第134話 祭りの前

 全国高等学校野球選手権大会、通称夏の甲子園。

 決勝前日には、一日の調整日が設けられている。

 昔は準決勝から、あるいはその前から四連投などということもあったのだから、いかにピッチャーがタフであるかが問題であった。

 決勝の試合開始時間に合わせると言っても、別に起床が遅くなるわけではない。

 六時には皆で起きて、散歩の後に朝食を摂る。


 今日は午前中を練習に当て、午後はみっちりとミーティングをする。

 ベンチに入ってからは、もう秦野が何も言わないぐらいで済めばそれが一番だ。

 順調だ。順調すぎる。

 ピッチャーの調整は万全であるし、大きな怪我人もいない。調子を崩している者はいないし、全てが計算通りに運用出来る。


 ところが世の中はそういうものではなく、何か一つぐらいは面倒が起こると決められているらしい。

 朝、珠美と共に監督用に分けてもらった部屋に、シーナがやってきたのだ。

「明日、あたしを出さないでください」

 ここまで男子に混じって互角以上に戦ってきたシーナが、そんなことを言うのは意外であった。

「……選手をどう使うかは、監督の仕事だ。結果的に選手がミスをすることはあるかもしれないが、それは選手を使う監督の責任だ」

「そういうことじゃなくってさ……」

 シーナが言い出せないので、代わりに珠美が言ってしまう。

「生理がきちゃったの。だから万全を期すために、外してって言ってるの」

「そ、そうか」

 これまで男しか指導してこなかったので、初めての事態に当惑の秦野であった。


 だがこれまでは、一度もそういう話はしていない。

 ここまでは上手く調整出来ていたのか、それとも我慢していたのか。

 少なくとも秦野の見る限り、シーナが変に調子を落としていた試合などはなかったと思う。

 ただそれを問いただすのは、セクハラ案件であるかもしれない。


 ならば言うことは決まっている。

「ベンチからでも、いくらでも出来ることはあるからな」

 そもそも秦野が来るまでは、ジンと二人でほとんどの作戦を決めていたのだ。

「お前はこのチームの、特に三年にとっては象徴みたいなもんだからな。お前の応援で、チームを優勝させるんだ」

 悔しそうに俯くシーナが、それでもしっかりと頷いた。




 あって当然のトラブルが、一つ起こったにすぎない。

 決勝は先発で直史を使うため、武史をサードにすれば、哲平はセカンドで使うことになる。万一どちらかがアクシデントで使えなくても、諸角がいてくれる。

 だからシーナは選手として使えなくても、ベンチにいるだけで戦力になるのだ。


 それぞれのポジションに、それなり以上にこなせる控えがいる。

 今のところはまだ、秦野の計画に狂いはない。

 直史も大介も普段どおりで、ジンにも問題はない。

(ファーストどうすっかなあ)

