第87話 主観と客観

 早稲谷大学付属高校、通称早大付属は、西東京の伝統ある強豪校である。

 大学の付属であり、その上には東京六大学リーグに属する早稲谷大学が存在する。

 実は付属の高校は他にも幾つかあるのだが、一番古く一般に早大付属と言うなら、この学校を指す。

 過去にはプロを輩出したことも何度もあり、大学を経てプロに至ったものもやはり多い。

 ただこのチームには、問題も多かった。

 伝統という名の理不尽である。


 野球というスポーツで特に目立つのは、上下関係の理不尽な厳格さである。

 スポーツにはおおよそそういうものがあるが、伝統を持つものほど、そういった価値観がまかり通っていることが多い。

 なお大阪光陰のような、人数を絞ってチームを作っている学校は、この傾向が弱い。

 もちろん上級生が強いのではあるが、それ以上に野球の実力が評価される。

 一学年に30人とか40人もの部員を入れるのは、それをもってレギュラーの世話をさせるためである学校もある。


 早大付属もそういう傾向があり、そのため二年前には、特待生のバッテリーが辞めてしまった。

 このうちのピッチャーが、今は瑞雲にいる坂本である。

 同じ学年の当時の一年と上級生との間での確執は残り、現在の監督である片森も、これを解消することは出来なかった。

 当然ながらこんな状態でチームが上向くことはなく、現在の三年生が主力となるまでの数年は、甲子園からも遠ざかっていた。

 上の学年が消えた途端にセンバツ出場が決まったのであるから、結果的に正しかったのは当時の一年生たちと言えるのか。

 そうとも言えず、年功序列を守っていれば、それなりのチームワークというか、既定の秩序で勝ち進めた可能性もある。


 だが現在の三年生にとっては、上級生たちは理不尽な邪魔者であったことは確かだ。

 そもそも早大付属はその上の大学まで、伝統という名の旧弊が蔓延している。

 直史の特待生の条件がなかなか決まらなかったのも、実はそのあたりが関係しているのである。

 現在の三年である近藤たちは、監督である片森と共に、旧来の『伝統』をなくした。

 いくら悪しきものでも『伝統』の大好きなOBはいるものであるが、実際に甲子園に来たのはその伝統の破壊者である。

 片森の強い信念もあり、早大付属は変化した。

(まあそもそも、そんな古い考えがいつまでも続くわけはなかったんだが)

 片森は早稲谷大学の野球部の出身ではあるが、伝統という言葉に汚染された人間ではない。

 いつの時代も改革派と保守派とは分かれるものであり、古い中にも改革者がいるというか、そもそも古い中からしか真の改革者は生まれないのかもしれない。

(こいつらが上に行ったらまた、野球部の方は大変だろうなあ)


