第110話 終わる夏

 三回の表は一失点で食い止めた三里であるが、攻撃側に全く相手ピッチャーを攻略出来る見通しが立たない。

 試合によってストレートを中心に使ったり、カーブを中心に使ったり、緩急で勝負したりと、色々なピッチングが出来るのが直史の強みだ。

 今日は完全にバランス型で、スルーを時々使っては、狙い球を全く絞らせない。


 直史の速球は、ここ数年の高校野球界では物足りない140kmそこそこが一番多いのだが、それでも県内レベルなら確実な速球派だ。

 しかしその球速に頼らず、緩急をつけた変化球を多用してくる。

 そしてその変化球を意識したところに、ずばりとストレート入れてくる。

 打てない。

 五回の終えた時点で、直史はパーフェクトピッチングを続けている。


「勘違いしてはいけないのは、佐藤君は確かに素晴らしいピッチャーだが、当てられないボールを投げるピッチャーではないということだ」

 ベンチ前にナインを集めて、国立は言い聞かせる。

「四球やエラーなどで出塁していることはある。球数を制限するために、あえて甘いところに投げてくる場合もあるんだ」

 確かにこの試合の三振はここまで七個と、それほど多いわけではない。

「大事なのは振り切ること。内野ゴロでも走りぬくこと。イレギュラーに送球ミス、出塁の可能性はいくらでもある」


 そんな指示は出たが、古田はちょいちょいと西をベンチの隅に誘った。

「監督はああ言うてたけど、まともにヒット打てるとしたら、俺かニッシーだけやろ」

 古田は自信家だが、確かに三里で出塁率が高いのはこの二人だ。

「ランナー出ることも大事やけど、まず振り切って俺らでヒット出さんと」

「分かってる」


 分かってはいるのだが、守備の方に集中力が取られてしまう。

 今日三度目のファインプレイで六回の表を0で封じ、七番の下位から始まる六回の裏である。

 あっさりとツーアウトを奪われ、そして打順は守備力重視の九番打者。

 打たされて緩いサードゴロになるが――。

「あ」

「あーっ!」

 イレギュラーバウンドで武史のグラブの中に上手く収まらず、体で止めた。しっかり握ったところで一塁はもう間に合わず。

 記録はエラーとなったが、ついにランナーが出た。




 手の中のボールをじっと見つめる武史。少し汚れてはいるが、握るのに支障はない。

「ごめん」

「うん」

 直史にボールを渡し、武史はバウンドしたあたりの土をならした。

 おそらく三里守備陣の小さなスパイク跡が、わずかにあったのだ。


 こういうことも、野球にはある。

 三振を奪っていくピッチャーではなく、典型的なゴロピッチャーのピッチングを行うと、そりゃあこういうこともある。

 ただコールドの成立しない決勝で、こんなミスをしてしまうとは。せっかくパーフェクトのチャンスだったのに。

 直史はフルカウントからボール球に手を出させるピッチングを行うことがあるので、一試合に一度ぐらいはそれに失敗することがあるのだ。

 パーフェクトが途切れて、それで集中力を失う直史ではないのだが、最近はコールド勝ちばかりでなかなかパーフェクトを狙う機会もなかった。

 貧打の三里相手ならば、パーフェクトで甲子園を決めることも期待されていたので、直史よりもむしろ武史の方が萎縮する。


 そして打者は先頭に戻って西。

「来たで~! 打ったれや~!」

 古田が叫ぶまでもなく、ここまであまり力の入っていなかった、三里のブラバンが応援曲を演奏する。

 ようやく出た初めてのランナー。期待するのは当然で、しかも出塁率も打率も高い西である。


 だが国立は冷静に考える。

 確かに西は三里でも二番目のバッターで、彼がホームを踏む回数は一番多い。

 しかしここでヒットが出たとしても、次の星。小技を使うならともかく、ツーアウトからでは採れる戦術が限られてくる。

 せめてランナーが二塁にいれば、ツーアウトだからヒット一本で帰ってこれる可能性もある。


 盗塁をさせる? 難しい。

 直史は常にセットポジションから投げ、クイックが素早い。フォーム自体に無駄がなく、タイミングを計りにくい。

 そして孝司も肩は強くスローイングの技術には秀でている。

(単独スチールは無理だけど、ここからヒットが続くことも難しい)

 直史は牽制でランナーを殺すことも多いので、リードも大きく取れないのだ。


 だが、ここを食い破りたい。

 力では圧倒的に負けているのだから、どこかで尖ったプレイをしてみせ、それで結果を出さなければいけない。

(ヒットエンドラン? いやここはランナーを利用して、どうにか球種を限定したい)

