エピローグ 白紙のページ
栄養剤を点滴された直史は、およそ三時間後に目を覚ました。
意識はしっかりしており、平衡感覚なども問題はなく、ただ腹は減っていた。
その枕元には祖父母と瑞希が揃っていた。
両親は連絡のために宿舎へと戻ったのである。
「あと病院の周りがえらいことになってるから、早く帰ってくれると嬉しいんだけどな~」
あくまでも笑顔の医師に言われて直史が窓の外を見れば、マスコミに囲まれている。
妹たちに着替えを持ってきてもらった直史は、職員用の通路からこっそりと脱出。
そして宿舎に戻ることなく、犯罪者のように電車から新幹線へ乗り換え、一足先に地元へと戻った。
同行した芸能人であるツインズは、こういった行動をするのには慣れているようであった。
閉会式に参加することもなく、マスコミのインタビューも受けることなく、そしてお世話になった宿舎の人へのお礼も人伝で、直史的には不本意なことであった。
それに試合の後の校歌の斉唱もなかったし、観客の反応も見なかったし、優勝の体験をしていない。どうせ夏に来ると決めていたので、甲子園の土も持ってきていない。あれで盆栽をする予定だったのに。
何より他のメンバーは、直史の容態を聞いて安心してからは、のんびりと一泊してから帰ったのである。
ただしUSJはやはり行けなかった。
直史は高校時代に最も親しかった野球部のチームメイトと、この一夜だけは一緒に過ごせなかったわけで、それは彼にとってそれなりに残念な記憶となるのである。
しかも彼だけはこっそりと一日早く帰ったため、駅での出迎えもなかった。
センバツの時よりもずっと寂しい帰郷であった。
翌日帰還したチームメイトと合流し、まずは学校に向かう。
講堂としても使われる体育館で、学校のみならず関係者から迎えられ、直史はようやく優勝の気分を味わった。
来賓の祝辞なども色々とあったが、さすがに今日はここまでで、色々な関係各位への帰還の挨拶は、また翌日から歩き回ることになる。
もっとも進学校の白富東なので、ある程度は考慮される。三年の生徒たちは既に受験生なのだ。
だがどうしても、直史へのインタビューだけは多くなった。
史上八校目の春夏連覇を成し遂げ、その最後のマウンドに立っていたのは直史だったのだ。
面倒だとは思ったが、これだけは言っておかないと思うことはあった。
マスコミからの取材に、淡々と答えて、最後に言う。
「自分の状態も把握せずに甲子園のマウンドの上で倒れるなんて、後世に残るとんでもない迷惑な恥晒しなので、絶対に後輩になるピッチャーたちは真似しないようにしてください」
なんとも直史らしい物言いであった。
夏休みはまだ終わっていないのに、野球部の夏は終わった。
色々と忙しくしているが、野球部自体はまた、秋季大会に向けて新たなチームが始動する。
次のキャプテンは倉田に決まり、二学期の始業式の後のミーティングで正式に任命されるはずである。
だがそれよりも前、夏休み期間中に、直史にはするべきことがあった。
冷房を利かせた室内は、若い二人の汗とか涎とか他とか、色々な匂いに満ちている。
頑張った。
禁欲期間が長かったので頑張りすぎた。
体力を使い果たした瑞希にタオルケットをかけ、直史はパンツ一丁で依頼されていたことをする。
瑞希が書きとめた夏の記録に対して、自分なりの考えを加えていくのである。
あとはスタンドからでは分からなかった、対戦相手の雰囲気や、ベンチ内の会話なども重要なことである。
(試合に集中しすぎて、ベンチの中のことなんか気にしてなかったな)
むしろ相手のベンチを見て、木下と選手との会話を表情から考えていた気がする。
逆に直史には知る術もなかった、スタンドでの様子なども知りえた。
瑞希のノートを見ていくと、自分でも気付かなかったことに気付かされる。
(そうか、俺の奪三振、歴代三位まで上がったのか)
瑞希の記録はその場のものだけではなく、過去の歴代の記録なども参考にしているのだ。
決勝の再試合、序盤から中盤までは、打たして取ることを優先していた。
これでいけると思ってからは、積極的に三振を狙っていったが。
常識的に考えて、最後の一球に全ての力を注ぎ込んで倒れるなどはありえない。
医者曰く、むしろストレス性の失神に近いのではとの意見であった。
(しっかし色々と大変だったんだなあ)
例年と比べるとこの甲子園の決勝に関する注目度は、はるかに大きなものであった。
前日に直史がパーフェクトピッチをして、それから再試合だったというのが大きい。
試合終了直後に倒れたことで、随分と監督も叩かれていたが、医師からの診断もちゃんと掲載している新聞は少なかった。
直史にとってあれは、ただの電池切れだった。
疲れて倒れただけで、別に命にかかわるものではなかったのだ。
