第125話 秘密

(一点もやらないとか思ってるんだろうなあ)

 打席に入る哲平は、あまり緊張していない。

 それは期待されていることが、それほど難しくないからだ。


 秦野はこの試合、延長も覚悟している。

 そして回が進めば進むほど、白富東は有利になる。

 なにしろ春日山は使えるピッチャーが一枚だが、白富東は三枚もいる。

 倉田は引っ込めてしまったが、まだ打てるキャッチャーとして孝司がベンチにいる。


 それでもここで決めてしまいたい。

(押してはいるけど、上杉さんもいいピッチャーだからなあ)

 このピッチャーから簡単にヒットを打ってしまえる大介は、やはり化物以外の何者でもないと思う。


 監督のサインを確認する。

 相手の守備を見るに、内野は浅く、外野も前に出ている。外野の低位置まで飛ばされたら、その時点で終了ということだろう。

 秦野が試合前に言っていたことを思い出す。

 今年の春日山はぎりぎりのところで、守備の意識が統一されていないと。


 初球は外れてボール球。サインは出ない。

 二球目は際どいストライク。そしてここでサインが出る。


 三球目が投じられる瞬間、哲平はバットを寝かせる。

(スクイズ!?)

 選択肢の一つとして考えてはいたが、ここまで全くその気配を見せなかった。

 ファーストとサードがチャージしてくるが、すっと哲平はバットを引く。

 そして軽く当てた程度の打球が、前進守備のサードの横に転がる。

 サードではなくショートが追いつくが、ホームはおそらく間に合わない。

 それでもわずかな可能性にかけて樋口へと投げるが、ルール改正後のブロックでは奥田へのタッチは間に合わなかった。

 失望を引きずらず、ファーストに投げる。こちらもセーフ。


 一点が入った。




 続くジンをゲッツーで打ち取ったものの、値千金の先取点を取られた。

 こちらはこれから武史を攻略し、さらに直史まで対処を考えないといけないのに。


 白富東はサードにいた鬼塚を外野に送り、打席に入った哲平をサードにする。

 倉田の代走奥田は交代し、ファーストには戸田が入った。孝司ではなく本職のファーストだ。


 七回裏は一番からの好打順だが、それは同時にこれまで一人のランナーも出せていないことでもある。

 だがピッチャーフライに倒れた河田は、それでも情報を持ち帰ってきてくれた。

「なんかストレートのフォームがじゃっかん違わないか?」

 変化球と違うような気がする、という程度のものだが。


 ピッチャーの基本というのは、変化球もストレートも、同じフォームから投げるというものだ。

 だが樋口の目からは、それははっきりと分からない。

 ネクストバッターサークルから見ても、はっきりと分からない。


 春の合宿で樋口は、武史のボールを受けている。

 確かにえげつないものを投げてるとは思ったが、そこからさらに進化したのか。


 ストレートでショートフライとなり、スリーアウト。

 樋口の前で打線は切れた。

(153kmか。もう終盤でこの球威かよ)

 上杉の球威もまだ衰えていないが、それでもMAXを出すのはもう難しくなってきている。

 あとは変化球を使って、どう打ち取っていくかだが。


 八回の表は、まずラストバッターの武史をサードゴロでしとめた。

 そして先頭に戻ってアレクである。

(こいつをわざと歩かせる選択肢はあるか?)