 外野も固めたが、問題はファーストなのである。


 単純に専門の上手さだけを求めるなら、戸田の方がいい。

 だが真田が投げてくるであろうことを考えると、左打者の戸田ではなく、右打者で打撃もいい倉田を使うのが当たり前だ。

 あと問題になるとすれば、大介がちゃんと勝負してもらえるかどうかだが、これはあまり心配していない。

 甲子園の無責任な観客は、大介とピッチャーの対決を願っている。

 それに真田は大介が比較的苦手な、横に大きくする変化球を持っているサウスポーだ。


 相手の投手が豊田である可能性は、まずないと思っている。

 もしも裏をかいてきても、それは単に左バッターが打ちやすくなるだけだ。

 ただ左投手の左打者に対する優位を、完全に持つ真田が厄介なのである。

 その点でもやはり、ファーストは戸田ではなく倉田なのだ。

 あとは孝司の打撃力をどこかで使いたいが、ほとんど経験のない外野をやらせるわけにはいかない。

 外野もやや守備範囲が広い中根と、ややバッティングがいい沢口のどちらを使うかが問題になる。

 さすがにキャッチャーはバッティングを考えても、ジンを使わざるをえない。




 軽く汗を流した後、宿舎に戻って昼食。そしてミーティングである。

「大滝と真田、大滝の方が打ちにくいと思ったやつ手上げろ」

 何人かいる。

「真田の方が打ちにくいと思ったやつ」

 こちらも何人かいる。

 ただ真田の方が打ちにくいと思ったのは、全員が左打者であった。

 やはりあの高速スライダーだ。速い上に、大きく曲がる。

 攻撃面ではあれを攻略しないと、なかなか点には結びつかないだろう。

 もっとも大介の後を打つ鬼塚と倉田は、大滝の方が打ちにくいと回答しているが。

 決勝の行方を決めるのは、右打者かもしれない。


 あとは相手の攻撃陣についてである。

 真田と木村のバッテリーで対戦するなら、打撃面もかなり上昇する。

 特に注目すべきは、毛利、大谷、後藤あたりだろうか。

 だが地味にいい仕事をしているのは、丹羽あたりとも思える。

 しかしどの打者にも、大介のような不条理さはない。

 ただ一番から九番まで、隙のない打線であることは確かだ。

 もっともここまでの試合でデータはかなり揃っているため、直史とジンのバッテリーなら、まず点は取られないだろう。


 大阪光陰の場合は、ベンチにいる一年生が恐ろしいのかもしれない。

 だがそのあたりの一年生は、中学時代の実績が残っている。

 孝司と哲平、それに淳にまで聞けば、だいたいどういう選手かは分かる。


 実際の話、データの少ない選手を相手にする場合は、問答無用で三振が取れる武史の方が、有利だとさえ言える。

 だがどんなバッターでも、スルーを打つのは初めてになるはず。

「まあ攻撃面に関しては、あちらの選択は一つしかないだろうけどな」

「待球策?」

「ビンゴ」

 秦野と同じように、ジンも考えていた。


 控えにも強力なピッチャーがいる白富東には、あまり待球策は意味がないようにも思える。

 だが直史をマウンドから降ろすことを考えるなら、それも仕方がないかもしれない。

 それに極端な話、待球策さえ出来ないほどのピッチングをすればいいのだ。

 まあ毎日合計500球も投げることもあった直史は、試合でも全力投球は少ないので、待球策はあまり意味がないのだが。

 それでも肩や肘はともかく、指先の感覚には影響が出るかもしれない。




 スタメンを発表した後は自由時間だ。

 今更練習をしたところで仕方ないので、多くのメンバーはここまでの大阪光陰の試合を改めて見ている。

 スタメン組は去年の真田の投球と、今年の投球のスコアを比べたりもしている。

「去年は投げてたシンカーを捨てたわけか」

「それがツーシームになってるんだな。完全に少し動かして打ち取るタイプか」

「カーブの割合が減ってるんだな」

「スライダーは相変わらずだけど、これカットボールがストレートに分類されてないか?」

 シニア時代の真田は、ストレートとカーブの組み合わせだけで全国制覇をした。

 それが高校一年の夏には、えげつなく高速で曲がるスライダーを手に入れていた。


 今年は空振りではなく、内野ゴロを打たせるための球種の割合が多くなっている。

「そんで相変わらずストレートは二種類か」

