも成り立つわ!」
「確かにそうね。そんな国があったらG7じゃなくてG8になっているわね」
「そこまで!? どんだけ胸を押し付けて欲しい人が居る見積もりなんだよ!」
安藤さんから世界はどう見えているんだ……?
「あら、あなたが先に観光業だけで成り立つと言ったのよ?」
「いやそれは物の例えというか、つい勢いでというか……」
そんなものはどこにも無いと言いたかったわけで……。
「ちなみにG7とは『Group of Seven』の略で、日本、アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、フランス、カナダの七つの主要先進国を指すんだ」
……胸さん、解説ありがとう。
それから少し胸さんと男子生徒は会話し、それが終わると男子生徒は去っていった。これで一件落着かと、私はため息をついた。しかし、そんな私の心中とは裏腹にまだ事件は続くのであった。
さっきまでずっと怯えっぱなしだった、絡まれていた女子生徒がおもむろに口を開いた。
「……あの、胸さん。お、お礼をさせてください」
「お嬢さん、これくらい気にすることは無いさ」
胸さんは断った。しかし女子生徒はおとなしい雰囲気に反して食い下がる。
「いえ、どうしてもお礼をさせてください」
これには胸さんも安藤さんも参ったという風に「うーん」とうなった。
少しして、安藤さんはハッと何か閃いたような顔をした。安藤さんは顎に手を当てて言う。
「……どうしても言うのならキスというのはどうかしら? 戦った男に対しての褒美として女性から送れるこれ以上の物はないはずよ」
「なるほど、俺から言うのもなんだがいい考えだ安藤。あまり大層なことをしてもらうのも、物を貰うのも悪いからな」
「……胸さんがそれでいいのなら」
女子生徒は少し不満げな感じで言った。
――ってこれ、きっとさっきの握手と同じ流れでしょ!
「よし、そうと決まれば安藤、脱いでくれ」
やっぱり! 止めないと! 路上で露出した胸にキスって、揉むより変態的でヤバくない!? キスしてる方とキスされてる方、どっちが変態なのかはわからないけど! ……いや多分どっちもだ!
私は制服のボタンを外す安藤さんの手を掴んで止める。
「なに、またなの?」
安藤さんは面倒くさそうな声で言う。
「そうだよ」
「あなたの考えることは大体予想が付くわ。……大丈夫、乳頭は避けるから」
「それで問題解決したつもりか!」
まあ、確かに一番まずいところではあるかもしれないけど! それと、これだけは断っておきたい。
「別に私、その子が安藤さんの乳頭にキスするところなんて想像してないから! そういう発想する奴みたいな扱いは止めて!」
「……?」
「いや、キョトンとしないで!」
「……あのー? いいですか?」
私が必死に弁明していると、不安そうな顔の女子生徒が声を出す。どうやら自分のしゃべるタイミングをうかがっているらしい。確かに、胸さんとこの子の二人、いや安藤さんを加えた三人の話なのに私は口を出し過ぎたかもしれない。
「あ、ごめんね。どうぞ」
「路上がマズいんですよね? だったら私の家が近いので、そこでするなら何の問題もありませんよね?」
「十割十分十厘、彼女の言う通りね」
「それ111%だからね……」
大層な表現だけどちょっと考えてみると、よくある強調表現の120%より少ないな。
それはそれとして確かにこの子の言うことは正しいと思う。私の今までのツッコミ箇所は大体路上でするという点だった。でも何故だろう。たとえ屋内でやるとしても心のどこかに引っかかるようなこの感覚は。
「それでも……!」
気が付いたら私はそう言葉を発していた。ほとんど無意識だった。言ってから、その後初めて自分が言ったということに気が付いて驚いた。私はこの先どんな言葉を紡げば良いんだ。私はつい俯いてしまう。
「なあ、君」
そんな私を見かねたのか、胸さんが優しい声で私に語りかける。
「それはきっと恋ってやつさ」
「……え?」