 アレクをもしヒットなりフォアボールなりで出せば、次のシーナは送ってくる。もしくは進塁打に徹する。

 ランナーが二塁まで進めば、大介を敬遠する理由にはなる。


 だが既に予備タンクに体力を替えている上杉は、球威を取り戻している。

 単純に点を取られないことだけを考えるなら、アレクとシーナを全力で抑えればいいだけだ。

 そして九回の頭の大介は敬遠し、鬼塚、哲平、沢口、戸田で三つのアウトを取る方が簡単だろう。

 しかしここで、大介からまた逃げるのか。


 攻撃面において、春日山は武史に完全に封じられている。

 ここは大介と勝負してなんとか打ち取り、この流れを変えたいのだ。

 既に二本ヒットは打たれているが、ホームランにならない組み立ては分かっている。

 どうにかして三振を取りたい。

 大介にヒットに徹する打撃をされないためにも、ここは勝負だ。


 樋口がアレクと完全に勝負する姿勢になったことで、白富東のベンチの秦野は息を吐いた。

 これでおそらく、勝てる。

「なんだか樋口、少し迷ってましたよね」

 ジンの観察眼には、秦野でさえも驚かされる。

 選手ではあるが、既に監督としての戦術眼も持っている。

「歩かせるかどうかを迷ったんだろうな」

「歩かせる、ですか? そしたらランナーがいる状態で大介まで回ると思いますけど」

「じゃあお前、アレクがフォアボールかヒットで一塁にいたら、シーナには何をさせる?」

「……ああ、大介を歩かせる理由が出来るんですね」

 ジンの頭脳は一歩先の結論に行き着く。


 シーナが送るなり進塁打を打つなりすれば、一塁が空く。

 先ほどと同じように、大介を歩かせて塁を埋める理由になるのだ。

 だがここで樋口は、アレクを封じるという選択をした。

 打たれてしまえば大介を歩かせる作戦に移行するのかもしれない。


 秦野は笑う。

「やっとミスしてくれたか」

 倉田へのリードが甘かったことは、結果的なミス。

 だがここのアレクとの勝負は、選択した確実なミスであった。




 ここまでの樋口のリードは、完璧と言ってもいいものであった。

 大介を単打までに封じ、他のバッターはまともに塁に出さない。

 歩かせてしまった時も、それはその次のバッターで確実にアウトを取るための、主導権を握った敬遠。

 その樋口を狂わせたのは、白富東の打線ではない。守備だ。

 ようするに武史のピッチングだ。


 ここまで完璧に抑えられてきた春日山打線。

 他のチームメイトだけでなく、自分もまともに打てないし、ランナーが出ない。

 そこにあせりが生まれた。

 倉田のツーベースからの得点は、確かにリードのミスから始まったものであり、一点という重たい結果につながった。

 だがあの時点ではまだ、致命的なものとは言えなかった。

 あの一点は最終的な決勝点になるかもしれなかったが、それでもまだ一点だ。春日山のバッターは樋口と上杉以外にも、ホームランを打っている選手はいる。


 主導権を取り返そうと、大介との対決を選択してしまったのが本当のミスだ。もっともそういうようにこちらが誘導したのだが。

 直史にキャッチボールをさせた。これは登板の準備でもあるが、同時に精神的な揺さぶりだ。

 キャッチャーとして直史とバッテリーを組んだなら分かるはずだ。

 打てるのは自分ぐらいだろうと。

 そして直史なら、樋口を単打までで抑えられる。


 結果的に敗北することは変わらなかったかもしれないが、ここで樋口が選択するべきは、確実に大介を避けて他のバッターでアウトを取ることだ。

 今日の白富東打線はやや守備重視のため、そこさえ乗り切れば九回は楽にスリーアウトが取れるはずだったのだ。

「――ということだ」

「……おみそれしました」

 秦野の説明に納得するしかないジンである。


 しかし樋口も大変なものだ。

(キャッチャーに任せるのはせいぜい守備までで、攻撃の作戦とかまで全部ってのは酷だろうに)

 秦野はそう思って相手側ベンチを見るが、宇佐美監督にはそういった采配は取れないのだろう。

(それにしたって序盤からもっとしつこく粘ってくるとか、やりようはあると思うが)

 少なくとも自分なら球数を投げさせて、武史の球威の衰えたところを狙うことぐらいはやっていた。

 継投をどこで行うかは、また監督の役割だからだ。

 事実、白富東も今年のセンバツ決勝では、継投ではないが選手交代をミスして、危うく負けかけた。


 それに春日山は、選手自体のモチベーションの持ち方もおかしい。

 おそらく最も執念を持っていた三年が、去年の優勝で燃え尽きてしまったからだろう。

 打撃陣の成績は去年よりもいいはずだが、しつこく粘る力は落ちてきている。

 そこをまた、指導するべきは監督なのだろうに。


 アレクとシーナを凡退させ、ここでも追加点はない。

 だが次の回は、先頭が大介なのだ。




 そして八回の裏、春日山の攻撃は樋口から。

 去年より代打の得点力は上がっているが、それでも甲子園でエース級のピッチャーから計算して打てるのは、樋口と上杉ぐらいだろう。

 ここで点を取れなければ負ける、それぐらいの意識はあるのかもしれない。

(本気でリスクをかけるなら、前の回でアレクかシーナを歩かせた上で、大介と勝負するぐらいじゃないといけなかったな)