もっとも家族や恋人や、それにチームメイトはかなり心配したようであるが。
試合後のインタビューもかなり時間を置かれてされたとか。
やはりマウンドで倒れるのは、色々と迷惑すぎるのだ。
(これ一生言われるやつだな)
人の人生とは恥の多いものであるが、これだけ知れ渡ってしまっては仕方がない。
なんだか新聞などでは熱投の末の結果とかで美化されていたりもするが、これで変に進学先に影響があったりすれば困る。
溜め息をつきながらも当事者としての心境を記していた直史の背中に、もぞもぞと動き出した瑞希が、小さくも柔らかいものを当ててくる。
「最後のマウンド、何を考えていたの?」
そして腕を首に絡めてくる。
直史はそういった動作を、瑞希にだけは許す。
誰にも言わないが彼には、首を他人に触られることに少しトラウマがあるのだ。
最後のマウンド。
ジンが近付いてきた。あの時は確か中学時代の最後の試合を思い出し、ジンに声をかけられた一瞬に、高校生活の印象的な場面が走馬灯のように脳内をよぎったのだ。
ただ順番はデタラメだった。
しかし共通点は一つ、野球だ。
入学初日に、グラウンドでキャッチボールをした。
ジンという、初めて出会ったまともなキャッチャーにマウンドからボールを投げた。
大介がネットの向こうまでボールを飛ばした。
公式戦で初めて、勝利のマウンドに立った。
去年の甲子園に立ったチームとの対決。
周囲が加速していく。
プロの世界の一端である、ジンの父との出会い。
甲子園常連、全国制覇の帝都一のグラウンドへ。
生で見た上杉勝也の、世界最高レベルのピッチング。
そして始まる夏。
自分は打たれなかった。
勝つことだけを考えていたら、自然と一人の打者も塁に出さなかった。
そして世界が変わっていった。
華やかになる応援。
世界の中心に近付いているという錯覚。
誰もが自分の生涯の主人公などとはよく、綺麗ごとのように言われるが、舞台の登場人物を演ずるような気分にもなったものだ。
「寒くない?」
「言われてみれば少し」
瑞希は冷房の温度を上げるのではなく、タオルケットを直史にかけると、自分は直史の腕の中にちょこんと収まった。
小さくて細い身体が、伸びやかに直史の感情を受け止める様子は、何度見ても美しい。
「この記録ね」
瑞希が直史の書くペンが止まったのを見て告げる。
「珠美ちゃんが、続けられる限りはマネージャーで続けたいって。あと研究班も巻き込んで」
「ああ」
それはいいな、と直史は思う。
マネージャーのみならず野球オタどもの視点があれば、客観性は増すだろう。
正直なところ直史は、瑞希以外の女性の、客観的な状況の把握をあまり信じていない。
直史は根本的なところでは、女性不信の傾向があるのだ。
だが瑞希の書いた文章は分かりやすいし、自分の感想を抑えてあくまでも客観的であろうとしている。
それでも抑えきれないのが、あの決勝戦らしい。
去年の準決勝も、最後のあたりは胸が張り裂けそうだったらしいが。
まったく、アマチュアの高校生の全国大会に、どうして人々はここまで夢中になるのだろう。
「これ、ラストシーンはどこで終わるんだ?」
決勝の後の白富東周辺の様子も描かれているため、優勝で〆るわけではなさそうだから。
「今」
瑞希は簡潔に答えた。
「こうやってエースピッチャーに最後の確認をしてもらったところで、最後のページにしようかなって。それとは別に、ベンチ入りメンバーの皆に一言ずつ書いてもらおうと思ってるんだけど」
「なるほど」
それもまた、監督の意見はいらないのかとか、スタンドで応援していたメンバーはどうなのかとか、色々と手が届かない部分はあるだろう。
「それと進路が決定してから、他の人のその後も少しだけ書こうかなって」
「ああ、それはいいかもな」
その後は幸せに暮らしました、では子供しか納得出来ないだろう。
「結局何冊ぐらい作るんだ?」
「最初は文芸部の活動の一環として、特別に予算を出してもらって、200部ぐらいの予定だったんだけど……」
どうやら話が洩れて、関係各所からの希望を聞くだけでも、2000冊は必要になるらしい。
「下手な純文より多いな」
ひどい。
それに珠美を中心に女子マネが記録していって、文芸部や野球部の研究班も中心に書かれる実記録は「続・白い軌跡」という名前になるらしい。
もう素直に「白い軌跡○○年度とかにしてしまった方がいいのではないかとも思うが、瑞希が中心に一人が監修するものと、多人数で作り出すものでは情報の見方や精度にも差が出るだろう。
おそらく白い軌跡は続で終わる。
珠美が中心となるなら淳の世代までで、甲子園の優勝を経験した世代にもなるので、丁度いいだろう。
名前を変えて、白い軌跡、高校球児たちの、白富東の野球部の歴史はつながっていく。
