第126話 誓い
先ほどとは似ているが、微妙に違う状況である。
白富東はいきなり先頭打者の倉田がツーベースを打った。
なので代走まで使って送りバントで三塁へランナーを進め、そこから一点を取った。
哲平の打席は結果的には一塁もセーフになったが、問題はそこではなかった。
春日山はまだランナー一塁で、これを確実に帰すためにはツーアウトまでにホームを踏まなければいけない。
たとえホームを踏んでも一塁でアウトになれば点にならない。
打席の上杉以外に、狙ってでも外野フライが打てる者はいないだろう。
(勝負は初球)
直史の投球練習を見ていたが、相変わらずセットポジションからのピッチングである。
小さなフォームで最大限の力を伝える。あの細さで140km台が出るのだから、いかに効率的に体を使っているかが分かる。
プレイの合図がかかる。
初球だ。
初球、樋口はスタートした。単独スチール。
それに対して直史は完全に外に外し、ジンもキャッチングからスローへスムーズに移行。
二塁のベースに入った大介のグラブにストライク送球。
そこに樋口のスライディングが当たった。
「アウト!」
スチール失敗である。
初球スチールを、ほぼ確実に秦野はやってくると見ていた。
やってこなくてもボールカウントが一つ増えるだけで、それだけならそれほど分の悪い賭けではない。
春日山としては、初めての、しかもノーアウトで出たそれなりに俊足のランナーを、大事にしなければいけなかった。大事にするはずと白富東は考えると、樋口は予想していたのだ。
実際に直史もジンも、注意はするがやってくると確実には読んでいなかった。
それを初球スチール。直史の呼吸をある程度察している樋口だからこその敢行であり、秦野としてもそれぐらいのリスクを冒さなければ、点には結びつかないと思ったのだ。
結果は見ての通りである。
地面に膝をついた樋口は、拳を握り締めたが、それを叩きつける先はない。
(完全に読まれていた! 大田か! 佐藤か! 監督か!)
リスクは承知の上であったが、勝算はそれなりにあると思っていたのだ。
ベンチに戻る樋口の肩は、さすがに意気消沈していた。
それを見送った秦野は、追撃の伝令を出す。
孝司からそれを聞いたバッテリーが、思わずベンチを見返すような指示であった。
頭の上に「!?」のマークが出ていた。
「……すみません」
樋口が謝ることは、滅多にない。
なぜなら彼は、失敗しないからだ。
だから彼がやったことには、充分な成算があっての上で、やらなければ勝てないのだと、春日山では誰もが分かっている。
実際に初球スチールなどというのは、冒険的ではあるが、他のメンバーは誰一人思いつかなかったのだから。
落ち込んでいる暇はない。
九回には大介の打席が回ってくる。その裏こちらはほとんど下位打線で、代打攻勢に出るだろう。
(白石をどうにか打ち取って、こちらの士気を上げて向こうの士気を下げる。じゃないと佐藤はどうやっても……)
考えるだに難しいが、それでもやらなければ。
そう思っていた時、金属音と共に歓声が上がった。
見れば視線の先で、打球がセンター前に落ち、上杉が一塁に達していた。
(打てたのか……)
ならば、樋口が塁にいれば、これでノーアウト一二塁。
全ては結果論だ。分かってはいるが、上杉の打撃に託していれば。
その後のバッターを打ち取って、ランナーは残塁。
この回、春日山は二本のヒットを打ちながらも得点することはなかった。
「えげつねえ……」
「ほんとにな……」
さすがの直史もドン引きした秦野の作戦。
それは上杉にわざとヒットを打たれるというものだった。
正気を疑う指示であったが、一応ちゃんと理屈はある。
上杉にヒットを打たせることで、樋口に「自分が無謀なことをしなければ」と思わせることだ。
春日山の頭脳は樋口であるので、樋口を崩せばあとはもうどうにでもなる。
出来れば内野を抜くヒットという指示であり、別に内野がファインプレイをしてアウトにしても、それはそれで盛り上がる。
だが実際にヒットを打たせたことで、守備につく樋口の顔色は明らかに悪い。
そして秦野はめっちゃ悪い顔をしている。
健全ではないが、まだいたいけな高校球児を、完全にハメてやったという悪役監督の笑顔であった。
「引くわ~」
「そこまでやるか~」
「思いついても出来ねえだろ……」
散々な言われようであるが、秦野としてはこのバッテリーなら、単打までに計算出来る組み立てが可能だと思ったのだ。
まさか本当にクリーンヒット一本で抑えるとは思わなかったが。
これこそ、取るべきリスクである。
「だけどまあ、これで勝負は決まった」
秦野の目の前では、大介相手に勝負に出るバッテリー。
「少しでも迷いを残すようなリードで、どうにかなるわけねえだろ」
大介のスイングと共に、バックスクリーン直撃のロングアーチ。
ソロホームランで二点目が入った。
