最終話 白い奇跡

 二点差。

(これでいけるか?)

 ベンチの中の頭脳担当、秦野、ジン、シーナなどは計算する。

 分からない。今日の直史の調子では、まだ分からない。


 だが、近付いた。

 去年はあと一歩で及ばなかった、真紅の大優勝旗へ。

 さらに一歩、近付いた。

 はっきりと手が届く位置に、それが見えてくる。

 ただ少しでも油断したら、それは簡単に手の中から零れ落ちそうな可能性もある。

「……岩崎、キャッチボール開始しろ。そんで守備に就いたら肩作れ。あと淳も心構えはしとけよ」

 秦野がはっきりと指示を出した。


 七回にはまだ直史をマウンドに送る。だが同時に岩崎の準備も始める。さらに初見殺しの左のアンダースローの淳まで。

 高校野球では甲子園のブルペンはファールゾーンに一つしかないため、こんな指示になる。

 プロテクターを着けた孝司を相手に、岩崎がキャッチボールを開始する。それを見ながら武史は豊田の球に食らいつく。

 最終的には内野ゴロに倒れたものの、それなりに時間は稼いだ。


 一点を取られるまでは、交代はさせない。

 だが一点を取られたら、すぐに交代させる。

 直史は水分と塩分を補給して、ブルペンには視線も向けない。

(自分で最後まで投げるつもりか……)

 秦野の目に映るその姿は、絶対的なエースの姿勢。

 何かが落ちているのは間違いない。

 だがその落ちている分を考えて、コントロールしている。

(大田のリードがそれを可能にしてるんだな)

 この試合ヒットを三本打たれて、フォアボールも一つ出している。

 だが牽制で一つアウト、併殺を二つと、傷口を広げないようにしているのだ。


 結果的に、直史の球数はかなり少なくなっている。

 いや――。

「菱本、ちょっとスコア見せてくれ」

「うす」

 確認した。

 直史の六回までの投球数は、たったの48球である。

 一回の表こそ15球を投げているが、あとは全て一桁の投球数で抑えている。


 直史のこれは、調子が悪いのではなく、また違った形でのベストピッチではないのか。

 この調子で投げれば、たとえヒットや四球があったとしても、81球以内で試合が終わってしまう。

(まあさすがに甲子園の最小投球数なんて狙ってるわけじゃないだろうが)

 七回の表の先頭打者、明石に対しては六球を投げて三振を取った。


 ここからが見せ場になった。


 三番の大谷へは、ボール球を投げずに三振。

 そして四番の後藤へも、ゾーンで勝負して三振。

 そして球速は自己MAXタイの144kmが表示された。

 基本的な配球は、ストレートとスルー、そしてチェンジアップのみ。

 ただどこかの誰かさんと違って、ストレートは制御されてゾーンのぎりぎりに決まった。




 この内容には両陣営の監督が驚いた。

 直史はここまで、自分の体力を計算して投げていたのだ。

 おそらくは延長まで戦うことを覚悟して、二点差になってようやく、九回で終わらせるつもりになったのだ。

「……タケ、お前も岩崎と交代して肩作れ」

 おそらくこの試合はこのまま決まる。

 だが秦野は石橋を叩くタイプなのだ。

 下手に叩きすぎたら勝てないのが高校野球であるのだが。


 七番から始まった白富東の攻撃は、豊田のピッチングの前には手も足も出ない。

 ただラストバッターの直史は、バッターボックスの奥に引っ込んで、明らかに打つ気を見せない。

 ぶつけてやろうかと少しだけ思った豊田だが、さすがにここは三振をもらっておく。


 八回の表、大阪光陰の攻撃。打席には丹羽。

 前イニングのピッチングと比較するかのような、スローカーブとシンカーを使ったゆるい球でファールを打たせる。

 そして最後のストレートが145kmで決まり、丹羽のバットは軌道の下を振った。

 ここにきて、公式戦自己最速である。


 最速を出した後、六番の宇喜多に対しては、ボールからぎりぎりストライクになるコースを攻めて、最後には低く外れるカーブを振らせて三振。

 これで五者連続三振である。


 七番の豊田は、打率はそれほどでもないが、パワーで長打を打つことは出来る。

 大阪光陰としてみれば、球数を考えれば、この裏からまた真田に交代して、豊田には代打を送るべきか。

 だが昨日はそれをして、完全に封じられてしまった。

 豊田もセンスで打つタイプだ。ここは任せるか。


 豊田に対して直史は、初球にストレートをインハイに入れてきた。

 真後ろに飛んだファール。豊田のスイングでも、当てられない球ではない。

(次はカーブかチェンジアップか)