 リードを大きく取って、ストレートかそれでなくとも落ちる球を投げさせないようにすれば、西ならなんとか打ってくれる。


 バッターに集中されれば、三塁まで進んでもまずヒットは打たれない。

 走る姿勢を見せられる今が、おそらく打者にとっては一番有利。

(打ちたい)

 そう思っていた西に対して、初球は大きく変化するスローカーブ。

 ゾーンを通過し、打てなくもなかったが、タイミングを外されていた。

(ここで遅い球を投げてくるかよ)

 普通は初めてランナーが出れば、そちらに注意が向くのではないか?


 メンタルお化けは三里にもいるが、それとは全く別の次元の存在だ。

 考えてみれば佐藤直史が全イニングを投げて負けた試合は、一年の夏と二年の春だけである。

 他にピッチャーが潤沢にいたというのも理由ではあるが、それにしたって勝率が高すぎるし、防御率が良すぎる。

 公式戦を全て合わせても、確認出来る失点はおそらく10点もないのではないか。


 今はただ、鋭く打球を叩くことに集中する。

 速球が真ん中寄りに投げられたが、おそらくこれは変化球。

 ツーシームだ。外に逃げていくゾーンの球を、西は確かにジャストミートした。

 その鋭いライナーは、サードの正面で武史のグラブの中に収まった。

 これもまた、野球ということなのだろう。




 七回の表、ランナーがいない場面では、大介と勝負する。

 マウンドには星。東橋のスライダーも、既に一度使っている。

 ここは星の遅い球で、どうにかホームラン未満で抑えたい。


 単に失点を防ぐだけなら、ここも敬遠でいい。

 だが全く相手のピッチャーを崩せていないここは、相手のもう一つの武器を封じて、なんとか流れを持ってきたい。


 遅い球を投げよう。

 アンダースローから、日本で一番遅い球を。

 バットとの衝突の反発が少なく、しかもコースが高めであれば、むしろ掬われるよりもホームランにはなりにくい。

 ライナー性の打球なら野手の正面に飛ぶ可能性も高い。


 この遅い球に対して、大介は一瞬で計算する。

 ヒットにまではなるが、ホームランにはならない。どうしてもここまで遅いと力んでしまう。

 問題はタイミングだ。この遅い球にどうやってタイミングを合わせるか。

 遅い球をたっぷりと待っていると、今度は120km程度のボールが打てなくなる。

 見送ってワンストライク。


 おそらく一点のこのリードを、直史は完封で守ってくれる。

 試合に負けないことを最優先する直史は、まず失点を防ぐことを考え、そのためにランナーを出さないことを考える。

 失点の可能性が高ければ、バッターを敬遠するのにも躊躇はない。

 試合に勝つことが最優先で、完封やノーヒットノーランやパーフェクトは、それよりも絶対に優先順位は低い。

(ここだな。ここでもう一点入れれば、ナオなら好き放題投げても無失点に抑えてくれる)

 そのためには、あのアンダースローの遅い球を打つ。


 二球目は少し速い球をインローのゾーンから外れたところに投げてきた。

 さすがにこれは打ってもファールになるか、ホームランに必要な遠心力が得られない。

(タイミングか……。これだけ遅い球は、さすがに経験がないからな)

