第100話 敗北の糧

 打たれた瞬間を夢に見て淳は飛び起きる。

 日曜の朝、まだ雨は降っていて、本日は休養日となっている。

 湧き出てくるのは悔しさ。だが同時に、それが甘い疼きにもなる。

 とりあえず二度寝の気分にはならず、淳はベッドから離れた。まずはストレッチだ。


 居間に行くと、二人の兄が朝食を摂っていた。

 朝からしっかりと食べるのは、スポーツマンの義務である。

「サキ姉たちは?」

「朝早く出かけたらしい。迎えが来てたからイリヤ案件で東京かな?」

 返答をしながらも武史は、右手で食事を行いながら、左手でスマホを操作していた。


 直史は新聞を読んでいたが、だいたい新聞を読んでいる時の直史は機嫌が悪い。

 いや機嫌が悪いと言うよりは、怒りと諦念が交互にきているような感じだ。

「……検察庁を目指すしかないのか……」

 なんだかまた壮大な話になりそうで、とりあえず耳は塞いでおく。


 栄養を全て体内に取り込んだ武史は、スマホの画面を淳に見せてきた。

「散々な言われっぷりしてる」

 淳は昨日から、特にネットに接続などしていない。SNSなども特に使わない人間だ。

 匿名提示版にはまともな情報は落ちていないと思っているし、かといってマスコミ全般も信じていない。

 こういうところも、淳は頑固なのである。


 そんな淳も、昨日の試合の反応と言われては、やはり気にせざるをえない。


『白富東オワタw』

『白富東はオワコン』

『雑魚集団クソワロス』

『女子に負けた全国覇者w』

『女子相手に完封負けワロス』

『明日美ちゃん可愛い』

『明日美ちゃんのホームラン可愛い』

『撃沈されるピッチャー陣』

『三打席で二発本塁打。まるで女白石』

『つまり白石は可愛い?』

『白石が女装してた説』

『三年の抜けた白富東は雑魚』

『しょせん佐藤長男と白石だけのチーム』

『明日美ちゃんをプロの世界へ』

『明日美たんは日本の宝』

『ホームラン打たれて一回KOの外人w』

『佐藤兄妹は下に行けば行くほど弱い』

『雨天コールド? 七回までヒット二本ですが?』

『トルネード明日美ってプロレスラーみたいじゃないか?』


 甘んじて受けるべきなのだろう。これらの侮蔑的な声は。

 しかしどうしても許せないものはある。

「明日美ちゃんとか明日美たんとか、明日美さんに対して慣れ慣れしいだろ!」

 怒るポイントはそこなのか。




 週明けの月曜日。朝錬を終えた野球部への視線が多い。

 まあ、俺がホームラン打たれたわけじゃないしな、とヒットを打った武史は平静であるが、アレクを除く他の一二年は気合が違った。

 普段は温厚な人畜無害の倉田でさえ、殺気だったものがあった。

 一番ハッスルしていたのは淳だろう。あの告白が本気だったら、好きな女に負けてはいられない。男として。

 球速では既に負けているというのは除く。


 そんなに女に負けるのが悔しいのか。

 武史にはさっぱり分からないのは、昔から双子に負けっぱなしであるからだ。

 佐藤武史は、女に負けることに慣れている。威張れることではないが。


 朝錬も終わり、教室へ向かう途中も、視線が集まってくる。

「おっす。土曜負けたんだって?」

 そう気軽に武史の肩を叩いてくるのはオカリナであった。


 周囲にいた他の野球部員は、目をむいて怒るのと、顎を引いて落ち込むのが半々である。

「雨天コールドでも3-0の完封負けだからな。まあ言われても仕方ない」

「その割にはあんまり落ち込んでなくない?」

「俺はな。それと三年も出てなかったし。けど一二年は死にそうな顔で練習してたな」


 白富東は勝利至上主義ではないし、どうでもいい試合には負けても仕方ないという風潮はある。

 しかし女子との――正確には権藤明日美との試合は、どうでもいい試合とは思えなかったのだろう。

 甲子園でも21世紀枠に負けて、生き恥と言うような監督もあるのだからして。

「まあ一二年に火がついたのは確かだな」

「タケは違うの?」

「俺が投げたわけじゃないし、俺はヒット打ったしな」


 正直なところ、他のメンバーががむしゃらにやるのと、武史とアレクががむしゃらにやるのは、意味が違う。

 鬼塚も倉田も他の一年も、正直に言えば代えのない戦力ではない。

 武史とアレクが怪我をしては困るが、他の一二年は何人か怪我をしても、どうにかなるだけの層の厚さは出来ている。

 もちろん多数の怪我人が出ては困るが、そこはさすがに秦野やコーチ陣に加えジンも注意している。

 直史は「こんな時こそストレッチ」でマイペースを崩さない。


「そっか。じゃあ逆に良かったのかな?」

「うん、まさか負けるとは思ってなかったみたいだけど、キャプテンも一二年の意識改革には丁度良かったって思ってるし」

 白富東は常勝集団である。今の一年は公式戦の敗北を知らないし、二年でさえ去年の夏の甲子園の決勝で負けているだけである。

