第92話 記録し、記憶する二人
今回の話は外伝に入れるべきだったような気がする。
×××
この平穏な、そして祭りの前の日々を、多くの野球部員たちは、当事者であるがゆえに認識していない。
高校球児たちにとって最も大切な季節。
夏がどんどんと迫ってきている。
「あづい~」
それはそれとして、今年も既に気温は夏に近付きつつある。
現在の日本において、最高気温が35℃を超えれば猛暑日であるが、半世紀前にはこのような言葉はなかった。
30℃以上の真夏日が酷暑であり、35℃以上は単に異常気象であった。
そんな気温の中で、今年もイリヤは溶けている。
白富東は教室に冷房は付いているのだが、それでもイリヤ基準では暑いのだ。
そのクソ暑い中、イリヤは弱冷房の野球部部室で、新曲の手直しをしていた。
一度は完成していたのだが、実際に球場でこれをやるとなると、純粋に演奏者の体力がもたない。
ブラバンは文化系の部活の中では割りと体を鍛える方ではあるが、炎天下での演奏とは全く勝手が違う。
普通の演奏者が弾けない曲を作るのでは、単なる芸術家である。
イリヤはエンターテイナーである。もちろん同時に芸術性を兼ね備える場合もあるが。
(難しい方はどっかに使いまわそう)
この程度のことは考えている。
ちなみにイリヤの曲はJASRACに著作権管理を信託していない。
そもそも活動基盤がアメリカにあるために、あちらには登録してある。
彼女の場合はクラシックからメロディーラインをパクってくる楽曲があったりするので、それらは無料解放してたりもする。
だがしていないのもあるので、結局は確認の手間はかかるわけである。
イリヤが色々と頭の中で考えていると、ドアを開けて入ってくる少女がいる。
「うわ、涼しい」
ノート数冊と筆箱を手にした瑞希は、うっすらと汗をかいていた。
この人もキレイだな、とイリヤは時々思う。
イリヤは美しいものが好きだ。
もっとも彼女の場合は、一般的には極端に醜いものを逆に美しいと感じてしまう、歪な感性もある。
そんな彼女からして、瑞希は純粋に美しいと感じる人間である。
特にそう感じるのは、直史と一緒にいる時だ。
(見た目は清純な感じだけど、たぶんセックスは大胆)
そんな妄想をしながらも、イリヤはまた新たな曲の着想を得たりする。性欲の解放とセックスアピールはミュージシャンにとって大切なことである。(ド偏見
「ねえイリヤ」
そんな集中力の拡散を見て取ったのか、瑞希が話しかけてくる。
「今度はどんな曲になるの?」
「聞いてみる?」
五線譜を愛用するアナログなイリヤではあるが、パソコンも併用している。ヘッドホンを渡された瑞希は特に躊躇もなくそれをかける。
流された音楽は、リズムはオーソドックスなものだ。
「行進曲っぽい?」
「それを意識してるわね」
イリヤの素養はクラシックが基本にあり、そこからジャズが他の全てへの道へと導いた。
クラシックはあらゆる音楽の中で、一番長く愛されてきたものであるだけに、そこからイメージを広げるのもおかしくはない。
本人としては面白ければそれでいい、というのが正直なところだ。
クイーンだってボヘミアン・ラプソティではオペラ的な要素を取り入れてるし、音楽をカテゴリーで分けるのは彼女によって無意味なことである。
「これ、演奏難しくない?」
「だから編曲中」
イリヤは誰にでも弾ける音楽と、極めた者しか弾けない楽曲の、両方を大切にしている。
こういった応援曲は、誰にだって練習したら弾けるものでなければいけない。
ヘッドホンをイリヤに返した瑞希は、自分の作業をすることにした。
関東大会は観戦出来なかったので、スコアを見てそれぞれの選手から聞き取りを行った。
白富東は圧勝したが、誰も気を抜いていない。
関東大会はおそらく、どのチームも試行錯誤をしている。
県大会や都大会で優勝した時点で、夏のシードは取れているのだ。関東大会の勝敗は夏の出場とは全く関連しない。
だから県代表レベルとの公式戦は、切り札や隠し球は使ってないはずだ。
もっとも白富東も、完全に勝利だけを目指したわけではない。一年や公式戦経験の少ない二年を使って、経験を積ませている。