「MAXは149kmだけど、全力で投げて149kmなんじゃなくて、ここぞという時にMAXが出せるのがすごいな」

 ほとんど打てなかった大滝よりも、ピッチングのコンビネーションの技術としては優れている。

 だからといって球威は単純に下とも言えない。明らかにギアの違う二種類のストレートは、リード次第で二種類の変化球を持っているのと同じになる。

 それに普段のストレートと、より伸びるストレートでは、変化球と捉えるとしても意味が違う。


 全てのボールは、ピッチャーが投げたところからだ落ちていく。これはストレートも同じだ。

 そもそもマウンドが高いのだから、そうなるのが正しい理屈なのだ。

 だからピッチャーの投げる球というのは全て、どのぐらい落ちるかを基準に考える。

 これがアンダースローなどだと、遅いくせに一度ホップしてくる球に見えるため、錯覚が大きい。

 そしてオーバースロー、あるいはスリークォーターのくせに落ちない球は、ホップするように錯覚して見える。

 他のどの変化球にもない変化だ。だからホップして見える球は打ちにくいのだ。


 直史の考えでは、真田はカーブだけでなく、チェンジアップも覚えたほうがいいのではと考える。

 緩急差だけならカーブで充分だが、カーブだとリリースの瞬間から軌道が違う。

 まあ敵チームのピッチャーにわざわざ教えるようなことでもないが。




 さて、白富東が相手の分析をしているということは、当然ながら大阪光陰も白富東の分析をしているということである。

 特に白富東は露出が多いため、データはいくらでも揃っている。

 そして大阪光陰木下監督は確信した。

 白富東には勝てるチャンスが存在すると。


 もちろん必ず勝てるわけではない、だが付け入る隙はちゃんと存在する。

 だが去年の夏の敗戦以来、大阪光陰が覇権を奪還するためには、白富東の打倒が必須と考えられていた。

 幸いなことに大阪光陰には、それを可能にする戦力の要素が揃っている。……はずだ。


 野球とは点取り合戦のスポーツで、相手よりも一点でも多くの得点で勝つという、分かりやすいスポーツだ。

 相手から一点を取るのが精一杯なら、こちらは相手の得点を0に抑えなければいけない。

 相手を0に抑えられないなら、相手以上の点数を取らなければいけない。

 まずこの当然の前提条件の上で、戦略を考えなければいけない。


 去年の大阪光陰と今年の大阪光陰を比べれば、今年の方がおおよその要素で上回っていると思う。

 だがそれは向こうも同じだ。特に成長が著しいのは、二年生だろう。

 そして明らかに白石大介は、単なる球の勢いだけで抑えられる領域を超えてしまっている。

 すくなくとも大滝以上のピッチャーではいけなくて、今の高校生に大滝以上のピッチャーなどいない。

 だが投球のコンビネーションを考えれば、打ち取ることは出来るはずだ。三振までは求めない。


 そしてバッティング面。

 佐藤直史は岩崎と投球の機会を分け合い、二年になってからはさらに控えのピッチャーにも投げさせているが、それでもほとんどの試合で点を取られていない。

 取られても一点。最後に三点を取られたのは、皮肉にも大阪光陰との試合で、失投やエラーが重なった試合であった。

 だがあれからノーヒットノーランに参考パーフェクト。とんでもない記録を甲子園や世界の舞台で残している。

 この大会では二イニングしか投げていないので全く疲労は溜めていないだろうが、その分調整が上手くいっているかは分からない。

 少なくとも練習を偵察してきた者の話では、最低でも100球は投げ込みをしているので、故障ということはないだろう。


 何か弱点がないかは、ずっと探していた。

 はっきり言うと、ない。

 高校入学以来、公式戦に限って言っても、敗戦投手になったのはたったの二度。

 そのうちの一つが大阪光陰戦ではあるのだが、あれは雨の中の試合で、木下の経験が相手を上回って得点出来たものだ。

 二年の夏のピッチングは圧巻であった。桜島実業、そして大阪光陰と、ヒットを一本も打たれていなかったのだ。

 その後のワールドカップでは最優秀救援投手にも選ばれた。


 打者との対戦成績で見ると、一年の春にはさすがにそれなりに打たれている。

 だが夏以降は、ホームランは一本しか打たれていない。

 バッテリーの配球を読んだ上で、ヤマを張って打つ。

