第138話 奇跡への軌跡

 夏の甲子園でパーフェクトを達成したピッチャーはこれまでにいない。

 昨年の準決勝の直史の記録は、あくまでも参考記録。

 公式にはノーヒットノーランであり、誰がどう見てもパーフェクトであるが、記録としては違うのだ。


 最後の夏の決勝、五回までの攻防が終わった。

 グラウンド整備が入るので、選手も観客も一息つける。

 ここまで直史はパーフェクトで完封しているが、これがいいことなのかどうなのか、正直やってるバッテリーとしては微妙なのである。


 白富東の守備陣は、決勝でも固くなることなく動いている。

 だがこの先、パーフェクトピッチングが続けば続くほど、そのプレッシャーは莫大なものになっていくだろう。

 正直なところジンも、パーフェクトが切れた瞬間の、自分の集中力がどうなるかには自信がない。

(前の回、本当はヒットまでは打たれても良かったんだけどな)

 毎回奪三振、真田は続いているが、直史は途切れてしまった。

 そもそも丹羽か宇喜多には、ヒットになってもおかしくないリードをしていたのに。


 直史は水分を補給して、バナナを一本食べた。

 これであとは水分以外、最後までもちそうだ。


 表面上は何も動揺を見せない直史と違い、ジンはそれなりに険しい顔をしている。

「大田、このまま最後までパーフェクトを狙うのか?」

「いや、狙ってるわけじゃないんですけどね」

 秦野の問いにはそう答えるジンであるが、なにしろ直史のピッチングが良すぎる。

 ボールは走っているが浮いたところはなく、変化球の精度もブルペンで投球練習をするのと同じぐらいには制御出来ている。


 これを甲子園でやっているのだ。

 五万人の大観衆、そしてテレビの向こうの数千万の視聴者がいるにもかかわらず、ここまでパーフェクトピッチング。

 ジンの方は少し膝が震えるぐらいなのだが、直史にはどれだけのプレッシャーがかかっているか。

 おそらく白富東の守備陣は、普通の試合よりもずっと精神的に消耗している。


 なおこのパーフェクトピッチが続いている間に、視聴率は38%まで上がっていた。


 ジンは入学当初から、直史がいいピッチャーだとは分かっていた。

 そして初めての公式戦のマウンド、自分は受けられなかったが、凄いピッチャーになると確信した。

 だが春の大会から夏までの成長速度が異常であった。

 それはずっと全力で投げてこれなかった中学時代の鬱憤を晴らすような、とてつもない成長速度であった。

 元々ある程度は自分でリードも出来ていたが、ジンと組んで学ぶうちに、経験と直感を組み合わせてとんでもないピッチャーにまでなった。なってしまった。

 正直なところジンとしては、大学卒業後にはプロで直史の投球を見てみたい。

 だが本人はプロ志望ではない。野球で食べていくという思考に至らないのだ。


 プロ野球選手の平均引退年齢や、引退後の再就職などを考えたら、確かに職業にするのはリスクがあると思うのかもしれない。

 直史のようなテクニカルな投手は、肘や指をわずかに怪我しただけでも、投手として通用しなくなる可能性はある。

 それにプロに進まない直史が進もうとしている道は、あるいはプロよりも難しい。

(記憶力は確かに抜群にいいんだろうけど……けっこう誤解されるタイプだと思うんだよな)

