第105話 窮鼠

 四番の鬼塚がフェンス直撃のツーベースで出塁した後、五番の倉田がセンターの深いところのフライでスリーアウト。

 初回の攻撃を一点だけで抑えたのは、客観的に見れば善戦なのだろう。

「くそっ! あれでもホームランって、何投げればいいんだよ!」

 ベンチに戻ってきたコータローが、グラブを叩きつける。

 それを抑えるはずの深津も、考えることが多すぎて余裕がない。

「道具は大事に扱わないと」

 女監督ということで注目を浴びていた晶は、別に男勝りの性格というわけでもなく、母性的な包容力を持っている。

 だがグラブを受け取ったコータローにはウメボシの刑である。

「あだだだだ!」

 審判に目をつけられる前に手を離し、そして深津に話しかける。

「どう?」

「想像以上です。正直まともには抑えられません」

 隠す必要もない。圧倒的な真実だ。

「まともじゃなかったら抑えられるのね?」

「かなり運頼みですけど」

「野球は七割運のスポーツよ」

 これは晶の持論である。


 良い当たりほど、野手の正面に飛ぶ。

 甘いコースを力んで打ち損じ、ゲッツーを取られる。

 四球だけはまずい。キャッチャーも監督も寿命が縮む。


 打たせて取るのは当初の予定通りであるが、予定と大きく違うことが一つ。

 それは球数だ。

(一イニングだけでもう28球も投げさせられてる!)

 アレクに六、シーナに八、大介に六、鬼塚に四、倉田に四。

 打たれるのはまだ覚悟していたが、待った上で打たれるのは想定外だ。


 コータローはスタミナ不足のヘロヘロピッチャーではない。一年にしてはかなりの体力を持っている。

 なにせ練習スペースが狭いだけに、校内を使って基礎体力の向上を一生懸命行ってきたからだ。

 だがそれでも、高校生活最初の夏は、スタミナを気にしなくては戦えない。


 甘めに想定して一人あたり五球。一イニングで20球。

 それでも九回まで投げるなら、180球となる。

(どこかで一桁の回を作らないと、打たれる前にコータが潰れる)

 そして三年のピッチャーには、残念ながら一イニングも抑える能力はない。

「悪い癖、考えすぎちゃダメよ」

 深津にしか聞こえないように、晶は囁く。

「バックを信じなさい。それと、今は攻撃ね」

 攻撃の時間を出来るだけ長くし、コータローを程よく休ませる。

 球数だけでなく、そういった部分でも体力の計算をしなければいけない。


「監督」

 今更の話ではあるのだが、深津は晶に語りかける。

「浦安西って反対にして縮めたら西浦になりますよね。ジャイアントキリングには相応しい名前だと思いませんか?」

 あちらは前年の甲子園出場校に、一年の10人だけで勝ったのだ。

「勝てば、それ以上の伝説ね」

 晶は微笑み、打席の一番打者に声援を送る。




 本日のスタメンバッテリーは、岩崎と倉田の組み合わせである。

 色々と縛りを入れた試合をさせた秦野であったが、この試合の縛りはそれほど異常な縛りはない。

 バッターに対しては、序盤は待て、ということ。

 そして岩崎に対しては、この試合を完投し、明日も完投する前提で、八割の力で抑えること。

「まあ八割ってのはさすがにその球速じゃないだろうけど、ストライク先行で早めに勝負ってことでいいかな?」

「そうだと思います。変に力まず、キレを重視するということで」

「おーけい。球種を満遍なく使って、明日も投げるつもりで行くか」


 おそらくこれは、思ったよりもキツい縛りだ。

 夏の大会は負けたら最後。特に岩崎達三年にとっては、最後のトーナメントなのだ。国体は除く。

 ピッチャーの枚数、控えの選手層、力任せでも勝てないわけではない。

 だが力任せでどこかに無理がかかれば、甲子園の超強豪相手では、負ける可能性はある。


 負けたら終わりの大会で、最後まで勝ち抜くことを考えて、余裕を残して勝つ。

 おそらく監督としての秦野が言いたいことは、そのへんなのだろう。

「先頭バッター、けっこう出塁率いいし足もありますから、少し注意していきましょう」

「小さいやつだけどな」

「リトル時代は天才って呼ばれてましたよ。あの体格だと、シニアより上では使われなかったんでしょうけど」


 先頭打者の松宮は、公称によると160cmの一年生だ。

 大介を見ていれば、小さい選手を侮る気にはなれない岩崎であったが、少なくともデータ上は長打はない。

 投球練習で自覚する限りは、調子も悪くない。

(打線がコールド取れないなら、ノーヒットノーラン狙っていくぞ)