 二球目はスルーが沈んだ。ストレートの後のこれは打てない。

 そして三球目はストレート。

 そう思って振ったバットの下に、ボールは沈んだ。

 スプリットなのか。それにしては球速があった。

 140km。ストレートだったのか?


 これは直史のストレートの中でも、かなり特殊なチェンジアップである。

 リリースの瞬間に手首を返して、バックスピンがかからないようにする。つまりスプリットほど沈まないが、普通のストレートよりは沈む。

 なので豊田はストレートの上を振ってしまった。

 とにかくこれで、六連続三振。

 あと三人で、優勝が決まる。


 ベンチの中の直史には、誰も声をかけない。

 直史も水分とエネルギーを補給して、あとはもうじっと試合を見る。

 ジンが隣に座っても、なんの反応もない。

 もうこの試合の間は、ひたすらアウトを取るマシーンになることを決めたようだ。




 応援するスタンドの方は、一球ごとに息を止めて見守る。

 昨日の試合も、今日の試合の前半も、それぞれ違った意味で心臓に悪い。

 だがおそらく、今が一番もう見ていられない。


 ブルペンでは守備の間投げていた岩崎に代わり、武史が投げ始める。

 ここまで来てもピッチャー交代の選択肢を秦野は視野に入れている。

 エースと心中という覚悟も潔く見えるのかもしれないが、そのエースが自軍のブルペンを全く見ていないのだ。

 エースは自分だけで決める覚悟をしている。

 監督は最悪を予想して準備をする。


 ここから直史が残りの打者全員を三振で打ち取っても、別に甲子園の何かの記録を更新するわけではない。

 だが分かるのだ。最後の最後まで力を残しておいて、それの全てを三振を取ることに振り分けることの偉業。

 直史としては試合の結末までを予想して、あとは一番確実にアウトになる三振を狙っていくだけなのだろう。


 佐藤直史は、剛速球で三振を奪っていくピッチャーではない。

 だが奪三振率は岩崎より高いし、何より被安打率、そしてそれ以上に四球の数が少ない。

 上杉を目指すのは常人には無理だ。全てのピッチャーは直史を目指すべきだ。

 球速という、ある程度才能がなければどうにもならないものではなく、制球と緩急とタイミング。それでも三振は取れるのだ。


 スタンドはどよめきと、そして張り詰めた空気が同時に支配している。

 瑞希はもうペンを置いて、レコーダーを握り締めるのみ。

 八回の裏の攻撃に、また応援の演奏がされる。

 真田がライトから戻ってきて、豊田とポジションを代わる。


 アレクからの打順に、応援団もブラバンも、最後の気力を込めて応援する。

 九回の表に大阪光陰が追いつかなければ、この回の攻撃が最後になるのだ。




 日本中の野球関係者が、全てこの試合を見ていると言ってもいい。

 スタンドでは金に任せて代理で並ばせておいた人間から、席を買い取ったセイバーがいる。

 当然ながらその横には早乙女がいて、共に何も言わず試合を見続けている。

 バックネット裏の記者席では、野球を知り尽くしていると自認する者たちが、それだけに逆に信じられない思いで、一人の観客になってしまっている。

 過去の延長18回再試合や、延長15回再試合に並ぶか、あるいはそれを上回る伝説の誕生に、立ち会えるのかもしれない。


 千葉県では引退した者も、これからの新チームを率いる者も、一緒にテレビ中継を見ている。

 こんな化物と県大会で戦う自分たちは運が悪かったのだ。

 だが同時に、対戦する機会があったのは運が良かった。

 甲子園で既に敗退した者たちも、見ざるにはいられない。

 こんなやつと同年代に生まれたのが、本当に運が悪かったのだ。

 そしてやはり同じ意味で、本当に運が良かったのだ。

 もちろん監督やコーチも見ている。

 こんな化物が普通の中学軟式で、無名でいたのは反則だろうと。

 全国4000校弱の、全てのチームの頂点に立つ瞬間を待つ。


 真田が奮闘し、アレクと哲平から三振を奪い、大介をピッチャーゴロで凡退させた。

