第四章
第29話 帆中編(大倉良)1
大倉良は元引きこもりである。
いじめられたとか、大きな挫折を経験したわけでない。
身内の不幸や複雑な家庭環境が彼を苦しめていたわけでもない。
至って普通の家庭に生まれたごくごく一般的な学生だった。
……魔法が発現するまでは。
今の彼を見たら考えられないくらいにおとなしく、人前に出る事を恐れ、人の上に立つ事を苦手としていたし、自分に自信が持てなかった。
魔法が発現した事で引きこもりとなったが、元々そういう素質は兼ね備えていたのだろう。
やりたい事もなく、なんとなく繰り返していた平凡な毎日。
将来への希望もなく、これでいいやと諦めていた。
そんなある時、彼にも魔法が発現した。
同時に、彼の頭の中を埋め尽くす、数十、いや、数百にも及ぶ人の声。
家の中にいても、ヘッドホンを被り、さらに耳栓までしても意味がなかった。
まるで通勤ラッシュ(この時はまだ魔法使いでない者も多い)最中の駅構内のように、喧噪が彼の思考能力を奪った。
三日三晩では飽き足らず、一週間、一ヶ月経ってもその喧噪が止む事はなかった。
睡眠不足に陥り、次第に体力を消耗していく。
病院に通ったが、原因は魔法にあるため、医学ではどうしようもなかった。
自分で操作できるようになるしかない。
解決策はそれ一つに絞られてしまう。
しかし手がかりを掴めないまま、人の本音が彼の頭の中に濁流のように流れていく。
この時はまだ、彼は学校に通っていた。
クラスメイトたちの、
「大丈夫?」
「困った事があったらいつでも頼れよ」
という声が彼の精神を支えてくれていたためだ。
彼の中では唯一、頭の中の喧噪を忘れる事ができた時間であった。
だが、そう長くは続かない。
いつまでも気にかけては心配し、助けてくれるわけではない。
徐々に、クラスメイトたちは大倉を邪魔者扱いするようになった。
証拠がないのだ。
彼が勝手にそう言って苦しんでいるだけなのだ。
みんなの気を引きたいがためにそう言っているのではないか、という噂が流れ始めた。
構ってほしいがための演技なのでは? と。
攻撃的なクラスメイトは、まだいい。
彼の心を折ったのは、今でも彼を助けようとしてくれているクラスメイトだった。
大倉の魔法はたとえ田舎町に行ったところで遠くの人の心の声を拾ってしまう。
法則性はなく、ランダムなのだ。
それでも近くにいる人ほど、心の声を拾いやすい一面があった。
彼に隠し事はできない。
いくら口で取り繕おうとも、本音が聞こえてしまうのだから。
「大丈夫?」
と声をかけてくれながらも、心の内では内申点を狙っていたり、
「気にしてないよ、仕方ないじゃん」
と言いながらも心の内では、またか……、鬱陶しい、などと悪態を吐いていたり。
彼が学校に行かなくなるまで、そう時間はかからなかった。
結局、学校に行かなくともクラスメイトの心の声は家でも聞こえてしまうのだが。
引きこもった息子を心配し、看病をしてくれた母親がいた。
だが、息子が悪いわけじゃないと分かっていながらも、黒い一面が顔を出してしまう。
母親も共に衰弱していくのが、心の声を聞かなくとも分かった。
何百と叩き込まれる人の本音の中でも、知り合いはすぐに見つけてしまうもの。
家族ならば尚更だった。
「……もう、疲れた……どうして私が、こんな、こんな――」
息子のために駆け回っては解決方法を探してくれて、手がかりを一つも掴めないまま、中にはしつこいと門前払いをされる場所もあった。
誰も褒めてはくれない努力……日々が長くなればなるほど、精神がどんどん削られていく。
母親の限界が近い事を、大倉は感じていた。
このまま母親が苦しみ続ければ、いつかはその命を絶ってしまうのではないかと――。
だから、やられる前に、やる事にした。
大倉良は、自殺をする事に決めた。
どこか遠い場所へ、と思ったが、長く引きこもっていたせいで体力が落ちていた。
人の多いところを避けると必然、町からは遠ざかる事になる。
つまり公共機関だって、使う事は避けた方がいいだろう。
そう言えば、魔法を一度も使ってはいなかった。
それよりも頭の中の喧噪がうるさくて魔法が使える喜びを忘れていたのだ。
とは言え、大倉が魔法を使える事はない。
頭の中がうるさいせいで、魔法を使おうとしても集中力が削がれてしまうので上手く使えないのだ。
彼は土手へ訪れた。
どんな死に方がいいのかと考えた結果……死体が見つからないようにしたかったのだ。
母親には『どこか遠くの場所へ逃げようと思う』と置き手紙を残しておいた。
死んでしまえば悲しむ事は分かっている。
誤魔化したところでいずれはばれるだろうし、もう二度と会えない事には変わりがないが、それでも、会えないけどどこかで元気に暮らしているだろう、と、死んでしまった、では天と地の差がある。
息子の事をすっかり忘れた頃に死んでいたという事実が分かればそれがいい、と大倉は考えたのだ。
だから溺死を選んだ。
死に方としては苦痛を味わう羽目になりそうだが、水中だったら頭の中の喧噪も抑えられるのではないか、という希望もあった。
お風呂で試してみた事があったが、その時は変わりなく届いていた。
だけど、かなり深くまで潜ってみたら……?
