第98話 雨、降り出した後

「しょっぱい……」

「しょっぱいけど、これで今日初めてのサードランナーだぞ」

「ますますしょっぱい……」

 アレクの走塁の上手さは素晴らしいが、ここまでしなければいけない試合展開が情けない。


 初めてのサードランナー。そして打者は哲平。

 転がして内野安打でも、その間にアレクなら問題なく帰ってこれる。

 だからあとは、哲平がちゃんと打てるかが問題である。

 哲平の足ならセーフティもありなのだが。


 タイムを取って、マウンドに集まる聖ミカエルの内野陣。

「ごめんなさい。私の油断で」

「大丈夫。あたしも全然考えてなかったから」

 明日美は味方を責めない。

 エラーでランナーが出ても、大丈夫と言って笑顔を見せて、そこから三振で相手を封じるのだ。


 ベンチからも伝令が出てきた。

「ツーアウトだから気にせずバッター集中だって。あと内野は前進守備で」

 ありきたりのことであるが、とにかく落ち着けということだろう。

「明日美さん、あのサイン出してもいいかしら?」

 恵美理の言葉に目を瞠る明日美であるが、すぐに笑顔で応えてくれる。

「うん!」




 カウントワンストライクである。

(とりあえず俺が生きれば確実に一点は入る場面だけど……)

 セーフティバントも考えたが、珠美と光がかなり前進してきている。

(そんでショートが深め、と。なんとか転がすべきなんだろうけど)

 ランナーが三塁ということで、堂々と明日美は振りかぶる。

 いくらアレクでも、ホームスチールは難しいだろう。

 振りかぶった姿勢から、ぐっと体をひねる

(おいそれ――)

 トルネード投法から投じられたストレートは、哲平のスイングの上を通過した。


 ツーストライク。

 おそらく今のは、今日の最速の更新だ。

(トルネードまでって、どういう――)

 三球目。おそらく遊び球はない。


 最後の一球。

(スプリット!)