 初球はまずインハイで、その小さなフォームを起こそうか。

 そう思って投じたボールは、綺麗にライト前に弾き返された。




 よし! と思わず拳を握り締める浦安西ベンチ。

(やっぱりあちらは、うちのデータをそれほど持ってない)

 無名であることも悪くはないと思う晶である。


 浦安西の先頭打者の松宮は、初打席の初球をヒットにする確率が高い。

 それはやはりあの体格から、相手のピッチャーが無意識に侮ってしまうからだ。

 打って帰すのが一番多いのは深津であるが、ホームを踏むのが一番多いのは松宮だ。

「ショーちん出たー! 先輩! 職人バントお願いします!」

「うっしゃあ!」


 これに対して白富東は、明らかにあらら、という雰囲気である。

「狙ってあそこを打てるバッターか。まああの体格なら、インコースは強くて当たり前なのかもな」

 秦野は冷静であるが、浦安西は初回の攻撃で点を取っていることが多かった。

 全体的な打率ではそれほどでもないが、集中した打席で打ってくるタイプのバッターか。


 岩崎は明らかに落ち込んでいるが、八割で投げれば仕方ないかとも思う。

「ガン先輩! 完封すればいいですから!」

 あえて倉田は発奮するように声をかけるが、岩崎もちゃんと自分で立ち直れるのだ。

「送ってくっから! 指示間違えんなよ!」

 倉田に声を返しながら、一塁の松宮を睨みつける。

(前の試合でもいきなり初球を叩いてたよな。高めの釣り球に見えたけど、甘かったら初球から打つタイプの一番か)

 ポジションもショートだし、センスはいいのだろう。それに盗塁も決めている。


 意外と侮れないとは、事前に分かっていたはずだ。

 これでゲッツーがない限り、四番の深津に回る。

 三回戦ではホームランも打っているので、甘く見ていい打者ではない。

(ただそれでも、基本はタイムリーで帰すわけで、スコアリングポジションまでは送ってくるよな)

 二番はもう最初からバントの体勢である。




 送ってくるなら、素直に送らせればいい。秦野はそう考える。

 次の三番が進塁打を打ってツーアウト三塁。そして深津の打席となるわけだが、普通に勝負して深津が岩崎を打てるとは思わない。

(むしろ初球単独スチールとか注意しろよ)

 盗塁注意のサインを送れば、倉田もそれを岩崎と共有する。

(盗塁ね。俺とモトの肩で出来るのか?)

 ありえなくはないが、やはりここはスコアリングポジションにランナーを進めて、深津の打撃に期待するところだろう。


 セットポジションから見るに、リードはそこそこ大きい。

 ふむ、と一球牽制をしてみれば、戻りもちゃんと早い。

(送ってくるなら送ってくるで仕方ないか。ただ、普通にはやらしたくないな)

(高めに速い球を。ガン先輩の球なら、このレベルのバッターはバントも難しいはず)

 150kmをバントする練習環境は、浦安西にはなかったはずだ。


 ベンチから見る秦野の目は厳しい。

(ここで初球から普通に送ってくるなら、まあその程度なんだろうけどな)

 当てられるコースのストレートを、バットを引いて見送る。

(ストライクをちゃんと確認したか。ただがむしゃらに突っ込んでくるわけじゃないな)

 そしてファーストとベンチを見るが――。

(ん?)

 何か今、サインのやり取りがあった。普通に考えるなら、何球目にバントをするかということなのだろうが。

 いや、何か臭う。

(ここで伝えるべきなのか……いや、やらせるか)

 何があっても潰してほしいし、潰せなくても経験になる。




 ここだ。


 単純に送りバントでは、相手の土俵の範囲内で戦っていることになる。

(そもそも単純に一点を取ったって、相手は何点でも簡単に取ってくるチーム。全然ダメージなんて与えられない)

 コータローを盲信することは、身内だけにむしろ出来ない。

 浦安西の女監督、青砥晶は考える。


 岩崎を崩しても、白富東は佐藤兄弟、中村と、全国レベルで投げられるピッチャーがいくらでもいる。

 だが相手は、この試合に全てを注ぎ込んでいるわけではない。

(甲子園、そして全国制覇も狙えるチーム。それに岩崎君はプロからも当然注目されている)

 一点や二点、弱小校に取られたとしても、マウンドから下ろさずに使い続けるだろう。

(でもいくら調子を崩しても、単なるストレートだけで、うちの打線は封じられる)

 ストレートに絞っても、打てるのは松宮と深津、かろうじてコータローぐらいか。

(松宮君なら、崩せる)


 強豪校の弱点だ。

 先のことを見据えているために、その場に限って最善の合理的な判断が出来ない。

(うちはもう、この試合に全てを出し尽くす。なんでもやる!)