 白富東は合理的に力と技術を身につけていっているが、精神的な部分がどうだったのかは、土曜日の試合が教えてくれた。


 これまでずっと楽勝だったせいで、何が何でも勝つという意識に弱い。

 女子選手相手の敗北は、そんな王様感覚を完全に捨て去るには丁度良かった。

「今週末も練習試合が組んであるしな」

「ふ~ん、落ち込んでないんならいいや。じゃね」


 教室の中に入っても、いつもよりもこちらを見てくる視線が多かった。

 それは結局放課後まで続いたわけである。




「え~、つーわけで今週の土日の六試合で、大会前の練習試合は終わりになるわけだが」

 部室に揃ったベンチ組は、目の色が違う。

 何か言おうかと迷った秦野だが、今は何を言っても無駄かとも思う。

「怪我だけはするなよ?」

 はい! と気合の入った声が揃った。


 気負いすぎているかな、と思わないでもない秦野である。

 だがダッシュを繰り返す部員たちを見るに、少なくとも足りなかった何かは満たされた。

「大丈夫ですよ」

 背後から現れたジンは、まるで思考を洞察するかのように続ける。

「あいつらはアクセル、三年はブレーキ。それにタケとアレクはいつも通りですから」

「お前はほんとにエスパーじゃないよな?」

「俺たちも去年はあんな感じでした」

 ジンは思い出す。


 去年のセンバツ。大阪光陰に敗北した試合は、力を出し切れたものではなかった。

 しかしそれで発奮して、春の大会の優勝と、夏の大会の甲子園準決勝までは勝ち進めたのだと思う。

 決勝で樋口にサヨナラ負けをしたのは、自分のリードの執念が足りなかった。

 春日山は上杉勝也以来の無念を、ずっと引きずっていたから勝てたのだ。

 試合を決めたのは二年の樋口であったが、最終回にヒットを重ねたのは三年たちだった。


 白富東がこれから、たとえ夏の甲子園を制覇したとしても、あの試合の雪辱を果たしたことにはならない。

 屈辱と後悔は、ずっと残る。そういった負の意思も、勝つためには必要なものだ。

「監督はこの勢いはそのままに、無茶な練習をしないように監視すればいいかと」

「お前も悪よのう」

 ジンの考えていることは、指揮官目線からすると、士気の維持という点で正しい。


 ただ、心配もある。

「聖ミカエルとの再試合をしたら、あいつらの執念は消えないかな?」

「一度女に負けたっていう事実が消えるわけじゃないので、それは大丈夫だと思いますし、聖ミカエルもこの夏が終われば部員がまた九人以下になるんですよ」

「そういや珠美と田村を入れて11人だったか」

 そう、実はそうなのである。

 聖ミカエルの現在の部員は、試合が行える人数の丁度九人しかいない。そしてそのうちの一人は三年生で、夏が終われば引退する。

 また光と珠美が追加戦力で加わることは出来るが、完全な素人を含んだ上での戦いとなれば、そんなものはさすがに勝てて当たり前なのである。


 聖ミカエルは天候によって運もあって勝ったが、聖ミカエルに敗北したことは、間違いなく白富東にとっては良いことだった。

 勝った方も負けたほうもウィンウィンな試合など、そうそうあるものではない。




 そしてこの週末、東東京、埼玉、茨城、群馬から四校が集まり、白富東で八試合が行われた。

 そのうちの六試合を戦った白富東は全勝であった。


 甲子園の常連校、県内ベスト4以上の強豪校を招待した試合だったのだが、全てコールド並の点差をつけていった。

 だがもちろん変化もある。一巡目の打者での得点は、むしろ減ったのだ。

 アレクでさえも一打席目は、じっくりと見ることが多くなった。かといって消極的になったわけでもなく、二巡目からは打線が爆発する。

 事前から戦力差があると考えられていても、安易に打ちに行かず、じっくりと狙いを定めてからバットを振るうという、より隙のない攻撃に変化したのだ。


 もちろん相手の情報が充分であれば、初回から接触的にいって、あちらの奥の手までさらけ出させる。

 単純にじっくりと備えるのではなく、とにかく油断をしないようになった。

 どこに油断があるかは分からないので、秦野が指摘してくれることもある。


 白富東は強くなった。

 これ以上強くなる余地があるのかとさえ思われていたが、柔軟な選択肢を得たことで、さらに隙がなくなっている。

 あと顕著なのは、トニーのピッチングの良化だ。

 女子相手には外角オンリーのトニーであったが、女の子ならばともかく男なら当たっても大丈夫だろうと、開き直ったのだ。

 デッドボールを当ててしまったこともあったが、ごめんなさいをするだけである。。

 150km近い速球を内角と外角に投げ分けられ、カットとスライダーを使うならば、全国区のチーム相手でも充分に通用する。


 そして淳もまた、新たな力を手に入れた。

 明日美のぐちゃぐちゃなフォームがきっかけになったが、サイドスローとアンダースローを投げ分けて、ただでさえ打たれにくいピッチングだったのが、凡打量産マシーンへと進化した。