 この高さからならストライクゾーンを通過する。

 そう思ってスイングを始動するが、今までのスプリットよりも、ずっと大きく落ちる。

 スピードがストレートよりもだいぶ遅いのだから、日本流ならフォークと言った方がいいのかもしれない

 ワンバンの球を恵美理が捕球して、ストライクスリー。

 本日全くいいところのない哲平は、三打席連続三球三振であった。




 六回の表までが終わって、2-0とスコアは変わらず。

「くそっ!」

 ベンチの奥で壁を叩く哲平。

 クールなように見せて実は激しい孝司と違い、哲平がこんな姿を見せるのは本当に珍しい。

「まだ三回ある。あんな落差のボール、今まで使ってなかったってことは、とっておきか未完成かのどちらかだろ」

 瞳に激情を宿しながらも、鬼塚は冷静に分析する。

「それにあの子、肩で息をし始めてた」

 倉田もまた、しっかりと観察していた。


 単純に悔しがり、敵愾心を燃やす一年と違って、二人はまだ冷静だ。

「ナオ先輩がトルネード投法使えるのに普段は使わないのは、コントロールが難しいのもだけど、それ以上に消耗が激しいからだって言ってた」

 倉田の言葉は確かにその通りなのだが、それは直史が15回を投げとおすことを前提にした話である。

「あ、そうだ。確か女子野球って七回までが標準じゃなかったか?」

 シニアも七回までだった佐伯が思い至る。


 今日の試合は男子に合わせた九回までを行うと話していた。

 ふ~ん、そうかと流していたが、よく考えればちゃんと意味がある。

 普段は七回までのピッチングに合わせて投げているとすれば、九回までは体力がもたないかもしれない。

 ここまでボール球をほとんど投げず、追い込んだらすぐに勝負というのも、体力の温存と考えれば分かりやすい。


 白富東の攻撃は、残り三イニング。

 やたらと伸びのあるストレートが棒球になれば、タイミングがどれだけおかしくても、スプリットとのコンビネーションだけなら攻略出来る。

「淳、スタミナの方はどうだ?」

 こちらもスタミナという点では心配な淳に、武史が声をかける。

「変化球でくるくる回るバッターだけで球数も少ないから、そっちは大丈夫。ただ雨が降ってきたから、失投には気をつけるけど」

 確かに少し雨が強くなってきたか。


 淳は基本的には、打たせて取るタイプのピッチャーだ。

 グラウンドの条件が悪くなって、守備にエラーが出やすい状況は、あまり好ましくない。

「まああの程度の打力なら、気を付けていけば大丈夫かな」

「またそんなフラグっぽいことを」




 この期に及んでもまだ余裕がある白富東に対して、聖ミカエルの方は確かに切迫している。

 氷嚢を額に当てた明日美が、でろ~んとベンチに座り込む。

「気持ちい~」

 やはりここまで男子相手に、力のあるストレートを使い続けてきたのが大きい。

 それにスプリットもだ。あれはしっかりとボールを握って、最後にスパッと抜かないと落ちない。

 団扇で扇いでもらったり、水分と糖分を補充したりはしているが、明日美の体でこれだけのピッチングをするのは、やはり無理があるのだ。


 責任回数は七回まで。そこでスタミナが切れていたら光と交代だ。

(明日美さんを休ませてあげないと)

 思えばここまでずっと、三者凡退続きで明日美にはほとんど休憩がない。

 相手のピッチャーがストライク先行で投げてくるというのもあるが、それでも攻撃の時間が短すぎる。


 先頭打者の恵美理はことさら素振りを数回ゆっくりとして、ゆっくりとバッターボックスに入る。

 ツーストライクまでは絶対に振らない。その気迫を前面に出す。


 恵美理は前打席ストレートを打った。

 守備の正面の打球だったが、それなりにミートは出来ていたと思う。

(つーことで変化球)

(了解)

 初球はスライダーがわずかに低めでボール。

(ストレートを外して振らせてみようか)

(打たせて取るわけね)

 アウトローの際どいところのストレートにも、打ち気は感じさせるが反応はしない。

 ツーボールになってしまったのでインハイにスライダーを投げた。これはストライクだがやはり振らない。


 待球策にしても、淳は今日の試合はそれほど疲れていない。

 それに最悪、アレクや哲平といった交代要員はいるのだ。


 四球目はアウトローにぴしっと決まるシンカーで、これも目で追いはしたが振ってこない。

(構えも小さいし、ミートに徹してるんだろうけど)

 そう思ったら一度バッターボックスを外して、軽く素振りをする。

 やはりミートを意識しているらしいが、そんなスイングでは内野の頭を越えないだろうに。

「内野! 足元注意な!」

 雨が降っているが、まだ足を取られるほどではないだろう。

 それでも内野陣は自分の周囲に、スパイク跡などがないか確認する。


 たっぷりと間を取った恵美理は、二球変化球をファールにしたが、最後はスライダーで三振した。

 次打者の水沢にも、ネクストバッターサークルに入る珠美にも、明日美を休ませるために粘るように伝達する。


 水沢はツーストライクから一球粘り、珠美は足元を固めたり素振りをしなおしたりと、そういった時間をかける。

 そもそもここまでの試合展開が早かったこともあるし、父が審判をしているということもあり、それほどの問題にはならないだろう。


 恵美理がベンチに戻ってきた時、明日美は眠っていた。

 疲れてしまうとぐっすりと眠ってしまう子ではあったが、まさか試合中に眠るとは。

 その眠りを覚まさないように、恵美理も小さな声で応援する。

「珠美さ~ん、粘って~」

 珠美は八球粘って、三人分ほどの時間を稼いだ。




 雨が強くなってきた。

 まだプレイに支障をきたすほどではないが、これ以上雨脚が強くなると、雨天コールド扱いにもなりえる。

 当然ながらその場合、リードしている聖ミカエルの勝利である。

(なんだけどあいつら、ちゃんと考えてるのかね)

 秦野が見る白富東側ベンチから出てきたのは、この試合では白富東側で一番いい当たりをしている武史だ。


 マウンドの明日美は口を開いて、雨を飲み込んでいく。

 ばっちいからやめなさいと言っても無駄だ。彼女は子供の頃から、西東京の田舎の自然で、川の水を普通に飲んで遊んできた。

(冷たくて気持ちいい)