私は顔を上げた。
「君は自分では気づいていないかもしれないが、安藤をこのお嬢さんにとられたくないって、そう思っているのさ――」
「そうなの?」
安藤さんは私に尋ねる。それに私は呆然として即答出来なかった。
安藤さんの問いに、胸さんが私の代わりに答えた。
「今まで事あるごとにツッコミを入れてきたのも、ひとえに安藤のことを大切に思っていたからさ。これで答えとしては十分だろう?」
私は胸さんのその言葉にハッとした。私の安藤さんに対するこの気持ちに名前を付けることはできない。でもたった一つ、ハッキリとしていることがある。
私はそれを安藤さんに伝える――。
「いや、それはない」
いや、恋ではないでしょ。安藤さんを異性として見たことないし。今日知り合ったばかりの胸さんに私の何が分かるんだよ。ていうか胸さん意外と恋愛脳なんだな。
私の気持ちを聞いた安藤さんは済まなそうに返事をした。
「そうね。でもごめんなさい。私、あなたの気持ちには答えられないわ」
「……? 私の言ったこと聞いてた?」
「隠すことも強がることも無いわ。でも、ここは誠実に答えさせて。私、同性を恋愛対象として見ることは出来ないの。ごめんなさいね」
「人の話をちゃんと聞くことも誠実なことだと思うけど!」
しかし、私の言葉は安藤さんには届かず、慰める様に安藤さんは私の肩をポンと叩いた。
「君……、済まなかった。もっと然るべき時、然るべき場所で告白させてあげるべきだった。それを俺がこんなところで……。配慮が欠けていた。本当に済まない!」
胸さんまで! いや胸さんは最初からか。
「ドンマイです! きっと次がありますよ!」
ええ! なんか未だに名前を知らない女の子も励ましてくる! いや、おかしいでしょこの流れ! 人を勝手に失恋させるな!
「なあ、ちょっと」
心の中でツッコミを入れている私に胸さんはそう言い、安藤さんは私の手を掴む。そしてそのまま私は安藤さんに手を引かれ、路地裏を出て少しした所にある自販機の前に連れてこられた。
「急に何?」
「お詫びをさせてくれ」
私の疑問に胸さんはそう答えた。飲み物を奢ってくれるってことだろう。
別にそんなお詫びとかいらないし、誤解を解いてくれるのが一番なんだけど。
そう思っていると、安藤さんは財布から百円玉を取り出して、自分の胸に乗せ、胸から百円玉が落ちない様にそーっと自販機に近づいていく。行動が謎過ぎる……。
そして自販機と密着するくらいにまで近づいた安藤さんは中腰になって、胸をコイン投入口に押し当てる。
「自分で買おうとしてる!」
そうか分かった! 胸さんは自分でお金を入れることによって、自分でお詫びしたということにしたいんだ。安藤さんがお金を入れたら安藤さんの奢りになっちゃうから。なるほどなあ……って、お金は安藤さんの物だから結局安藤さんの奢りじゃん!
しかし胸さんはかなり苦戦している。ていうか入れるの無理でしょ。仮に百円を入れられても、十円玉も入れなきゃならないんだよ。その間待ってるこっちの身にもなって欲しいよ。
そして三分が経過。胸さんは未だに苦戦中。すると。
「あの、良いですか?」
飲み物を買いたい通行人の女性が声をかけてきた。
「ほら、迷惑になるから! 安藤さんも、傍から見ると完全に変な人になってるし!」
「しょうがないわね。ほら、もう私が入れるわ」
安藤さんはそう言って胸の上から百円玉を取り上げて、投入口へ。さらに財布から足りない分も払った。胸さんが三分も悪戦苦闘した硬貨投入だったが、安藤さんは物の数秒でかたを付けてしまった。まあ、それが当たり前なんだけど。
「ま、待ってくれ。せめて取り出すのは俺にやらせてくれ」
「分かったわ」
安藤さんは胸さんの頼みを聞き入れ、飲み物が取り出し口に落ちるのを確認すると、しゃがんで取り出し口に胸を突っ込もうとした。
「一々非効率だよ!」
「だ、駄目だ! 俺が大きすぎて取り出し口に入れん!」
「馬鹿なのか!?」
それくらいやる前に見て分かっておいてよ!