 もっともそんなリスク、秦野でも冒せない。


 武史のピッチング。肩が温まった50球ぐらいから始まるストレートの変化。

 その秘密は、実はそのままである。

 肩が温まったからなのだ。


 武史は小学校時代の水泳、中学のバスケと、肩を大きく回す運動をしてきた。

 肩の駆動域が広いのだ。もっとも水泳のように水が肩の勢いを殺してくれるのと違って、野球のピッチングではそのままでは、肩を故障する可能性がある。

 それを防ぐために、肩が温まるまでは、本当の意味での全力を出さない。

 そして全力が出せるようになれば、気持ち八分的に投げる。するとどうなるか。


 温まって柔らかくなった分、ほんの10cmほど、前でボールをリリース出来る。これは肩だけでなく、体の関節全体が柔らかくなるからだ。

 そしてほんの5cmほど、低い位置でボールをリリース出来る。

 低い場所から投げられたストレートは、ホップするように見える。

 これはトラッキングの機械で分析し、ほんのわずかな違いをなんとか測定したものだ。

 何かが違うとは思っても、なにが違うかまでは、機械の測定を使ってようやく判明したものだ。


 武史が本当の全力投球をするには、試合本番での50球程度のアップが必要。

 プロで使われるとしたら、完全に先発完投型の、今どき珍しいピッチャーになるだろう。

 もっともスタミナが抜群とまではいかないので、九回を投げきるにはそれなりに球数を考えなければいけない。




 そして樋口は初球のストレートを空振りし、理由は不明だが本質を理解した。

 ストレートの軌道が変わっているのだと。

 簡単に言えば、ホップしたように見える。


 ここでまだ150kmが出せるのはたいしたものだが、さすがに序盤よりは球速は落ちている。

 それにもかかわらずストレートの軌道はホップして感じられるのだから、それは打てないはずである。

 言うなれば、球速は落ちているが球威は上がっている。

 そんなありえない現象を体感しているのだ。

(合宿じゃあ分からなかった特性だ)

 樋口は一度バッターボックスを外し、バッティンググローブを調整した。


 想定するのは、直史のストレート。

 甲子園の剛速球投手とは比べ物にならない直史のストレートを、初見の外国人たちの多くは空振りし、打ち上げ、振り遅れた。

 体の柔らかさを使って、近く低い位置でボールをリリースしていたからだ。

 だから球が速いのではなく、リリースからキャッチまでの時間が早い。10cmのズレがミートにおいてどれだけ致命的かは、言うまでもない。


 バッターボックスに戻った樋口は、二球目のツーシームを見逃す。これはボール。

 三球目の小スプリットも見逃す、これはストライク。

(ボール判定だと思ってけど、大田はやっぱりキャッチング上手いな)

 これでもう、見逃しは出来ない。

 樋口に向けて投げられた四球目はストレート。

 当たる。だが、差し込まれる。

 コンマ一秒よりはるかに短い時間で、樋口はグリップの力を調節。

 半フライ性の打球が、ショート大介のグラブの先をわずかに越えた。


 レフト前ヒット。ついにパーフェクトが途切れ、ノーアウトのランナーが出る。

 そして即座に秦野は、選手交代を告げる。

 ピッチャー佐藤武史に代わり、佐藤直史。

 二回戦、三回戦と、完全に温存されていたエースの登場に、甲子園がざわめきで揺れる。


 一塁ランナーの樋口はキャッチャーだが足もあり、盗塁を普通に決めることは出来る。

 打席に立つ上杉はピッチャーとしての面が目立ってはいるが、バッターとしても樋口の後の五番として、山ほどの打点を稼いでいる。

「長打力もあるけど、そこまで求めるのは難しいだろうって監督は言ってた」

「つかタケのまんまでも行けたと思うんだけどね」

 マウンドで話し合うバッテリーは、秦野から作戦に関して伝えられている。

「う~ん、樋口がそんな冒険的なことするかなあ」

「上杉にバントさせて二塁に進めても、代打含めて打てるバッターはいないだろうからさ」

 上杉に打たれたと言われると、ジンが思い出すのはシニア時代のことである。


 春日山が得点を取るのは、おそらくこれが最後の機会だ。

 最終回は下位打線から始まるし、直史から連打というのは、考えることが都合が良すぎる。

 ここでなんとしてでも得点して同点に追いつき、それからのことは延長を覚悟して考える。

「とまあ、そんなとこだろうね」

「それに対して監督……」

「樋口ならやってくるかもしれないし、警戒してもこちらのデメリットはほとんどないけど……」

 秦野の直感には、敬意を表さずにはいられない。


 春日山がどうにかして作るべきシチュエーションは、ノーアウトかワンナウトで三塁にランナーを進めることである。

 直史からまともなヒットを打つのは難しいが、バントはそれなりに出来なくはない。

 代打にバント職人でもいるなら、スクイズで一点という手が使える。


 だから問題は、ランナーを三塁まで進めないこと。

 逆に言えば春日山は、なんとしてでもランナーを三塁まで進めなければいけない。

 一塁ベース上で、樋口は観察する。

 白富東のキャッチャー以外で、直史の球を受けたことがあるのは、ほんの数人。

 去年のワールドカップの折に武田と立花は受けていたが、二人は卒業している。

 つまり白富東以外では、最もよく直史を知る人間は、樋口であるのだ。


 八回の裏、ノーアウトランナー一塁。

 ついに登場したエースに、打席に立つのもクリーンナップを打つエース。

 この試合最大の山場がやってきた。

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