試してみる価値はある。
そうなると、海の方が良かったかもしれないが、行く体力がないからここまでだ。
土手には人がいなかった。
ジョギングしている人がいそうなものだったが……、まあ、タイミングが合わなかっただけだろう。
彼からすれば丁度良い。
入水自殺を見られて助けられても困る。
「…………行こう」
柵を乗り越え、数メートル落下すれば川の水の中だ。
周囲を見回し、誰もいない事を確認した後――大倉が水飛沫を最小限に抑えて入水した。
そこは、まだ死ぬ前だが、天国のように思えた。
頭の中を支配していた人々の心の声が、まったく聞こえなくなったのだ。
静かな空間。
音のない世界。
……ああ、なんて素晴らしいのだろうと――生きたいと、思ってしまった。
だが戻ったところで再び頭の中が本音によってかき回される。
この場にいるからこそ素晴らしい世界に浸っていられるのだ。
苦痛を味わうために生きるのであれば、一瞬だけこの世界を堪能してから死んでいきたい。
やがて、意識が遠のいていく。
視界が狭まっていき、深い眠りにつく寸前、
「手を伸ばしてっ!」
頭の中に直接聞こえた声に、大倉は咄嗟に手を伸ばしてしまった。
ぎゅっと、自分の手が小さくて柔らかい手に掴まれた。
そのまま、水面へと引っ張り上げられる。
……人魚?
大きくむせて水を吐き出した後、大倉が顔を見合わせたのは見知らぬ少女だった。
「「大丈夫?」」
「え」
「「だから、川に落ちたから大丈夫かなって」」
彼女の声が二重になって聞こえる。
……違う、頭の中に届く彼女の声と、直接耳が聞き取った彼女の声が、同時だったのだ。
「……魔法使い?」
「それが残念な事に、魔法使いじゃないんだー」(いつになったら発現するのかな……)
と、今度は心の声と直接聞こえる声が別々の内容だった。
つまり、
彼女は本当に大倉を心配して助けてくれたのだ。
「……どうして、ボクを助けてくれた、の……?」
「「苦しそうな顔をしていたら、そりゃ助けるよ!」」
見返りなんて求めない。
助けたいと思ったから助けた……だけど、赤の他人を追って川に飛び込むなんて……。
まだ中学生にもなっていなさそうな少女なのに……。
とても、勇気がある子なのだと思った。
「とりあえず上がろうよ」(うわぁ、下着までびちょびちょ……)
「ごめん……」
「「どうして謝るの? 上がろうって言っただけなのに……」」
大倉は心の声を聞いているのでそれに対して返事をしてしまったが、向こうは繋がらない会話に戸惑っていた。
すると、少女が考える素振りを見せ、
「……あ」(え、もしかして、心の声、漏れちゃってた……?)
漏れていたというか、聞こえていたのだが、そこまで言う必要はないだろう。
「どう、したの?」
「ううん、なんでも!」(うぅ、足がつかないからそろそろ限界……)
「じゃ、じゃあすぐに上がろう!」
「「君! やっぱり心の声を聞いているね!」」
「あ!」
と、当時小学生だった帆中千海に上手いこと手の平の上で転がされている大倉だった。
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