 少し眠ってわずかに体力は回復した気がしたが、相手は恵美理が一番注意しているバッターである。


 恵美理はバッターボックスに入った武史の、気配とでもいうものを探る。

(やっぱり読めない人だわ)

 神崎恵美理の、特殊な能力。

 それは幼い頃から音楽によって培われた、ある種の感応力。

 テレパシーというほどの大袈裟なものではない、他人の感情の表層を読むものだ。


 だから、打つ気がなくて見てくる人間には甘いストレートを。

 打ち気満々の人には、ボール球や沈む球を。

 これはあの怪物扱いされるツインズにさえ有効であった。

 もっとも彼女たちはバッターボックスに入ったとき、常にホームランを狙っているだけであったが。

 別にこれは経験を積んだキャッチャーやピッチャーにも備わっているもので、恵美理だけに固有のものというわけではない。

 だがあまり野球経験のない人間が、この感覚を持っていることは、普通はない。


 この特異体質のせいで、恵美理は色々と嫌な思いをしてきたものだ。

 明日美のように全く人に悪意を抱かない人間というのは、そうそういないのだ。

 だが佐藤武史は、全く分からない。

 時々いるのだ、こういう人間も。

 だから全てを狙われていると仮定して、全力投球をしてもらうしかない。




 明日美のポニーテールがくるんと回る。

 インハイのストレートを、武史は振った。

 金属音と共に、打球はライトへ。

 ファールではあるが、あと少し左であればホームランになっていた。


 一塁まで走っていた武史が、軽い足取りで戻ってくる。

「どうぞ」

「ありがとう」

 恵美理に渡されたバットを握って、軽く素振りをする。微調整だ。

 次も同じ考えでいったら、おそらくは打たれる。


(だったらこの人にはまだ見せてない球)

 フォーク。落差の多い方をフォーク、少ないほうをスプリットと、バッテリーでは呼び分けている。

 変化量の大きいこの球を、武史は見送った。そしてコールはストライク。

(やった。追い込めた)

 恵美理は必死でおぼえた教科書から、リードのパターンを考える。

(ここでボール球を――)

 サインに頷いて明日美は投げたが、ベースのかなり手前でバウンドするスプリットになってしまった。

 武史は大介ではないので、この球をホームランにするような非常識なことはしない。


 沈む球を二球連続で見せた。

 あとは明日美の力を信じるのみ。


 大きく振りかぶった明日美のフォーム。

 このフォームの迫力からは、おそらくストレートを投げてくる。

 いや、球速のあるスプリットか?

 違う。落ちる球を見せたのだから、ストレートの布石だ。


 投じられたのはストレート。

 武史はバットを振り切る。高く澄んだ金属音。

 ボールはセンターの方向へ大きなフライとなり――。

 そしてフェンスのわずか手前で、センターにキャッチされた。


 ほう、と息を吐き、安心する恵美理。

 だがこの一番の危険人物は、一人でもランナーが出たら、九回にまた勝負しないといけない。


 続く鬼塚と倉田も、かなりフェンスに近いところまで運ばれた。

 明らかに明日美の球威が落ちている。

 それでもフライでアウトに出来たのは、さすが明日美と恵美理は言いたい。

「恵美理ちゃん、ナイスリード!」

 満面の笑顔の明日美であるが、それは違うだろう。

「明日美さんがナイスピッチなのよ」

「そうかな」

 えへへ、と邪気なく笑う明日美であるが、体力の限界は近い。


 どっかりとベンチに座った明日美は、大きく息をつく。

「明日美ちゃん、ネクストだよ」

「あ、そっか」

 ヘルメットとバットを持ってベンチを出ようとする明日美に、恵美理はスポーツドリンクを向ける。

 水分と塩分と糖分を補った明日美だが、足元が少しよろついた。


 明日美は限界だ。

 そもそも超高校級の打者こそ抜いてあるとは言え、全国制覇を果たす男子のチームに、ここまでヒットを二本打たれただけというのが出来過ぎなのだ。

「次からは光さんが投げるしかないね」

「そうね」

 珠美と並んで、恵美理は明日美の打席を見守る。




 すごい選手もいたもんだ、と淳は感心せざるをえない。

 大介こそ抜いてあるものの、それ以外はほぼスタメンの打線を、七回でわずか二安打。

 フォアボールを一人も出さずに、この投球内容なのである。

(でも打者として見るなら、俺にとってはこっちの方が厄介なんだよな)