 大谷と後藤には、そういったバッティングをしてもらう必要があるかもしれない。


「せやから、早打ちは厳禁」

 ゾーンで勝負してくるピッチャーではあるが、追い込んでからはボールに逃げていく球も投げている。

 それを振らないことで、あちらの投球の幅を狭める。

 待球策は、おそらく通じない。去年だって延長までを一人で投げきっていた。

 今年は決勝なので、タイブレークはない。

 どちらが勝つかは、完全に真っ向勝負となるだろう。




 テーブルの上にノートを広げて、瑞希はそれぞれのメンバーからの言葉をまとめていた。

 昔ながらのノートの方が、パソコンよりも使いやすいというのは、本当だと思う。


 直史達が県大会の決勝で敗北した、一年の夏。

 あの時から書き続けてきたノートは、情報の密度は色々とあるが、もう30冊ほどにはなる。

 そこから取捨選択して本の形式にするわけだが、出来ればどんな情報も、全て書き残しておきたいものだ。

 まあ自分と直史の馴れ初めは、さすがに書くわけにはいかないが。


 夏が終わる。

 白い軌跡も、この夏で最後だ。

 本当ならば三年生の卒業まで、そしてその後の進路についても記録するべきなのだろうが、さすがに瑞希にも受験勉強というものがある。

 ドラフト前後に進路を聞くぐらいはするだろうし、今でもそれなりに進路については尋ねているが、おおよそは地元の大学か首都圏の大学に進学する者が多い。

 野球を続けるかどうかについては、ベンチ組はまず続けるだろうとは言っているが、スポーツ推薦で大学に行くかは決まっていないとのこと。

 白富東の三年の、ベンチに入っているぐらいのメンバーであれば、選ばなければスポーツ推薦でどこかには入れる。

 そして名門進学校の白富東は、スポーツ推薦以外でも、色々と大学に入れることが出来る。


 瑞希も成績は維持しているが、さすがに夏が終われば、全般的に受験の用意をしなければいけない。

『白い軌跡』は本編は甲子園の終了で終わり、その後の進路については自分の進路も決まってから、改めて確認していくべきだろう。

 あるいはこの記録は、誰かに引き継いでもらうべきだろうか。

 だがマネージャーにしても部員にしても、これだけの記録を引き継ぐ能力は……。


 イリヤか、あるいは双子はどうだろうか。

 イリヤはそもそも大学受験などしないだろうし、なんなら高校の卒業資格さえ必要としていないだろう。

 ただ彼女はこういった散文的な仕事は好きではないと思う。

「瑞希さん、何やってるんですか?」

 そう声をかけてきたのは、監督の娘である珠美であった。


 監督の娘。

 チームの内情について、一番詳しく書くことが出来るだろう。

 瑞希にしても実は、この春からの秦野の心情については、まだ聞いていない。

 その内容によっては直史に対する自分の態度で、彼に影響を与えるかもしれないと思っていたからだ。

「一年の夏からの記録を、この夏の記録と比べてるの」

「あ~、これがそうなんですか」

「お父さんの知り合いの会社で、製本まで出来るらしいから、学校の寄付金からお金を出してもらって、200冊ぐらい作る予定なんだけど」

「へ~……って、これ全部ですか?」

「本当はスクラップブックも含めてもっとたくさんあるんだけど、それは帰ってからの作業になるし」

 なるほどこういうことをする知的なところが、直史は好きなのかと、珠美は勝手に思った。


「珠美ちゃん、これの続き書いてみない?」


 だからそう言われた時には驚いた。

「へ? これの続きを? いやいや、あたしには無理ですよ」

「監督さんの娘さんだし、色々と聞けることも多いと思ったんだけど……」

「瑞希さん、卒業ですもんね」

「でも卒業するまでに秋の大会はあるでしょ? その結果ぐらいは書いておきたいと思うんだけど」

「受験ですもんね。う~ん、スコアぐらいは書きますけど」

「女子マネージャー増えたでしょ? なんなら全員で書いてもいいし。大学が決まったら手もつけられるし」

「あ~、そういうことならフミさんとかと一緒に書いてみるのもいいですね。記事にスクラップとかは今でもやってるし」

 どうやら白い奇跡は、その書き手も出演者も変わって、続いていくらしい。

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