鬼塚にもヒットを打たれたものの、その後は力づくで抑えて、二点差で九回の裏の攻撃となる。
去年と同じような状況であるが、去年と同じ手はもう使えないし通用しない。
八番から始まる打線に代打が出される。
そしてツーアウトで先頭に戻る。ここからランナーが出て樋口に回る可能性は――。
「ットライ! ッターアウト!」
今、0になった。
準々決勝第一試合は、2-0で白富東が勝利した。
整列後の挨拶で、樋口が短く問う。
「スチール見抜いたの誰だ?」
「うちの監督」
「ちなみに上杉にわざと打たせて揺さぶったのも、うちの監督な」
直史に伝えられて、さすがに引きつる樋口である。
試合後にだらだら話しているわけにもいかないので、樋口の負け犬の遠吠えは短い。
「まだ国体があるからな!」
「……言いたくなる気持ち、分かるわあ」
白富東バッテリーに同情される樋口であるが、それも仕方がない。
あと一歩で全国制覇を逃していた春日山の上杉。
そこに最後のピースとして嵌り、去年の夏には劇的なサヨナラホームランで優勝した。
ワールドカップの成績を見ても、樋口という選手が傑出していたことは間違いない。
だがワールドカップでも、相手のバッターだけに集中することが出来た。
いくら明晰な頭脳を持っていても、まだ高校生の樋口に試合全体までを差配することはスペックオーバーだったのだ。
ここでは勝ったが、まだ白富東は満足していない。
あと二つ。
高校野球最後の夏は、あと二つの試合を残している。
大急ぎで挨拶を終えて道具を詰めてベンチを後にする白富東。
さてここでお立ち台であるが、さすがに上杉にはわざと打たせたというのは禁句である。
秦野も監督としては甲子園初出場なので、そこまで悪辣な手を打つとは思われたくない。
ネタバレをくらった樋口にしても、そこまで手玉に取られたことは言えない。
確かに戦力的にも、白富東は春日山より上であった。
だが内容を見れば、秦野の策謀が樋口の頭脳を上回ったとも言える。
おっさんの甲子園勝利にかける情熱の、熱さと汚さを感じた試合だ。
ジンにとってはとてつもなく勉強になる試合であった。
準々決勝第二試合が行われる。
甲子園の常連、全国制覇も経験している帝都一と、チームとしては春夏初めてのベスト4を狙う城東の試合。
この試合は投手戦となった。
城東の島は150kmオーバーの左腕であり、間違いなく今年のドラフトに上がってくる逸材。
対する帝都一の二年生エース水野は、技巧派と言うよりは技巧にも優れた本格派。
島の力技に対して、水野はリードに従って着実にアウトを取る。
それでも帝都一の打線に対して、終盤まで点を奪われないのは、島と石田のバッテリーが、中学時代から続く堅牢なものであったからだ。
九回、四巡目の帝都一の打線が、島をわずかに捉えて、そこで一点。
最小失点の1-0で城東は敗北し、白富東と並んで関東の優勝候補、帝都一が準決勝に駒を進めた。
準々決勝第三試合。
大会最速右腕大滝を擁する花巻平と、ここまで下馬評を覆して勝ってきた、強打の蝦夷農産の戦いである。
ここまで全試合二桁奪三振の大滝は、直球に強い蝦夷農産に対しても、直球勝負である。
身長もある大滝の投げるストレートには、さすがの蝦夷農産もそう簡単にはヒットを打てない。
毎回奪三振となるが、しかしその中でも一本、当たれば飛ぶのが道産子パワーである。
花巻平は攻撃に関しては、四番の大滝を中心にしてはいるが、上位打線に好打者が多い。
蝦夷農産は守備が悪いわけではないのだが、小技への対処法があまり上手くない。
先制点を取られて、その後も守備の時間が長い。
東北に初の優勝旗をという願いと、試される大地で鍛えられた男共の戦いは、花巻平の有利に進んでいく。
それをテレビでのんびり観戦しながら、白富東は寸評を加えたりなどする。
「蝦夷農産、あせってないな~」
「キャプテンだけテンパってるだろ」
「面白いピッチャーだったよな、八田キャプテン」
「つってもそれなりに安打が出るところが恐ろしいと言うか」
「大滝も基本ストレートだしな」
ある程度のんびりとしていたのだが、画面の中で球場が湧いた。
「うお……」
「マジか……」
大滝のストレートが、160kmを叩き出した。
それまでは先制されながらも懸命に攻撃を加えていた蝦夷農産だが、この数字の力の前には屈服するしかなかったようだ。
それでも今大会、ここまで無失点だった大滝から、三点を取ったのは胸を張っていいだろう。
最終的に5-3というスコアで、花巻平が勝った。
道産子たちの快進撃も、東北の最速右腕の前に、叩きのめされたと言うべきか。
ちなみに蝦夷農産の選手の何人かは大学に進学し、また大学野球でも色々とやらかすのであるが、それはとりあえず関係のないことである。
そして、本日の最終戦、明倫館対大阪光陰。
センバツでは明倫館が勝ったが、その後の決勝での善戦や、春の大会の中国大会制覇で、もう誰もその実力を疑う者はいない。