関東大会で優勝したからといって、全国制覇が保証されているわけではない。
去年だって関東大会は優勝し、大阪光陰にも勝ったものの、決勝では逆転負けを食らった。
高校野球は甘くはないのだ。
スコアのコピーと、伝聞の記録から、事実と主観を抜き出していく。
瑞希は弁護士を目指しているのだが、こういった作業を得意とするあたりは、記者などの仕事も向いているのかもしれない。
そんな瑞希に、今度はイリヤが逆に質問する。
「ねえ瑞希、私も質問していい?」
「いいけれど?」
ちゃんとイリヤに向き直る瑞希はやはり、お行儀がいい。
「男性とのセックスって、どういう感じ?」
「……前も似たようなことを聞かれた気がする……」
溜め息をつく瑞希である。
「そういうことはあまり他人に広言するものじゃないと思う」
イリヤは基本的にはバイセクシャルだ。
だがどちらかというと女性との接触の方が、気が楽であるらしい。
恋愛対象には男性もなるのだが、性欲の解消は女相手の方がいいという、困った性癖を持っている。
「私も一度ぐらい、男性と寝てみたいと思うんだけど、どう相手を選んでいいのか分からないのよね」
「……試してみる程度なら、芸能界にいくらでも相手がいるんじゃない?」
そう言ってみた瑞希であるが、こんな言い方は自分でも好きではない。
気をつけていないとイリヤに対しては、気遣いのない言葉を吐いてしまう。
別に芸能界に偏見があるわけでもないのに。
イリヤとしても瑞希を怒らせるのは本意ではない。
彼女はイリヤが今一番興味を抱いている人物の恋人であり、彼に対する影響力は大きい。
もちろん、そうそう他人のことを悪く言わない性格であるのも承知の上だが、だからと言ってなんでも許容するわけではない。
「変な話になっちゃったわね。野球部は今年は優勝出来そうなの?」
露骨に話題を変えたが、瑞希としてもそう言った話題なら普通に話せる。
「調べれば調べるほど、不確定要素が多すぎる……」
瑞希は野球部の、正確には直史のことを知ろうとして、記録を取り始めた。
そしてそれは、もうすぐ終わる。
あと二ヶ月と少しで、直史の高校野球が終わる。
正確には甲子園でベスト8以上になれば、国体にまで三年生は参加出来るのだが、直史はもう完全に大学受験とその先を見つめている。
(やだな……)
もっと直史を見ていたかった。
もちろん大学に入ってからも野球はやるつもりであるし、仕事が落ち着いても草野球ぐらいはするだろう。
しかし瑞希も実感する。
高校野球は特別だ。調べれば調べるほど、学べば学ぶほど、そう感じる。
こんな特別な舞台は、他のどの高校生にも存在しないだろう。
そんな瑞希の心の揺れを、イリヤはなんとなく感じる。
本来彼女の感受性は豊かだし、他人の心の機微にも通じている方なのだ。
「瑞希は他に、何か書かないの?」
「他に?」
「野球部の記録の他に」
瑞希の書いている内容を、関係者であるイリヤは知っている。
自分の言葉がちゃんと正しい意味で表現されているか、瑞希自らが見せに来るからだ。
「他には……将来は、書くかもしれない」
瑞希は読書が好きだ。読むジャンルはそれなりに広いが、ノンフィクション形式の物や、実在の話を元にした小説などを好む。
その取材がきちんと行われているので、イリヤは瑞希のことが好きなのだ。
「私を書いてみない?」
だからそんなことを言った。
「……イリヤを?」
瑞希にとっては晴天の霹靂であるが、イリヤという素材は、瑞希にとっても不思議な存在だ。
彼女はこの世界にいる多くの人々の中で、間違いなく主人公と言われるタイプの人間だ。
彼女を中心に世界が動くし、彼女は世界を動かしてしまえる。
生い立ちから行いまで、その内面を知りたいとは思わないではない。
彼女はスターだ。
直史と同じように。
「……書いてみたいと、思うことは思う」
正直に言えばそうなる。
「でも今は無理」
「今すぐなんて言わないけど」
机にほっぺたをつけて、下からイリヤは瑞希を見つめる。
「どうせ好き放題書かれるんだから、私は瑞希がいいな」
そこまで言われて、瑞希は悪い気はしない。