 三番打者の光は、聖ミカエルの打線の中では、珠美と並んで例外的に、変化球に対応出来るバッターである。

 なのでそこそこ球数を使って、コンビネーションでしとめないといけない。


 最終的にはセカンドゴロに打ちとって、さて四番である。

 初回には先制のツーランを打ち、投げてはここまで白富東を二安打に抑えてきた、二年生のキャプテン。

 権藤明日美。確かにこの名前は記憶した。


 ただもう素振りを見ても分かるようにへろへろであるし、こちらの打撃も大きなフライを打つところまでは適応している。

 ひょっとしたら打ち損じて残りの二イニングで追いつけないこともあるかもしれないが、それで悔しい思いをするのはトニーに任せておこう。

 もちろんバッターとして打席に立った自分も、ヒットを打てなかったという点では反省するべきだが。

(それでも油断はするなよ)

(分かってる。変化球だろ)

 雨が強くなってきているので、ロージンを使って滑らないようには気をつける。


 まず内角へのスライダー。反応なく、インローに決まってストライク。

 次にアウトローへはシンカー。左のアンダースローが投げる右打者へのシンカーは、まさに魔球。

 ツーストライクとなったが、反応はない。

(さすがにもうピッチング専念か)

 それでも侮ることはなく、初球と同じ際どいところに、同じくスライダー。


 一瞬だった。

 縮めたバネが弾けるような、明日美のアッパースイング。

 厳しいところのスライダーは、金属バットの反発係数を使って、レフトへ。

 フェンスを越えて、ネットにまで運ばれた。

 間違いようのない、本日二本目のホームラン。

「………………なんで?」

 呆然と呟く淳であった。




 きゃほきゃほと軽い足取りが戻った明日美がホームに帰ったところで、雨が激しくなってきた。

 両陣営がベンチに戻り、観客となっていた三年生も、ブルペンの屋根の下に集まる。

「あれ、なんで打たれたんだ?」

 淳のスライダー。今まで変化球を打てなかった明日美が、どうしてあれを打てたのか。

 直史の疑問に答えたのは大介である。

「一球目と同じだったから、慣れたんじゃね?」

「一球で次が打てるのか?」

「球種によるけど、同じ打席に同じところに投げたらなあ」

 普通はそうは打てない。

 ただ大介だって一年の時、一球だけ見た吉村のスプリットを、次はホームランにしているのだ。


 それと同列に語っていいのだろうか。

 疑問は残るが、大介がそう言うのなら、そういう打ち方を出来る人間はいるのだろう。

 変化球への対応力の低い、女版大介といったところか。

「まあ、ゲームも終わりだな」

 落ち着いてはいるが、どこか元気のない声でジンが呟く。


 主審の秦野が塁審などをしていたコーチと話し合い、聖ミカエル側のベンチへと走っていく。

「雨天コールドだろ」

 雨雲は空の果てまで同じ色で、止む様子はない。

 少し雨脚が弱くなっても、グラウンドの砂は水に浮いている。

「コールドって、天候の場合は七回終了時点じゃなかったっけ?」

「これが七回の表の途中だったら、コールド不成立だな。でも勝ってる方が七回裏で攻撃中だから、今の一点も入ったところで3-0で終わりだよ」


 コールドか。

 三点差は確かに、まだ追いつけるかもしれない点差である。

 相手のピッチャーも外野の深いところまで飛ばされるようになってきたし、あと一回の攻撃でも、同点なり逆転の可能性はあっただろう。

 だが現実的にグラウンドコンディションは悪く、規定を適用すればコールドだ。

 どのみちここまで二安打に抑えられえ、二本もホームランを打たれたのだ。

 三年生がいなかったとは言え、白富東の完全な敗北と言ってもいいだろう。

 もし女子ルールで七回終了だったら、これも七回の裏の攻撃を待たずに試合終了である。

 白富東は、負けたのだ。


×××


 土曜日はおそらく朝と夕方の二度投下

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