 ピッチングにおいては柔軟な思考をするが、むしろ試合に勝つためには、自分の記録には興味がないようにさえ見える。

 法律の知識を運用するというなら、融通の利かない性格が、どちらの方向に働くかが問題だろう。




 ベテランの職人によるグラウンド整備の間、改めて両チームの紹介がされるが、やはり大阪光陰がよくある強豪校の仕組みで強くなったのに比べて、白富東の異質さが伝わる。

 甲子園における初めての女性監督の誕生や、その監督が築き上げた土台の上に、白富東というチームが存在するのだ。

 そりゃあ強豪校でなくても、ここまで設備やシステムを整備すれば、強くなってもおかしくはないと思わせる。

 それでも直史と大介、武史とアレクの性能は、常軌を逸しているが。


「あ、また神崎さん映ってる」

 のんびりと、甲子園の決勝ということも忘れたかのような、武史の声。

 ビジョンに映っているのは、タオルを肩にかけた明日美と恵美理である。

 美少女を追っかけていったら、女子野球の準優勝バッテリーであったでござる。


「お~」

「あ、ツインズに変わった」

「あ、イリヤにも変わった」

「カメラ、分かってるな」

 ツインズはともかくイリヤは、化粧をしていないと芸能人とは分からないのだが。


 呑気な選手たちを見つつも、秦野は考える。

 今のところ投手戦の様相を呈しているように見えるが、実は個人技で無理矢理投手戦に持ち込んでいるだけである。

 そしてこちらはヒットを二本打っているが、後続が続かない。


 真田を打つのは、かなり難しい。特に左打者は。

 どうやら大介はヒットなら打てるようだが、その前後を封じられれば、ランナー残塁となる。

 ランナーを一人も出さないのに、味方の援護がないというのは、ピッチャーを疲れさせる。

 あちらはあちらで一人もランナーを出せないことに苛立っているかもしれないが、こちらもこちらであと一歩が押し込めない。

 こういう時こそ監督の采配を見せるものなのだろうが、なかなか一気に動く気配がない。


 膠着状態だ。あちらの木下監督もセーフティなどで揺さぶってきているが、直史が全く崩れない。

 球数もいい感じだ。あちらも早打ちは嫌っているようだが、一イニングに15球までは投げていない。

 もっとも真田の球数も、多いとは言えないのだが。

(そういやこいつ、ワールドカップで球数制限の中で投げるのに慣れてるんだっけ)

 秦野も見ていたワールドカップだが、大介の化物具合がより突出していたが、最優秀救援投手に選ばれ、12イニングをパーフェクトに抑えた直史も、たいがい化物なのだ。


 それにこの球数。

「ナオ、お前15回まで投げるつもりか?」

 思わず声に出して問いかけていたが、直史もさらりと答える。

「それまでに点は入るでしょうけど、そのペースでは投げてますね」

 マジか。


 直史の本気度は、スルーをどれだけ投げているかで判断出来る。

 投げすぎると指先の感覚がおかしくなるという球ではあるが、それでも一試合に20球程度は投げられる。休憩を挟めばもっとだ。

 今の直史はスルーも使っているが、ストレートで三振かフライを打たせることが多い。

 球速はともかく、チェンジアップとストレートを使うだけでも、かなりのコンビネーションがある。

 直史は指が柔らかく、そして長い。

 ストレートの球速が出ない原因はこれかとも言われているが、その分指のしなりをきかせているので、球威自体はあるのだ。

「エースを15回まで投げさせて完封させるわけにはいかないよな」

 秦野としてもそれは許せない。

 六回は先頭打者がラストバッターの直史であるが、直史はアベレージヒッターでもある。

 だがこの状況で、ピッチャーにバッティングまでは求めない、


 七回だ。

 このまま凡退が続くとしたら、七回は大介からの打順になる。

 そこで勝負を決める。

「次の回は、真田に球数を放らせることに集中しろ。七回で一点を取る」

 まさか甲子園の決勝で、ピッチャーに完封を期待するとは。

 どれだけ無能な監督なんだ、と思わないでもない秦野であった。




 気合の入った業者さんが短時間でグラウンドのコンディションを整える。

 六回の表の白富東の攻撃は、ラストバッターの直史からである。

 ぶっちゃけ直史は「打つな」と言われた。

 下手にバッティングをして右手に痺れでも残ったら大変だからである。


 直史の世間おけるイメージは「精密機械」。

 精密なだけに、ちょっとしたことで壊れるというイメージがある。

 だが実際には指に血マメを作っても、延長まで完全に投げきるという精神力を持るのだが。


 直史としても打つつもりはない。

 もちろんここで打って塁に出られれば、ツーアウトでも大介まで回る。

 だがここまで白富東の左打者一番から三番は、大介が単打を打っただけで封じ込まれている。

 もっとも他の右打者もほとんど封じ込まれているわけであるが。

(とりあえず単に三振するのは避ける)