だが自分はこれまで、割とイリヤに対しては事務的な、あるいは機械的な対応をしてきた。
こういう、おそらくは好意からの提案をされるのは、不思議ではある。
「私でいいの?」
「瑞希がいいの」
不思議そうな顔の瑞希を見て、イリヤは面白そうに笑う。
「そんなに難しいことじゃないと思うし」
「けれどずっと先でしょ?」
「そうかな? 私は早死にするタイプだと思うんだけど」
そしてまた笑うイリヤの表情に浮かぶ、何か不吉な気配。
瑞希はこれまで、あまりそれに触れたことがない。
一人っ子で両親の祖父母も健在で、あまりそれに触れたことがない。
死の気配に。
「27クラブって知ってる?」
「……いいえ」
「ミュージシャンの中でも後世に強い影響を残した人たちがいるんだけど、その中でも特に27歳で死んだ人たちのこと」
「すごく早くない?」
「ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリスンあたりが1970年前後に死亡してるし、ずっと後に自殺した人だとカート・コバーンとか」
「ごめんなさい、洋楽はちょっと。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンは名前は知ってるけど」
瑞希の素養に洋楽はあまりないのだ。
「だから私は27歳までは絶対に死なないと思うし、逆に27歳までに何かを残さないといけないと思ってる」
それは、思い込み。いや、気負いというものではないだろうか。
27歳と言うなら、もうあと10年。
まだ10年と思うか、それともたったの10年と思うか。
瑞希の知る限りのイリヤの経歴からすると、あと10年でも多くのことを成し遂げそうではある。
あと10年しかないと思うのであれば、イリヤの生き急ぐような、様々な物から何かを生み出そうとする姿にも納得する。
「私が28歳になったら、一度伝記を書いてみて」
「28歳かあ……」
瑞希は、そのタイミングに思わず唸らされる。
イリヤが28歳なら、瑞希は29歳。
大学に行って法科大学院から司法試験を受け合格し、司法修習を終了し、二回試験も合格する。
実際にスムーズに弁護士になれたとして、ようやく少しは働けるようになる頃だろうか。
直史はもっと早いコースを想定しているが、瑞希としてはそれぐらいが現実的ではないかとも思う。
「あなたのことを調べるために、アメリカにも行くの?」
「ノンフィクションを書くなら必要でしょうね」
瑞希がノンフィクションで野球部のことを書こうと思ったのは、自分の取材能力や文章力を考えてのことではない。
それら以上に重要と思われる、同時代性を既に備えていたからだ。
「28歳になってから自分で書いた方がいいと思うけど」
「歌詞以外の文章を書くのは苦手なのよ」
そう言うイリヤであるが、日本語に限って言えば、作詞能力も微妙である。
瑞希はイリヤのことを、特別な人間だと思っている。
たとえば大介やセイバーのような、圧倒的な影響力を持つ人間だ。
同じように感じる直史が、瑞希と同じ道を進もうと考えているのは、少し不思議な感じもする。
「イリヤは卒業したらアメリカに戻るの?」
「私はそうしたいけど……二人はそうじゃないでしょうから」
二人。佐藤家の双子のことだろうか。
「まあ、あっちとこっちを行ったり来たり?」
まるでスターのような生活とも思えるが、既にイリヤは実績を残したスターなのだ。
本当なら日本の地方都市にいるような人物ではない。……補習でえぐえぐと泣いている姿を見ると、とてもそうは思えないのだが。
それからしばらく、二人はお互いの仕事をした。
芸術的なことと、散文的なこと。方向性は全く違うが、共に創造性には富んでいたこと。
メンタリティの全く違う二人が、同じ部屋で同じことのために、違うことをしているのは不思議である。
なおこの日のことをイリヤは思い出し「ロッカールーム」というタイトルの楽曲を生み出す。
夏の直前の、二人の少女の出来事であった。
×××
本日3.01が投下されています。
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