 追加点は取られなかった。だが点差は二点。

 大阪光陰は最後の回、八番の木村からの打巡である。

 しかしここで木下監督は代打を出した。


 直史はこの打者に対して、外角の出し入れを変化球で行いカウントを整え、最後には内角のストレートで三振に取った。

 あと二人。


 打席に立つのは真田。

 去年の夏、どれだけ苦しめられたことか。

 だがそれを言ったら、二回もパーフェクトをやられている大阪光陰の方が、悔しさは、あるいは敵愾心は、強烈に持っているだろう。


 初球は高めに外れたストレートを、空振りしてしまった。

(最終回に最高速を出すとか!)

 146kmは直史の、コントロール出来ないストレートのMAXである。

 二球目は思ったとおりにスルーを投げられたが、振り遅れてしまう。かろうじてバットには当たったがファール。

 三球目と四球目は、インハイとアウトローに、ぎりぎりで外す。

 だが真田はそれを見送ることは出来ず、カットと言うよりはどうにかファールで逃れるしかない。


 そして五球目。

 チェンジアップを空振りして、八者連続三振。




 ラストバッターになるのか。

 一番の毛利はバッターボックスに入る前に、何度も深呼吸する。

 だがダメだ。このプレッシャーの中では、まともにスイング出来そうもない。


 何度も甲子園を経験している木下も、こんな異様な雰囲気は初めてだ。去年の準決勝以上だ。

 強いて言えば上杉に負けて試合に勝ったあの決勝に似ているが、これはもっと何か、人間の常識からは外れたものだ。

「振れー!」

 ベンチの前に出て、そう叫ぶしかない。


 アウトローへの綺麗なストレートが、ぴしりと決まる。

 そしてインハイに一球外して、またアウトロー。これはボール。

 スローカーブを投げて、これはファールになった。

 振れた。


 毛利は打席を外して、数度素振りをする。

 ここまで何万回スイングをしてきたか。それはおそらく、この日のために。そんな妄想すら浮かぶ。

 シンカーが外に外れていって、これでフルカウント。

 投げられるのはおそらく、ストレートかスルー。


 セットポジションから常に投げられる、佐藤直史のピッチング。

 最後の一球になるのか。

 最後の一人にはなりたくない。

 最後の一球にしてしまいたい。

 様々な思惑が交錯する。


 直史がプレートを外した。

 観客たちが一斉に息を吐く。

 さすがの鉄仮面も、この場面では動揺があるのか。佐藤直史のメンタルを知る者も手を握り締める。




 三年と少し前を思い出す。

 あの夏の日。蝉が止まる木が、グラウンドのすぐ横に何本も立っていた。

 うるさい蝉だった。

 ヒットを二本に抑えて、四球を一つも投げずに、それでいて味方に四つもエラーをされて二失点。

 あれから何度も試合に勝って、何度も勝利投手になってきたが、一番思い出す敗北は、一年の夏の県大会決勝でもなく、二年の春のセンバツでもなく、中学最後の夏。

 野球をやめると思ってはいなかったと思う。

 だが明確に続けようとも思っていなかったはずだ。


(思えば遠くに来たもんだ)


 甲子園。

 高校で野球をするなら、いや野球を始めた小中学生なら、冗談でも本気でも、一応は目標にするだろう。

 だが白富東はセンバツの敗北以来、甲子園を目指さないと決めた。

 なぜならば甲子園に行けた喜びより、その甲子園で負けた悔しさの方が、ずっと重たいものだったから。

 だからあんなスローガンを作って、ただ試合に勝ち続けるという目標にしたのだ。


 その終着がここか。

 夏の甲子園の決勝で、スコアは2-0で勝っていて、ツーアウトを取っていて、フルカウント。

 あと一球ストライクを取ればそれで勝てるし、打たれてもアウトになればそれで勝てるし、打たれてホームランになってもまだ一点勝っている。

 あと何球投げられるだけの力が、この体に残っているのだろう。

(いや、違うか)

