第101話 盛夏
七月中旬、カラッカラの晴天なのに湿度の高いこの日、全国高等学校野球選手権大会千葉県大会の開会式が行われる。
プロ球団も使用するマリンズスタジアムは、170余りのチームが入場前に整列している。
前年優勝の白富東は、当然ながら一番前である。
一番太陽の下でに晒される時間が長いとも言える。
「トニーは暑さ大丈夫か?」
「水分補給してきました」
ジンの役目は選手の健康管理にまで及んでいる。
周囲からの視線が痛い。
昨今地味にお洒落なユニフォームも増えてきているが、白富東は古くからの白無地に黒文字。
有名デザイナーに注文する余裕も必要もない。
ユニフォームの価値は、勝てば自然と高まっていくものである。
マスコミの注目度も高い。
フルメンバーでなかったとはいえ、全国大会準優勝とは言え、女子のチームに負けた。
何があったのかと話題にはなったが、その後の強豪との練習試合では圧勝に次ぐ圧勝。
それも見る人間が見れば分かる、嫌らしい形での圧勝だ。
相手の力を全て引き出して、丁寧に叩き潰す。
格下相手には確かに行うべき課題であるが、それを県内ベスト4レベルのチームを相手に行っているのだ。
秋からセンバツ、そして春の大会も、全て勝ってきた。
だがその時点と比べても、チーム内に戦略が見て取れる。
考えてみればセンバツの優勝時は、ちゃんとした監督がいなかったのだ。
春季大会まではまだ影響力が発揮しきれず、そこから監督の能力が伝わったとする。
春の大会でもほぼほぼ全部楽勝の試合であったのに、そこからさらに戦力がアップしていたら――。
残酷な敗北を知る前に、惜しいところで負けておきたいとさえ思えるチームも、それなりに多いだろう。
本日は大会初日となり、開会式だけで予定が終わる。
シードの白富東は、大会四日目が初戦だ。
県内11箇所の球場に分かれて予選は行われていくわけだが、白富東はもう観客数の関係から、例外的に全てマリスタでの試合が行われることになっている。
これであっさり負けでもしたら笑えないのだが、高校野球は何があるか分からない。
開会式後にも普通に練習はあるが、ベンチメンバーは調整の期間に入る。
ここで秦野は、これまで白富東になかった制度を作った。
一軍二軍三軍のメンバー分けである。
字面だけでも反発が強そうな分類であるが、あえてここは押し通す。
一軍はベンチメンバーである。公式戦の大会が近付けば、全ての設備を優先的に使える。
二軍はベンチメンバーと入れ替わる可能性があるメンバーで、一軍の練習を優先はするものの、その補助をしたりとほぼ同じ練習が出来る。
そして三軍は基本的に、基礎体力と基礎技術の強化だ。
この区分けがほとんどの抵抗もなく受け入れられたのは、主に直史と淳の影響がある。
直史は三軍のメンバーに混じって、基礎練習をすることが多い。
身長の伸びも止まって、ウエイトなどで筋力を増すことも出来るのだが、それは今は必要ない。
球速は冬の間に手に入れたもので充分。
大会が近い今は、その精度を研ぎ澄ますのみ。
また淳は一年のベンチ入りメンバーの中では、自分が一番足腰の走り込みが必要だと思っている。
10~15mほどのダッシュを繰り返し、全身の柔軟性を保ったまま、伸びのあるストレートを身につけるのだ。
「そういや上杉さんは案外体が硬いって聞くけど」
淳がそう言えば、直史は淡々と返す。
「あの人は心臓とか筋肉とか、俺たちとは別の次元で勝負してるんだよ。それにあの人は甲子園の決勝で四回も投げて、結局一度も勝てなかったんだぞ」
事実である。それに対して直史は、決勝の最後のイニングだけを投げて、勝ち星がついた。
「別にだから俺が上というわけじゃないけど、人間には向き不向きがある」
こういった言葉を、入ってまだ三ヶ月の新入部員が耳にするわけである。
直史は150kmは投げられない。近年ますます著しい高校生の球速の上昇に比べると、同じ部内だけでも彼より上の球速の持ち主が三人もいる。大介を投手換算していいなら四人だ。
だが夏の甲子園でパーフェクトをした人間は、直史しかいない。
方向性は違うが天才であることは変わらないと思っていた一年生たちには、直史の練習量はとても天才の一言で済ませていいものだとは思えない。
全力ではないとは言うが、130kmは軽く出ているピッチングで、300球ほどはブルペンで投げる。
バッティングピッチャーとしてマウンドに立ち、100球以上は毎日投げる。
これで壊れないのかと心配になるぐらいだが、直史は壊れない。
「俺は壊れないけど、お前たちは真似するなよ」
誰も真似など出来ない。
また直史は、コーチとしての資質もあることが、段々と明らかになっていった。
図々しくも投球のアドバイスを求める一年などがいた場合、まずブルペンで30球ほどを投げさせてみる。
それから問うのが、どういったバッターを想定して、どういったピッチングでしとめたいかだ。