そんなこんなで結局飲み物を取り出すのも、後ろの人の迷惑ということで安藤さんが行うことになった。
飲み物は缶コーヒーだった。安藤さんは制服のブラウスのボタンをいくつか外し、取りだした缶コーヒーを胸に挟んで私に差し出すかのように少し前かがみになった。
「受け渡しくらいは胸さんにやらせないとね」
安藤さんの気持ちは分かる。受け渡すのも安藤さんだと、安藤さんのお金で安藤さんが買って安藤さんが私に渡すという、混じりっけなし100%安藤さんの奢りになっちゃうから。胸さんのお詫びにならないから。
でもその、私からするとすごく受け取り辛いんだけど。ほら、通行人の人も飲み物買えたのに去ろうとしないんだけど! こっちメッチャ見てるんだけど!
「俺からのお詫びの気持ちだ。受け取ってくれ」
いや、どうしよう。と思っていると、女子生徒が反応する。
「粋だなあ。言葉ではうまく言えない寡黙な男が、コーヒーを奢ってお詫びの気持ちを示す。胸さんって本当にいい胸なんですね」
盲目的過ぎる! 助けられたからって! ていうか胸さん別に寡黙じゃないし、寧ろ饒舌だよね。私が恋してるとか解説してた時とかさ。
まあ、いくら恥ずかしいからと言って安藤さんをずっとそのままのポーズにしておくわけにもいかないので、私は恥を忍んでコーヒーを受け取った。コーヒーは無糖のブラックだった。
「そのコーヒーは君には苦いかもしれん。今日の失恋の様にな。だがきっと次の恋がある。この苦みを飲み込めるよう、強くなるんだ」
「コーヒー買ったの、それが言いたかっただけだろ!」
「さすが胸さん、カッコいいです!」
「あんたもいい加減目を覚ませ!」
この女の子、大丈夫なのかな……。
私が呆れていると、安藤さんは何か思いついたようにハッとする。
「そうだわ。私が次の恋を応援してあげましょう。誰か紹介してあげるわ」
「いや、別にいいって、そんなこと……」
「そうね……。胸さんなんてどうかしら?」
「もう知ってるよ!」
「確かにそうだったわね。うっかりしていたわ。でも、改めて挨拶なんてどうかしら、握手とかキスとかして」
「欧米か! しないよ私、そんな変態みたいなこと!」
「あらそう。じゃあ、いつかあなたに良い人が現れることを祈っているわ。それでは、私はこれからこの子の家に行って、胸さんへのお礼を受け取らないといけないから。さようなら」
安藤さんはそう言ってから、女子生徒と歩き始めた。
私はまだ言いたいことがあったけれど、いくら言っても無駄な気がして、追いかけることはしなかった。私は二人の背中を見送りながら、缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「別に私、苦いの苦手じゃないんだけど……」
ていうか多分だけど恋じゃなくて、ただただ恋人でもないのに胸にキスをするという変態行為に、抵抗感があっただけだと思うわ……。
翌日もいつもと変わらず登校し、一見いつもと変わらない日常を送る。ただ少し変わったことがある。それは胸さんの存在を知ったこと、そして安藤さんの見方。
私は授業中もつい昨日のことを思い出す。
(安藤さん、あの後胸にキスされたんだよね……。あの胸に、女の子が……)
って、何考えてんだ私! 他人のこと変態って言えないよ!
ついそんなことを想像してしまって全然授業に集中出来ず、つい隣の安藤さんのことを見てしまう。
結局、私は安藤さんの知らない部分を知れたのだけれど、前より一層彼女のことを目で追うことになったのでした。
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