 そう思って、死球だけは気をつけて立っていたわけだが、真田がフォアボールで直史を歩かせてしまった。

 ノーアウトでランナー一塁となり、ここは動かざるをえない。


 バッターはアレク。直史の足は、それほど速くも遅くもない。

 盗塁を決められる足はあるが、そもそもピッチングを優先しているため、走塁の練習はしても盗塁の練習はしていないのだ。

「監督、これまさか大阪光陰、わざと歩かせたとかないですかね?」

「……少し考えたが、さすがにそれはな。ツーアウトで白石に回るわけだし」

 直史を走らせて、少しでもピッチングに影響が出ればいい。そんなことを考える監督もいるのかもしれない。

 ただ木下はワールドカップの間でも、直史がノースロー調整をしなかったことを知っている。

 毎日必ず、キャッチボールでも300球は投げるのだ。試合に出場した日でさえ。


 これは現代のピッチング理論ではおかしいことのはずだ。

 だが直史は結果を出している。

 キャッチボールをたくさんするような筋肉と、速球を投げる筋肉は、違うはずなのだ。

 だが直史は投げる。そして左でも投げる。


 直史のピッチング練習というのは、漠然と投げる回数を増やすというものではない。

 フォームを固めるのと、コントロールの調整。変化球の変化量の確認。

 これはもう、やらないと気持ち悪いレベルにまで達している。


 習慣化してしまえば、過酷と思える練習量もそれほど辛くはない。

 さすがに一年の春は少しばかり鈍っていたのだが、球速自体は休んでいる間にむしろ増したと思う。

 直史はその身長に比して、体重はかなり軽い。

 おそらく単純に球速を求めるだけなら、150近くまではウエイトで上げられる。

 だがそれを選択しないのが直史だ。

 慎重なのだ。冒険をしないとも言えるが。




 一番に戻ってアレク。この試合三打席目。

 元々ゆらゆらと揺れるフォームであるのだが、この打席は最初から体を少し開いている。

 真田のスライダーが内角に投げられた時のための工夫であるのだが、もちろんこんなフォームでは、まともにヒットは打てない。

 だがアレクはまともな打者ではない。


 このフォームに不安を覚えたのは、もちろんバッテリーである。

 実は味方ベンチでさえ不安であったのであるが、アレクのやることは突飛であっても成算はあるのだ。

(確かにボールの軌道は見やすいけど、いきなりこんなフォームでヒットが打てるとは思いません)

(同感だな。ただこのフォームなら、送りバントは簡単だ)

 アレクはセーフティは時々決めるが、基本的に送りバントはしない。

 セイバーが得点期待値などを計算したため、ワンナウトで三塁まで進める送りバント以外は否定してるからだ。


 ただこの状況、アレクはバントも選択肢に入れていた。

 真田のボールのキレは凄まじく、特にあのスライダーは左打者にとっては魔球だ。

 哲平は二打席とも完全に封じられている。次の打席も期待は薄い。

(だけどランナーを進めても大介さんだと……)

 ランナーが二塁とかであれば、おそらく大介は歩かされる。

 すると鬼塚で勝負となるのだが、おそらく真田は打てない。


 と、ここまで考えたアレクは、開き直って打席に入ったのだ。

 簡単な話で、ヒットを打てばいい。

 そして長打を捨てるなら、こんなフォームからでも打てなくはない。


 対する大阪光陰バッテリーは、とにかく進塁打までに抑えたい。

 ボール球から入って、二球目はツーシーム。

 これをアレクは振りにいったが、ボールの頭をこすってしまった。

 高いバウンドではあるが、平凡なセカンドゴロ。

 二塁は間に合わないが、ファーストは俊足のアレクでもアウトだ。




 ワンナウト二塁。最低限の進塁打は打てたと言っていい。

 だがアレクにはヒットを期待していた。

 そして哲平はここも最低限の進塁打を決めた。


 ツーアウト三塁。ヒットが出れば確実に、それ以外でも一点が入る場面。

 ここで打席には不動の三番、大介が入る。

 だがキャッチャーの木村がベンチを見ると、木下から審判に伝令が走った。

(やっぱこうなるか……)

 申告敬遠である。


 大介は淡々と一塁に向かったが、スタンドからは大きな溜め息と、少なくないブーイングが発せられる。

 大阪光陰は地元大阪代表校ではあるが、その内容は全国から才能を集めた傭兵軍団だ。

 スタメンの中で地元大阪の出身は、一年の木村しかいない。

 真田だって長野県出身だ。これではなかなか、地元を応援しているという気になれないのもあるだろう。


 一方の白富東は、留学生枠を除けば基本的には全てが地元の選手である。

 野球部の寮などもないし、中学時代は無名であった選手もいる。

 一応は大介は東京、淳は宮城の出身であるが、現在の親元はしっかりと千葉県である。

 それにシニアで全国制覇をした真田と違い、直史も大介も、中学時代は部活軟式の無名選手であった。

 判官びいきという言葉はあるが、それに似ている。

 本来ならそこまで強くないはずの、野球エリートではない少年たちが、高校でその才能を開花させる。

 甲子園球場の観客だけでなく、高校野球が好きであれば、おおよそこの価値観は変わらない。


 ツーアウト一三塁で、バッターは四番の鬼塚。

 本日三打席目なので、並のピッチャー相手であれば、そろそろ一本ヒットが出てもおかしくはない。

(俺が打てば、この試合は勝てる)

 直史ならば、完封してくれる。

 それは信頼ではなく、ほとんど信仰に近い。

 だが直史は信頼を裏切ったことは、鬼塚の知る限りでは一度もないのだ。


 ボテボテの内野安打でもいい。もしくは振り逃げでもいい。いや、振り逃げでは難しいか。

 自分のような異分子を受け入れてくれた先輩たちの、最後の夏を勝って終わらせたい。

 真田はシニア時代から、ずっと脚光を浴びてきた才能だ。

 だからと言って、いつまでもその差が縮まらないわけでもない。


 三球目のスライダーを、引き付けて打つ。

 センター返し。内野の頭を越えて、センターの前に。

 だがセンター毛利は追加点のリスクを冒して、それをダイビングキャッチ。

 ファインプレイの成功に、溜め息と歓声に支配される、甲子園球場であった。


×××


 本日は群雄伝に追加があります。

 時系列では甲子園後の話ですが、ネタバレはありません。

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