「つまり今お前は、30球ほど投げてみろと言われて、ストレートばかり30球投げただろ? 俺の言い方も足りなかったのかもしれないが、俺に見てほしかったのはそれなのか?」
こんな具合である。
直史が考えるに、天才というのは確かに存在するが、それよりは素質の違いによって、その素質をどう伸ばすかがポイントになる。
スピードが出せるのか、出せないのか。
出せないとしたらコントロールを磨くのか、変化球を磨くのか。
コントロールと緩急のバランス。あとは身につける変化球。
どうしようもなく球威が足りないなら、サイドスローなりアンダースローなりに転向する覚悟はあるのか。
直史は中学時代から、自分だけでもどうにか試合に勝てないかとずっと考えていた。
「今の一年はタカがキャッチャーでいてくれてるから分からないかもしれないけど、どんな球を身につけても使えるってのは贅沢なんだからな」
ピッチャーの投げたストライクゾーンの球をちゃんと捕ってくれる。これを満たさないキャッチャーはいらない。
リードがどうとか肩がどうとか、打撃での援護がどうとかのレベルではない。
白富東が本当に強いのは、ちゃんとピッチャーに合わせられるキャッチャーがいるからだ。
ジン、倉田、孝司の中では総合的に一番バランスがいいのは、おそらく孝司である。
だが直史が誰か一人を選ぶなら、絶対にジンを選ぶ。
一年の夏の、最後のパスボール。
あれからジンはものすごく練習をした。
雨の試合にワンバンの投球をしても、確実に捕ってくれる。
その信頼が、直史がジンを選ぶ理由だ。
また誰か命知らずの者が、大介を封じるにはどうすればいいかと訊いた。
「敬遠すればいいだろ」
一刀両断である。
野球はチームとチームの点の取り合いのゲームである。
ピッチャーとバッターの戦いに面白さを見出す観客もいるだろう。興行であるならば、試合の勝敗ではなく打者との勝負を優先しなければいけないこともある。
だがチームの勝利を至上のものとするなら、大介レベルの打者は敬遠して当然だ。
全打席敬遠しても、直史ならば耐えられる。
他の打者をパーフェクトに抑えてしまえばいい。
おそらくこの精神性が、直史の持つ才能である。
バッターを抑えてなんぼと考えるのが、おおよそのピッチャーである。クレバーぶった淳でさえ、その感覚は否定しない。
だが直史はチームの勝利至上主義であるし、バッターから逃げることに躊躇もない。
逃げ出すことで成長が阻害されるとか、そういうことは考えないのだ。
実際に紅白戦では勝っているので、実力的には勝てるという絶対的な自信がある。
直史は根本から、野球に対する意識が違う。
それを痛感させられる下級生たち。
この冷徹な合理こそが、直史を形作っている。
そんな直史であるが、大介を相手にバッティングピッチャーをするのは疲れる。
なにしろ難しい球を投げて、それを打つ練習をするのだが、大介にとって難しい球というのはほとんどない。
ナックルの打ち方だけはさすがにどうしようもないが、これはボールに故意に傷をつけるなどして、再現できることが分かった。
ただその一球だけを打ってヒットにするという面では、確かにナックルは一番厄介な変化球だろう。
大介の場合は他にも、ムービングファストボールの打撃のために、マシンを改造してもらったりもする。
あとはボールに切れ目などを入れておけば、自然と大きな変化をしたりもする。
マシンの単純なストレートであれば、160kmでも普通にホームランが打ってしまえる。
そんな中で考え出した練習法なのだが、これは当然ながら変化が決まっておらず、死球性のボールも投げ込んでくる。
自然とこの練習法は、大介以外には禁止となった。
勝手に練習の難易度を高め、これ以上はないだろうと思っていた上限を突破する才能。
それを別にしても今の白富東には、戦力が揃いすぎている。
いや、これは戦力とは言いにくい。
(勝手に天才とか怪物とかが揃ってるだけだからなあ。かなり微妙なバランスで成り立ってると思うが)
秦野としては、敗北を経験してなお、一二年は危なっかしすぎるように感じる。
それに、県大会だ。
甲子園に行くまでには、シードでも七回勝たなければいけないほど、千葉県はチーム数が多い。
だが今の白富東は県内に限って言えば、戦力として突出しすぎている。
県内の強豪と練習試合を組まなかったのは、こちらの手を晒したくなかったのではなく、あちらが致命的に自信喪失を恐れたからだ。そもそも強豪校同士で県内で戦うことは少ない。
東京、神奈川、埼玉のここ数年甲子園で勝ち残っているチームと練習試合を組んだら、普通にやれば簡単に勝ててしまう。
秦野の悩みは贅沢すぎる。
普通にやって簡単に勝てる相手と戦い、何を得るべきか。
(公式戦を練習に使うのは、いくらなんでも舐めすぎかもしれねんだけどな……)
三年生の最後の夏の執念に、足元を掬われるのだけは勘弁である。