 直史でもここまで遅い球は投げない。

 遅い球を使うという意味では、星はひょっとしたら日本一のピッチャーかもしれない。


 どうするか。

 ここでホームランか、確実に点が取れる三塁打あたりを打って、試合を決めたい。

 遅い球のタイミングを無理矢理合わせる方法。


 三球目、遅い球。

 どうしても前に出そうな体を、右足を踏ん張って一度後ろに戻す。

 それは一見すると一本足打法であった。

 普通は三段階に分かれているバッティングを、無理矢理二段階のタイミングで打つ打法。

 世界のホームラン王の打法を、自然と大介は選択していた。


 高目から、ほんの少し沈む球。

 これに対してほんの少しだけ掬い上げるようにして、あとは腰からぶつかっていく。

 木製バットでも、これで飛んでいく。

 ピッチャーの頭上、センターの頭上、バックスクリーンへ。

 ビジョンを破壊する、二点目のソロホームランであった。




 三里の打線、相手のピッチャー。そして二点差。

 これで勝負は決まったようなものだと、誰もが思った。

 しかし七回の裏、先頭打者の星は、粘りに粘ってフォアボール。

 待望のノーアウトのランナーである。


 そしてここで秦野も動く。

 キャッチャーを孝司からジンに代える。

 日本で最も打たれていないバッテリーである。ワールドカップの成績は除く。


 マウンドに来たジンと、軽く打ち合わせをする。

「まあ少しでも打てる可能性があるのは四番の古田だけで、ここは送りバントでいいよね」

「ゲッツーがない限り、九回の最後にまた星に回るからな。ただ打っても一点だし、そもそも打てる可能性は低いよな」

「なんとかして一死三塁にまでしてくると思うんだけど、盗塁はないよね?」

「上手くバントして、こっちがのんびりファーストでアウトを取る間に、一気に三塁まで進むとか?」

「それはありそうだけど、ホッシーをそこまで走らせるかなあ」

 星はピッチャーで、足腰の負担の大きいアンダースローを駆使してくる。

 走塁で足腰のスタミナを失わせるのは避けたいはずだ。

「だからこそやってくる可能性もある」

「なるほど」

 ここで一点も取れなければ、おそらく試合は決まる。


 ホームベースまで戻ったジンは、ファーストとサードを前進させる。

「送りバント注意! ファースト優先! 一気に三塁まで走ってくる可能性もあるからな!」

 やってくるなら素直に三塁線かとも思うが、ファーストに倉田が入っているため、戸田に比べるとチャージに不安は残る。

 だが守備固めに戸田を使えない。孝司をベンチに戻してしまったため、ジンが怪我でもしたら、倉田を使わなければいけないからだ。

 まあ今日の場合は武史をピッチャーで使い、直史がキャッチャーでも大丈夫だとは思うが。


 どうにかしてランナーを三塁まで進めて、どうにかして古田で一点を取って、まだランナーが残っているというのが三里の理想的な状況だろう。

 しかしそんな、何もかもが上手くいくと考える方が無理がある。ピッチャーである星を走らせて一気に三塁というのは確かに考えたが、警戒されていれば不可能だろう。

 わざとやらせてそこでアウトなどと考えずに、牽制して着実に封じてくる。

(真っ当に勝負するしかないか)

 三番がファーストに送りバントを決めて、ワンナウト二塁となった。




 初めてスコアリングポジションにランナーが進んで、四番の古田。

 ホームランが出れば一気に同点であるが、そんな贅沢は言わない。

(外野は少し前進か。頭越えたら確実に一点やけど……)

 一点を返して、ワンナウト二塁か三塁。三塁まで進めていれば、スクイズという手もあるが。

(それは都合よう考えすぎやな)

 まずは普通にヒットを打つだけでも難しいのだ。

(ワンヒットで一点ちゅうのも無理って言うか、そもそも普通にヒットを打つんがめっちゃ難しいし)

 バッターボックスに入った古田には、初球からスルー。

 さすがにこの状況では厳しくリードしてくるし、三振も狙ってくるだろう。

(俺が打たんと、もう無理や)

 ここで打っておけば、最終回にもう一度回ってくる可能性が高くなる。

 星がホームに帰ってこなくても、古田がヒットさえ打っていれば、次の打者は内野ゴロ、外野フライ、スクイズのどれかで一点は取れる。

 ただボールを選んで四球出塁では、おそらくゲッツーの可能性が高まるだけ。


 打つしかない。

 左への内野安打では、星が三塁へ進むのが難しい。クリーンヒットがいる。


 二球目は内角に食い込んでくるシンカーで、球速がそれなりにあった。

(ほんまなんでも投げられるんやもんな)

 ツーナッシングとなったが、三球目で勝負してくるか。

 直史は遊び球を使わないが、振らせるためのボール球は投げてくる。


 三球勝負か否か。

 ジンのサインに二度首を振る直史であるが、首を振ったからといって全力のストレートや、決め球を投げてくるとは限らないのがこのピッチャーである。

 何を投げてくるか読めない。

 この迷いこそが、直史が打たれない理由であり、打てても長打にならない理由なのだ。


 国立には直感的に分かる。

 次で決めに来る。しかもダメージの大きな方法で。

「タイム! 古田!」

 声をかけてサインを出す。おそらくこのどちらか。しかしどちらかは分からない。

(インハイかアウトローか。普通のピッチャーやったらそうやろうけど、こいつ……いや、監督がはっきり言うからには)

 インハイかアウトロー。インハイなら球種次第では狙い目ではある。


 そして三球目のアウトロー。

(ハーフスピード! 外れてる!)