 強くなるのは来年、再来年だろう。一回戦は数人しかいなかった応援が、夏休みに入ったこともあってブラバンとチアが参加してくれている。

 この勝利の味を知って、今の二年も貪欲になってほしい。

(でも三年のために、二人のために、ここで勝ってほしい!)

 次の試合のことは、勝ってから考える。

 王者を倒せるのは、何も持たない前に進むしかない戦士だ。




 初球はやってこなかった。

(う~ん? 初球からやってきたら簡単にアウト一つで良かったんだけど)

 岩崎も散々、苦労し苦悩し挫折してきた人間である。

 天才がいつも一歩先を行っていると思っていたら、後からやってきた後輩までが、追い抜いて行こうとしている。

(追い抜かれたからって、走るのをやめるわけにはいかないんだよな)

 一塁ランナーを見て、セットポジション。相変わらず大き目のリード。

 牽制はしすぎると、むしろタイミングを憶えられてしまう。

(だけどまあ――走る!?)

「ボーク!」


 一塁塁審のボーク判定。

 スタートと見せかけた動きをした松宮は、小さくガッツポーズをしながら二塁へ進んだ。


 立ち上がった倉田に対して、岩崎は苦笑しながら首を振る。

 強がりか、それとも余裕か。

 手の中のボールをコンコンと額に当てると、やはりまた苦笑を浮かべる。


 立ち上がったままの倉田を、座れとグラブで指図をする。

(大丈夫……なのか?)

 岩崎はちらりと二塁ランナーを見たが、後は相手のベンチを見ている。

 倉田もそちらを見て、相手の女監督と目が合った。

(奇襲か)

 戦力が劣るものが優るものに勝つには、まず先制打が必要だ。

 しかし先取点を与えてしまった以上、その最大のチャンスはもうない。

 ならば相手を崩し、どこからか隙を見出す他はない。


 自軍のベンチを見れば、ジンは手すりに顔を乗せているが、秦野はベンチに座ったまま腕組みをしている。

 動じていない。まだ任せてくれている。

(奇襲は二度続ければ本当の奇襲になるって書いてあったよな。でもここで送りバント以外の選択は……)

 一死三塁になれば、スクイズ以外にもいくらでも得点の入るパターンはある。

 ここでムキになって自滅するのが、相手にとっては唯一の勝機であろう。試合の映像を見る限り、深津以外に注意すべきバッターは、四球を選ぶのが上手かった松宮ぐらいだ。

(つまり相手に奇襲があるとすれば……)

 倉田も考える。

「内野注意! 一気にホームあるからな!」

 送りバントは当然のように決め、送球に隙などがあれば、一気にホームを突く。

「ちっ」

 浦安西のベンチで舌打ちする晶であった。




 送りバント成功で、一死三塁。

 ここで浦安西は、スクイズは選択しない。

「キャプテンが打てますか?」

「スクイズを見抜かれて外されるのが怖いし、スクイズを警戒してボール先行すれば打者有利になるし」

 だがこの読みは外れる。

 やるならやればという具合で、岩崎はストレートとスライダーを組み合わせ、最後はインハイのストレートでバットを振らせることもなく三振。


 ツーアウト三塁で、期待の打者深津。

 白富東としては、万全を期すなら敬遠でもいいのだが、前の試合まで三番を打っていたコータローは、今日は五番に入っている。

「どう見る?」

 秦野は何も指示を出さず、選手の自主性に任せる。

「ガンちゃんはもう大丈夫ですね。たとえここで一点取られても」

 ジンはちゃんと見守っているが、下手に指示は出さない。

 同じく本日はベンチスタートの赤尾は、ぽそっと呟いた。

「深津って、足も速いんですよね」


 ここでまさかのセーフティスクイズ。強いゴロに備えて深めに守っていたサードは、武史ではなく哲平が入っている。

(しまったー!)