開会式の翌日の一回戦で、白富東の初戦の相手は、予想通りに三井西となった。
偵察した練習や、一回戦の試合を見る限り、苦戦する要素はない。
(つっても折角の公式戦だ。相手だってうちとの試合は決まってたわけだから、覚悟はしてるはずだしな)
最初から勝敗を度外視し、ひたすらに向かってきたりするだろうか。
あるいはわずかな希望を胸に、ジャイアントキリングを狙ってくるだろうか。
どちらにしろ、ただ勝つという選択肢はない。
「失礼します」
練習から抜けて直史がやってきた。
「おう、来い来い」
遠慮してもらっても困るのだが、遠慮なく直史は秦野の隣に座って向き合う。
「明日の二回戦、お前先発な」
ある程度予想通りの話ではあった。
夏の大会は完全なトーナメント。
どれだけ強いチームでも、負けた時点で終わりである。
ならば初戦は万全を期し、一番確実性の高いピッチャーで行くのは当然である。
「それでまあ、お前にだけこっそりと指示しておくんだが……」
秦野の内緒話は正直に言えば、対戦相手を限りなく馬鹿にしたものであった。
初戦の二回戦が土曜日に当たったため、白富東はほぼ全校生徒が球場に応援入りである。
東大目指して勉強にばっちりの人間や、肌を焼きたくない少女たちが、同調圧力に屈しないところがまことにこの学校らしい。
だが結局は、勝ち進んでいくごとに巻き込まれて、球場で声を嗄らすようになるだろう。
高校野球の夏というのはそういうものだ。
一方、対戦相手の三井西は、お通夜状態は既に通り過ぎ、今はもう開き直っていた。
どうせ負けるなら、強いチームに負けたほうが納得がいく。
だがしかし、それでもこのオーダーは絶望以外の何者でもない。
「佐藤長男先発かよ……」
「せめて初戦ぐらい、他のピッチャー使えよ……」
「まあ岩崎が来ても佐藤次男が来ても、あんまり変わらないけどな!」
そしてここでも開き直る。
「お前ら、全国制覇するようなチームのエースと戦える機会なんて、今後あると思うか? しかも公式戦だぞ?」
キャプテンの言葉に、顔を上げる選手たち。
「ぶっちゃけ球に掠っただけで、一生の思い出になってもおかしくない」
「そりゃそうだ」
「負けて当然なわけだしな」
ノーヒットどころかパーフェクトの五回コールドで負けても、全く恥ではない。
応援はけっこう来ているが、チームの応援と言うよりは、対戦相手の白富東を見にきているようなものだ。
率直に言って最後の夏の三年生も、全く勝てると思っていないだけに、プレッシャーは全くない。
自分たちのプレイが三万の大観衆に見られ、テレビでも流されるのだ。
ただ五回コールドはともかく、20点とか取られるのだけは避けたい。
「中村も白石もいるからなあ」
「キャッチャーが赤尾って……リードはともかく、打力がエグすぎる」
「でもセカンドが美雪ちゃんだぞ」
「どちらかと言うと守備よりのスタメンか」
五回コールドは避けたい。
後ろ向きではあるが、明確な目標は出来た。
おかしい、と孝司は感じる。
普段から直史の投球練習は、それほど球威を感じさせるものではない。
だが今日はそれに加えて、制球も微妙な気がする。
「ナオ先輩、調子悪いんですか?」
一回の表、相手の攻撃を前に、孝司はマウンドに歩み寄った。
「いつもと同じだが?」
少なくとも本人にはその自覚はないようだ。
直史は調子が悪いという日でも、平気で完封ぐらいはしてのけるピッチャーだ。
ストレートが走ってなくても、変化球のコンビネーションでストライクが取れる。
そしていざとなればスルーがある。あれは打てない。
ジンと倉田がベンチスタートということで、得点力は落ちている。
だがそれでも冷静に試合を運べば、五回コールドで勝てるであろう相手だ。
(まずは先頭打者だけど、打たれにくいカーブから)
頷いた直史が投げた初球は、真ん中に入ってくるカーブ。
これをスイングし、打球は綺麗にセンター前に運ばれた。
ありえない。
(まさかどこか故障? いやナオ先輩なら、それならそれでちゃんと言うはずだし)
単に調子が悪い日なのか?
それならそれで、やはり直史は口にする。
(幸いと言っていいかはともかく、今日はどちらかというと守備重視のオーダー)
シニア時代のピッチャーと比べれば、それでもはるかに能力の高いピッチャーなのだ。
(どうせ二番は送りバントだろうし、変化球の調子を見ていくか)
だが二番打者は、初球からスプリットを振ってきた。
セカンドへのボテボテのゴロではあるが、進塁打にはなった。
(なんだ? あっちも何を考えてる?)
下手をすれば今ので、併殺である。
直史からまともに打って点が取れるとでも思っているのか?
スピードだけでなく、コントロールも甘い。変化球もいまいちキレない。
苦労するかと思いながら、孝司は守備へと指示を出すのであった。
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