 もっとも下半身の強化はまだまだ必要で、九回を投げきるには早いカウントで打たせて凡退させ、球数を減らす工夫がいる。

 ひたすらの下半身の強化。

 そこから放たれるボールは、伸びがある。

 変化球もまだ未完成のものはあるが、さらにキレを増している。


(監督としてはそんな考えじゃいけないんだろうが……)

 秦野は緩みそうになる頬を必死で保つ。

(こいつらタッチの柏葉以上に足を引っ張っても、甲子園に行く未来しか見えないぞ)


 千葉県内には速球本格派の大原、軟投派の極みの星などがいる。

 継投という点では三里は侮れないし、トーチバなどはそこそこの投手を今年も揃えた。

 それでもこれで負けるとなれば、野球の神様に嫌われたからとしか言いようがない。




 圧勝の連続を見て、またネットの海の情勢が変わる。


『白富東強すぎワロスwww』

『手加減の仕方を忘れた王者w』

『三回まではおもてなし。そこからやっとガチ本気』

『白石の高校通算もう何本よ』

『ヒットを打つのと同じぐらい簡単にホームラン打ってるな』

『ついにスーパーサイヤ人に覚醒したか』

『非常識なチームがさらに非常識に』


 練習試合の結果以外にも、白富東の評価を変える要因はあった。

 西東京の情勢である。

 さすがに既に練習試合の予定をみっちり入れていた甲子園常連校は無理だったが、西東京でベスト8レベルの男子チームが、聖ミカエルと練習試合を組んだのだ。

 二試合で明日美は一失点。

 男子相手でもほぼ無双と言えよう。

 女子野球は間違いなく、権藤明日美を中心に回りだしている。


『明日美たんほんまスコ』

『マウンドの上のプリキュア』

『まあ身体能力はマジでプリキュア並かもな』

『プリティーウィッチー明日美』

『もうファンクラブあるんだな。ただし女子限定とかw』

『女でも惚れてまうやろ~。普通の男子選手よりかっこいいぞ』

『ワイは恵美理ちゃんの方が好き』

『みんな違ってみんないい』

『聖ミカエルはおそらく、入学基準に一定以上の容姿を条件にしている』

『ピッチングは上杉、バッティングは白石』

『もう「ASUMI!」で映画作るレベル』


 明日美のファンから聖ミカエル全体がアイドル化していると言っていいかもしれない。

 聖ミカエルは自前の野球用グラウンドがないため、外野の練習は球場のある公園などで行っており、ファンは普通に見に行ける。


 上杉勝也というカリスマの登場から、白富東の大躍進。

 復活し、さらに成長していっていた野球人気の、最後のパーツが彼女だったのかもしれない。

 いくら野球が人気と言っても、それまで野球に無関心だった層にまで広がるのは、確実に異常なのである。


 打ち寄せる波のように、騒がしい日々が過ぎていく。

 学校の教師陣や部長の高峰は、外からの対応に必死である。

 ブラバンは応援楽曲の演奏練習に熱が入り、応援団とチアが組織され、学校は寄付金でウホウホしながらもハラハラする。扱う金額が大きすぎる。

 秦野にも色々と便宜を諮ってくれればと声がかけられるが、そもそもこのチームを作ったのは自分ではない。学校ですらない。

 強いて言うなら、ジンとセイバーだ。

(神奈川時代はチームを強くするのに精一杯で、なんもいいことなんてなかったからなあ)

 選手たちが成長して巣立っていくのだけは、楽しみではあったが。


 秦野は己に、使命を課している。

 それは選手ファーストということだ。

 絶対に選手の将来を犠牲にしてまで、試合に勝つことは求めない。

 ただし全ての選手がずっと野球を続けていくわけではないので、中にはぶっ壊れてもいいから甲子園に行きたいという人間はいる。

 だが秦野はそれは許さない。

 選手個人の将来を考えてのことではなく、そんな一人だけに全ての責任を負わせることは出来ないということだ。


 一人が怪我をしたならば、他の全員でその分を埋める。

 それこそが秦野の選手ファーストだ。




 学校で主催された壮行会も終了した。

 なおその前に行われた期末テストで、大介は神経を削られた。


 夏の大会は日程上、千葉県の場合は準々決勝まで勝ち進まないと、平日に試合が行われる場合がある。

 公立校である白富東はそのあたりが厳しく、圧倒的な応援による後押しは、そこまでは使えない。

 もっとも組み合わせを見ても、そこまでは確実に勝てると思う。


 単純に自分たちの練習だけではなく、相手チームの分析も怠らない。

 当たりそうなチームには偵察が行っているし、テレビ録画の他に各球場にもスコアラーが向かう予定だ。

 なお白富東の試合は、勝ち進めば全てマリスタで行われる予定である。

 贔屓と言われるかもしれないが、そうでもしないとお客さんがあふれかえるのだ。

 マリスタは三万が入るが、他の球場は多くてもその半分程度なのである。


 梅雨が明けて、本当の夏が始まる。

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