 ダッシュしてファーストに投げるが、ヘッドスライディングでセーフ。

 浦安西はすぐに同点に追いつくと共に、この大会にて白富東に初めての失点を与えたのであった。




「おーい、深津ってああいうことするやつだったじゃんか」

「ああ。すみません、ガン先輩」

「いや、いーよ。その前のヒットとボークが問題だったし」

 さばさばした岩崎の返答に、毒気を抜かれる赤青コンビ。

「ジン、今日の俺ってまずく見えるか?」

「いや、相手が必死だっただけだわ」

「だよな」

 涼しい顔の岩崎は、本当に気にしていないように見える。


 問題はないと、秦野にも思える。

 足があると思わせたランナーを背負いながらも、五番をファーストゴロにしとめた。無理に三振を奪いにいっていない。

「岩崎は八割だけ意識しとけばいいぞ」

「はい、そのつもりです」

 秦野の八割の言葉の意味を、ジンもなんとなく分かってきた。

 これは岩崎に力ませず、普段通りのピッチングをさせるための言葉だ。


 まともにやれば、白富東は負けるはずはない。

 だがこのまともにやるのが、案外難しかったりする。

(セイバーさんは時々天然でやってたけど、この人のは計算だよな)

 いい監督の下で学べている、とまた感じているジンである。


 それはそれとして、二回の表は六番に入っている哲平からだ。

(守備のミスはバットで返す!)

「おーい、一巡目はじっくり見てけよー」

 とぼけた感じの秦野の声に、いつの間にか入っていた肩の力を抜く哲平である。

(そうだよな。下手にバットで返すなんて気負わず、しっかりと攻略を考えていかないと)

 左打席の哲平を見て、キャッチャー深津は考える。

(青木……全国レベルのバッターだったこいつが、普通に六番。バッティングのいい赤尾と佐藤次男もスタメンにいないから、どちらかと言うと守備重視のはずなのに)

 見るはずの哲平の発する気迫に、どうしてもマイナスの考えをしてしまう深津。


 春の大会でも、強豪相手の練習試合でも、こいつはホームランを打っている。

 だから細心の注意が必要なのだが、ボール先行は球数が嵩んでくる。

(強気で行こうぜキョージ! 先輩らの守備を信じるんだ!)

(分かったよコータ。じゃあ強気で、内野ゴロを打たせよう!)


 哲平は球種を判別しつつ、ボール球を見送り、追い込まれてからも難しい球をカットしていった。

 最終的には際どいところを見逃して三振に取られたが、誰よりも多い12球を粘った。

 しかし七番の沢口と、八番の戸田も、粘りはしたが内野ゴロに打ち取られ、この回は無得点。

 ベンチ内はそうでなくとも、球場全体の空気は変わりつつある。


 ここで攻めたい。

(だけど岩崎君、完全に立ち直っちゃってるのよね)

 ストレートにこだわることもなく、変化球を駆使して三者三振。

(うちぐらいには舐め切って、ストレートの力押しでもいいでしょうに)

 だがこれで、二イニングが終わって、1-1の同点。




 この回、白富東は二巡目に回る。そしてコータローはここまで既に、58球を投げさせられている。

(強いくせに隙がない)

 深津としても必死でリードはするのだが、白富東は下位打線でも、簡単にコータローのボールをカットしてくるのだ。


 浦安西の、どうしようもない致命的な弱点。

 それは使えるピッチャーが一枚しかいないこと。

 三年のピッチャーは普通のチーム相手でも、全力で投げて失点する程度のものだ。

(二巡目の白富東を、どうやって抑える!?)


 それは思考の間隙。弱者が強者に挑む時には、絶対に犯してはいけないミス。

 安易にストライクを取りにいったストレートを、この回先頭の九番岩崎のバットがジャストミートした。

 打球は弧を描いて、レフトスタンドへ。


 これだ。これなのだ。

 佐藤直史にはなくて、岩崎秀臣にある長所。

 岩崎には一発があるのだ。

(しまった……)

 いくら鍛えた守備であっても、ホームランだけはどうしようもない。


 マウンドに行くか、と深津がタイムを取るか迷った時、顔を上げたコータローが叫ぶ。

「二巡目! 打たせていくからな!」

 折れていない。うちのエースは、まだ折れていない。

(まだ一点差だ)

 そして深津も思考を再開する。


×××


 ※西浦……「おおきく振りかぶって」の主人公チームである。念のため。


 本日2.5に群雄伝を投下しています。

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