だが冷静に見れば、センバツは相手の不調と隙を突いて勝ったのであって、戦力の計算では敗北していたのだと、監督と頭脳は分かっている。
大介の父である大庭、キャプテンの桂、そしてキャッチャーの村田である。
まず投手。高杉はストレートの威力でも、決め球になる変化球でも、大阪光陰の左右のエースに負けている。明倫館の二番手ピッチャーは、大阪光陰の三番手レベルだ。
次に打撃。予選からのホームラン数もであるが、チーム打率が圧倒的に違う。
守備はほぼ互角と言えるだろう。二遊間を中心に明倫館も鉄壁の内野陣を持っている。
走力は、平均だけを見れば互角なのだが、大阪光陰は走塁だけの専門家を保有していたりする。
「明確に勝ってるのは捕手の頭脳だけか」
「そうですね」
「相手がバカなだけですが、それは監督の能力で補っているのでしょう」
自分の頭脳についての評価は訂正させない村田であった。
そんな話し合いがあったので、一度は勝っている相手とは言え、舐めてかかれるものではない。
ただ大阪光陰は先を見据えて、豊田を先発にしている。
わずかではあるが、ここは隙と言えるだろうか。
(とは言ってもピッチャーの単体で見れば、高杉君より豊田の方が上ではある)
もっとも明倫館が大阪光陰に優る点は、キャッチャー以外にもある。
監督まで含めた、シニア時代からつながる結束力だ。
単に甘いだけでもなく、お互いの力を知った上での結束力。
お前なら出来ると言われて、本当にやってしまう、本来の能力を超えたパフォーマンス。
これを上手くコントロール出来たら、大阪光陰に勝つ光明が見えてくる。
大阪光陰はしょせん全国から集めた寄せ集めで、監督の意識がちゃんと浸透しているかは微妙だ。
(だけど、センバツで勝っちゃってるからなあ)
大庭としては初見の有利はない。油断もないだろうし、データの蓄積は向こうも充分だろう。
大阪光陰の戦力が最大となるのは、おそらく来年であろう。
明倫館は二年にもスタメンがいて、一年生もベンチに入っている。来年もそれなりに強いチーム力を発揮するだろうが、村田という異分子がいる今が、最大のチャンスであるのは間違いないのだ。
(守備は村田に任せた)
村田も自分のバッティング以外は、完全に守備に思考を傾けている。だから打順も少しいじってあるのだ。
(豊田と大蔵のバッテリーは、真田と木村に比べると数字は劣る。先制して逃げ切る)
基本方針はそれで行こう。
初回からランナーを出したものの、明倫館は無失点で表の守備を終える。
そして裏の攻撃であるが、継投を前提としている豊田は、序盤から150kmオーバーのストレートをガンガンと投げ込む。
リードは割りと単純であるのだが、初回は球威で圧倒された。
(だけどまあ、豊田のうちはなんとかなるか。問題はいつ継投させてくるかだが)
夏の大会から組んでいる、真田と一年の木村のバッテリー。
これがとてつもなく相性が良く、真田は一年夏の輝きを取り戻したかのような数字を残している。
大蔵も悪いキャッチャーではない。判断は早く、サイン交換は手早い。
下手に考えるよりも、どんどんと押していくタイプであれば、相性次第で上手くいくのだろう。
だが村田の目から見ると、ピッチャーの球威に頼っている部分が大きい。
雑魚レベルであればともかく、明倫館のクリーンナップを相手にすれば、完封するのは難しいだろう。
二回の表、全く安心できない五番からの打線を、どうにか三人で抑える。
そしてその裏、今日は四番に入っている桂が凡退し、五番の村田。
初球の狙い打ちがセンターオーバーの二塁打。
続く六番はピッチャーの高杉で、これもまたレフトの頭を越した。
なんと長打連発で、明倫館があっさりと先制したのであった。
ここでいい気になるほど、明倫館の首脳部は甘くない。
ワンナウトで二塁に高杉がいるという状況から、追加点が取れなかった。
早いカウントからフォークを使ってこられると、下位打線では手が出ない。
(厳しい展開になるかな)
大庭は見通すが、守備の面を村田が考えてくれるだけマシか。
その村田も、二点以内に抑えるのは無理だと断言していたが。
野球というスポーツは、結果は数字で出るものだが、数字で戦術を選択することは出来ない。
だがどうやら村田は、普通の人間には見えないそれらの要素を、頭の中で数字にしているらしいのだ。
そんな彼が言うなら、二点以内に抑えるのは無理なのは本当なのだ。
(あと三点、豊田からどうにか早いうちに取れるか?)
村田は二点以内に抑えるのは無理だと言ったが、早くにリードを広げてしまえば、向こうの拙攻を誘えるかもしれない。
どうにかして先手を取りつつ、最後までいなす。
(それにこの夏場は、高杉の消耗も激しいだろうしな)
知恵を振り絞る大庭であった。
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