 はっきりと感じる。ここが自分の限界だ。

 自分の今の限界だ。


 タイムを取ってジンがマウンドに近寄ってくる。

「大丈夫か?」

「ああ……なんだか感慨深くてな」

「感慨深くてって……緊張とかじゃないんだな?」

「いや、ここからなら適当にストライクゾーンに投げたら、たぶん終わるだろ」

 勝利は目の前にある。

 そしてランナーはおらず、守備陣が変に緊張してエラーをする状況でもない。

「野球はツーアウトからだけどな」

 ぽすんと軽く直史の胸をミットで叩いて、ジンは戻っていく。


 ありがとう。


 こういうものなのか。

 高校野球の、そしてその中でも甲子園の、決勝の最後のマウンドというのは、こういうものなのか。

(あとはサヨナラのベースを踏んだやつもこんな感じなのかな)

 そういえば、樋口に去年のサヨナラホームランのことは、聞いていない。


 これから先、少なくとも数年間は、また生活に野球が密着することになる。

 だけどもう、優先順位は変わる。

 野球を全力ですることは、もうないだろう。やろうとしても、出来ないと思う。

 ここでもう、高校球児の佐藤直史は死ぬのだ。

 あまり高校球児っぽくはなかっただろうな、と自分でも少し笑みが浮かんだ。


 直史が笑った。

 表情を変えない直史が笑って、ロージンバックでぱたぱたと指先を乾かす。

 プレートにセットして、いつも通りに投げる。

 ジンのサインに頷く。

 足を上げて、踏み込んで、そこから回転がかかって、腕を通して指先に。

 ボールが投じられた。


 キン――と軽い音と共に、ボールは――白い軌跡を描いて、真っ直ぐに飛んだ。

 自分が取るボールではない。

 ああ、そこに飛ぶならいいだろう。

 ショートの定位置で大介は前後左右に動こうとしたが、その必要はなかった。

 白いボールは回転を失って、ほとんど真上から落ちて、彼のグラブにすぽんと入った。


 スリーアウト。ゲームセット。


 歓声が爆音のようだ。

 立ち上がった観客たちが、何かを叫んでいる。

 直史は視線を巡らす。

 この時だけはスタンドは見ずに、グラウンド内を一周。


 外野も内野も、こちらに向けて走ってくる。

 前を向けば、ジンが今までにない表情で駆け寄ってくる。

 いつも通りにグラブをぶつけ合うぐらいでいいだろうに。

 そう思って一歩前に出た直史は、足に力が入らなくなって転んだ。

 そしてそのまま気を失った。




 最後の夏の甲子園の閉会式に、佐藤直史は出ていない。

 極度の緊張から解放された彼は、連日の投球の疲労もあってか、その場で気絶から睡眠へと移行したのである。

 かなりばたばたして担架まで出てきたが、その後しばらくしてから審判から状況の説明がされた。

 ただそれを聞く前に、何人かは応援スタンドからは消えていた。


 直史が運ばれたのは救護室である。

 医師の診断により、どう診ても熱中症には見えなかったのだ。

 水分の補給はしっかりとしていたし、諸症状もなし。

 何より見るからに、単に寝ているだけである。

 それでも炎天下の中での投球、前日の延長戦の影響などを考えて、救急車はやってきた。

 

 ほっとして何人かはベンチやスタンドに戻ったが、両親や祖父母、そして瑞希はタクシーで病院へ向かう。

 白富東の優勝と、その閉会式の様子は、後から誰かに聞けばいい。

 だが直史のこの容態に関しては、彼にしか聞けないことである。


 そんな直史は病院に運ばれたわけだが、たいそう驚かれた。

 テレビで見ていた選手が、よりにもよって運ばれてきたからである。

 呼吸、脈拍、血圧などを検査したが、単に寝ているだけと言われてしまった。

「これ、救急車の必要はなかったね」

 苦笑される一同であった。




 決勝再試合 佐藤直史の記録

 対戦打者28人 投球数90 奪三振10 被安打3 与四球1 牽制死1 併殺2 完封



×××


次話 ラストエピソード:エピローグ 白紙のページ

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る