やがてそれが途切れても、人の記憶からは消えても、同時代の人間が全てこの世界から去っても、野球というものがなくならない限りは、ずっと続いていく。
直史がかかわったこれは、そういうものなのだ。
「ここで終わるっていうことは、色々やった今日の記録は、かなり短い文章になるかな」
「そう言いつつ揉んでるこの手は何かな?」
小さくて柔らかいものを包みながら、直史は自分は何を書くべきかを考える。
だがとりあえずは、肉欲を満たすことに専念するのだ。この最後の夏、彼はあまりにも禁欲的すぎたので。
誰にも言えない二人だけの、この物語の裏エンディングであった。
スコアラー 菱本
「地味な作業とか言われるけど、あの夏、一番いい席で試合を見られたことは一生、話の種になると思う」
背番号18 マローン(投手・外野手)
「世界で最高のアマチュア野球の舞台の、その最高峰を経験出来ました。生まれてから今までで一番の感激でした」
背番号17 佐藤淳(投手・内野手)
「あの舞台で、グラウンドで、マウンドでしか経験出来ないことを経験させてもらいました。感謝しかありません」
背番号16 奥田(外野手)
「応援がどんどん味方のメンバーに届いている実感がありました。幸せでした」
背番号15 青木(内野手)
「たくさん試合に出られて、自分の未熟をつくづくと感じさせられました。おそらくこの先ずっと、野球に対して甘えずに挑戦し続けられると思います」
背番号14 赤尾(捕手)
「たくさんの経験をさせてもらいました。キャプテンにはキャッチャーとしての、素晴らしい背中を見せてもらえました」
背番号13 諸角(内野手)
「この高校に入った時は、甲子園に出場ではなく、甲子園の優勝メダルをもらえるとは、まさか思っていませんでした」
背番号12 中根(外野手)
「決勝で途中から出場し、勝利にも貢献出来ました。大記録を作った中に自分もいれたのは興奮しました」
背番号11 倉田(捕手・一塁手)
「試合に出ながらも学ぶことばかりでした。そしてこれを次の世代に引き継いでいきたいです」
背番号10 岩崎(投手)
「今後どんな舞台でマウンドに登っても、この夏の甲子園の暑さは忘れないと思います」
背番号9 鬼塚(外野手)
「本当の意味での精神的な強さを教えてもらいました。本当にこのチームに入って良かった」
背番号8 中村(外野手)
「こんなに楽しくてたまらないお祭り騒ぎは、おそらくどこにもないと思う。そして来年にはまた違うお祭り騒ぎがあると思うけど、これは最高だった」
背番号7 沢口(外野手)
「途中退場して閉会式には出られないと思っていた。けれど再試合になって、運命っていうのは本当に不思議なもんだと感じた」
背番号6 白石(遊撃手)
「めっちゃ面白かった。ずっとあそこで野球をしていたかった。そして中学時代の自分に、未来は切り開いていけるのだと教えてやりたい」
背番号5 佐藤武(投手・三塁手)
「伝説の中で重要な脇役の役目を果たしたような気がする。引き継いだ思いは大変なものだが、やりがいをはっきりと感じる」
背番号4 椎名(二塁手)
「甲子園の歴史に自分の名前が残ると思うとおかしく感じる。チームの皆に感謝しかない」
背番号3 戸田(一塁手)
「今思うと不思議なぐらいエラーをしなかった。全ての人に感謝している」
背番号2 大田(捕手)
「一生の中で見ればわずかな時間だったとしても、この経験があればもう、自分は何があっても生きていけると思う」
背番号1 佐藤直(投手)
「勝敗でもなく、記録でもなく、ただ充実した夏だった。ありがとう」
そして時間は過ぎて、甲子園はまた新たな選手や、観客や、応援や、スタッフなどの全てを主人公にして続いていく。
白球の軌跡を追いかけるのは、とても楽しいことだから。
『白い軌跡』が実際に製本されて関係各位に配られたのは、翌年の春である。
監修し執筆したのは佐倉瑞希。主な校閲などをしたのは佐藤直史である。
この秋から次の春にかけての白富東の出来事は「余章」として章立ては独立している。
そして最終的な初版は8000部にも及び、長い時間をかけてベストセラーとなり、第一級の資料ともなる。
特に初版で製本されたものには、最後に数ページの白紙がある。
これは意図的に、読者が何かを書くために挿入されたものである。
出版社の商業出版ルートで販売されるようになったのは、その年の秋からであり、主な執筆者の佐倉瑞希と、校正をした佐藤直史の名前を合わせて、佐藤みずきと執筆者の名前は変えられている。
×××
ということで第一世代の高校生編は完結です。
あと解説が一回入る予定です。
余章ともなる「3.5」に作品としては続きます。蛇足にならないといいなあ。
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