 ここから曲がるか、逃げるなら振っても空振り。ぎりぎりボール。

 外側から被せるように、ジンは絶妙にキャッチする。

「ットライクスリー!」

 ハーフスピードのただのストレートが勝負を決めた。




 あれが高校最後の打席なのか。


 振らなかった古田に、国立は何も言わなかった。

 あれを振らなければ、一生後悔するのは、わざわざ言わなくても分かっている。

(無理矢理にでも振らせる指示を出すべきだったか)

 この試合だけでなく、古田の人生そのものに、大きな痕を残しただろう。


 九回の表にも一点を追加され、最終回の裏、既にツーアウト。

 最後の打者になるのか、バッターボックスには星。

 ツーストライクから粘ってはいるが、おそらくはヒットは打てない。


 ベンチからは最後まで諦めるなと応援の声がかかる。

 古田は手を組んで、ただ祈る。

 せめてもう一度だけチャンスを。

 勝利をとまでは言わない。ただもう一度、バットを振る機会を与えてほしい。


 だが現実は残酷。星のバットはボールをほぼ真上に上げる。

 ジンはマスクを取り、緩いそのフライをしっかりとキャッチした。

 試合終了。白富東、二年連続二回目の優勝である。

 おまけではあるが、直史はノーヒットノーラン達成である。


 終わった。


 それでもベンチからは歩み出て、整列し礼をする。

 三里高校の三年生の高校野球が終わった。

 3-0というのはある程度立派な数字に見えるが、点を取るチャンスは一度だけであった。

 その一度を四番が逃し、全ては終わった。

 あそこで打っていたとしても、試合の趨勢に影響はなかったかもしれない。


 古田を責める者はいない。そもそもこいつがいなければ、センバツの出場だって無理だったのだ。

 この大会でも、決勝打を二本も打っていた。ここで打てなくても仕方がない。

 他の誰だって打てなかったのだから。




 応援団へも感謝の礼をし、一度ベンチへ戻る。

 閉会式があるというのが、敗者にとってはむしろ残酷だろう。

 ベンチを去る三里の選手たちであるが、敗者にもインタビューは訪れる。

 監督である国立と、キャプテンである星に。

「悔いはないです。悔いはないんですけど、それでももう少し、野球をやっていたかったです」

 星は悔しさを抱えつつも、それを消化しようとしていた。


 国立も冷静に応対する。

 一番悔しいのは選手たちであるし、三年生にはもうリベンジの機会もない。

「全力は尽くしたつもりですが、それでももっと何かしてやれなかったのか、考えることばかりです」

 球場外でも応援団の人間や学校関係者と話をしてから、ようやくバスに乗れた。


 一二年生はともかく、三年生はどこか、魂の抜けた顔をしている。

 夏が終わった。

 だが人生は続いていく。

「今日は休み。明日は10時から最後のミーティングを行って、話をしよう」

 無言のまま、バスは学校へと戻っていった。




 その日の夜、国立は古田の家を訪れた。

 他の選手はともかく、古田だけには早く話をしておかないといけないと感じたのだ。

 あの日のようにまた、二人は家を出た。

 小さな空き地で、同じように話す。


 古田は謝らない。

 謝って済むような問題ならともかく、謝ってもどうしようもない。

 だが罪悪感がないわけではない。

「愛知県の企業チームに大学の先輩がいるんだ」

 国立は前置きもなく言った。

「君を見て、ぜひ入社してほしいと言っていた」

 古田はそれほどの選手だ。


 家庭環境から、大学進学は難しいと知っている。

 だが現段階での実力では、プロから声がかかることも難しいだろう。

 フィジカルなどの面で、育成なら取ると言ってくる球団はあるかもしれないが、今のところは特に国立に接触して来た中で、積極的に古田のことを知ろうとした者はいない。むしろ国立のチーム作りに興味を持っていた。。

 国立の目から見ても、今の古田ではプロでは通用しないのは確かだ。

 確実に給料も出て野球が出来て、そして何よりプロへの道は閉ざされていない。

「君が野球の力で切り拓いた道だ。そしてもう一度バットを振りたいなら、これが一番だと思う」

 古田は無言である。

「親御さんがいる時にまた来るよ」

 古田の両親は息子の晴れ舞台でも、仕事を休んで応援には来ていない。


 これから、高校野球を終えた三年生がどんな進路を歩んでいくのか。

 監督としてではなく教師として、国立は彼らを導いていかなければいけないのだ。

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