 早稲谷大学のOBの中には、プロ球団に進んだ者もいれば、他の分野で活躍している者もいる。

 そういった成功者の成功体験は、間違っているはずの経験すらも、自分たちがそれを経験しているだけに、正しいものとして認識してしまう。

 片森がそうならなかったのは、ほどほどに成功して、冷静に指導者として現状を見ているからだ。

 それに早稲谷という学閥の影響を、良くも悪くも体験している。

 学閥の中で、二つの派閥があるというのは、むしろ健康な証拠であると思う。

 改革派のやっていることも、しょせんはいつかは保守派となる。改革をし続けてそれが成功するなら、いつかそれが新しい伝統となって固定されるからだ。


 だからと言って何もやらないという選択肢はない。片森もその程度の人生経験と洞察力は備えている。

 上に行って野球を続けるなら、近藤たちは必ず旧来のシステムと戦うことになる。

 だからこいつらには少しでも実力をつけ、箔もつけてやらないといけないわけだ。

「では、白富東の戦力の分析に入ろうか」

 絶望的なミーティングが始まる。




 千葉県代表の白富東は、現時点において最強のチームと言ってもまず間違いはないだろう。

 関東最強というだけではなく、日本全国で最強というレベルだ。あるいは高校野球史上最強のチームとさえ言えるかもしれない。

 私立ではなく、スポーツ推薦すらなかった、偏差値も高くて自力の学力で入るしかない学校が、どうしてそこまで強くなったのか。

 ポイントとなる人間が三人いる。

 佐藤直史、白石大介、そして大田仁だ。


 佐藤直史と白石大介は、単純にその残した数字を見れば、最高のピッチャーと最高のバッターが揃ったと言える。

 そしてこの二人が正しく成長し、正しく起用されるためのピースが、大田仁である。

 選手として見るならば、大田はキャッチャーとしてはかなり優れているが、選手としての総合力では高校レベルでもそれなりにいる人材である。

 だが彼の父親と、そこからつながる人間関係が、二人の超高校級選手の潜在能力を成長させるために必要であったし、その後の人材の確保にもつながっている。


 前監督の山手は、野球部が強くなるための全てを用意した。

 施設、設備、人材、資金などである。

 完全に学力テストの結果でしか入れないはずの白富東だが、帰国子女・海外留学生枠で、年に一名ずつではあるが、とびきりの選手を入学させている。

 現在の二年生の中村アレックスは、まだ二年生ながら、U-18の代表候補として挙がっていた。


 しかも、これだけではない。

 これに加えて現在の二年生には、他のチームでは絶対に使われなかったであろう人材がいる。

 金髪の選手が公式戦に出るのを、白富東は問題視していない。

 佐藤直史が中学時代は公式戦未勝利のピッチャーだったというのも信じられないが、その弟の方はそもそも中学時代は野球をしていなかった。

 それが現在では、高校最強左腕とさえ言われているのだ。


 歴史の中には時折、物語よりもよほど奇妙な現象が起きて、奇跡としか言えない現実が生み出される。

 白富東は、つまり奇跡の一つの形なのだ。

 だが奇跡的な現実も、最後が悲劇で終わることは珍しくない。

 既に一度は春のセンバツを制したのだ。夏に何かの拍子で負けてもおかしくはない。

 99連勝しても、ただの一度の敗北で、有終の美を飾れないことはあるのだ。




 白富東の準々決勝、前橋実業戦を検証する。

 先発したのは三年の岩崎であり、打線は割と攻撃に重きを置いた布陣となっていた。

 スコアとしては12-0の五回コールドであり、左腕の150kmピッチャーをもあっさりと攻略したと言えよう。

 守る方は被安打二、与四死球一、失策二と、めずらしくエラーが出ている。

「元から上位打線は強力だったが、一年生の二人が打線に入ると、これがさらに強力になってくる」

 赤尾孝司と青木哲平は、シニアにおいて全国レベルのバッターであった。

「ただこの二人は、変化球主体の投手からは、あまりいい成績が出ていない」

 今のところは、という注釈がつくが。


「むしろ打撃で一番気をつけるべきは、春からほぼ四番に固定となった鬼塚だな」

 練習試合やセンバツなどでは、それほど決定的な場面を作った記録はない。

 だが四番になってからは確実に、得点圏打率が上がっている。

 そして犠打は少なくなり、長打率が上がっている。


 鬼塚は外見からは想像しづらいが、プレイはチームに献身的だ。

 犠打を適切な場所で成功させてくるが、それはそもそも長打があるため、それを避けた球を転がされたり飛ばされたりすることが多かった。

 しかし今は基本的に、自由に打たせている。そして結果が残っている。

「上位はどれもよく打つが、白石を別格とすると、中村と鬼塚の二人が、要注意打者だ」

 白石大介はもはや言うまでもない。


 守る方はそれでいいとして、打つほうはどうするのか。

「初戦を佐藤次男と三男、準々決勝を岩崎が投げたので、当然まだここまで投げてない、佐藤長男が先発してくると思うが……」

 勝気な性格の多い選手たちだが、さすがに死んだ目をしてしまう。

 センバツで戦ったのは、次男であった。ノーヒットノーランを達成される直前であった。

 そして残りワンナウトのところであっさりと長男に交代して、敬遠のち凡退。

 ぎりぎり逆転のチャンスが残っていたところを、あっさりと封じられたというイメージがある。

「春の大会のピッチングも基本的には変わらないんだが……」

 キャッチャーが大田でないことの影響は、ほとんど見られないと言っていいだろう。

 とにかくボール球を投げることが少ないし、投げたとしても振らせるのが上手い。

 それでもどうにか攻略法らしきものを考えないといけないのが、監督の辛いところである。

「序盤は捨てて、中盤からにかける」

 それは大胆な作戦であった。




 戦争はその準備段階で勝敗の八割は決まっていると言われるが、野球にもそういった面はある。

 早大付属の片森の作戦は、間違いなく正しかった。

 四回を終わった時点でスコアは2-0で白富東のリード。

 しかし五回の表の早大付属の攻撃、ここまでパーフェクトピッチングであった直史が、先頭打者の近藤をフォアボールで塁に出してしまった。


 首を回す直史である。あのコースはストライクだったはずだ。

 そこで今日の配球と打者の凡退を思い出していくと、早大付属の戦略が分かった。

(でも、仕掛けるのが早すぎたな)

 この打順、そしてこの中盤では、いくらでも修正が効く。

(欲しがりません、フォアボール作戦か)

 ベンチを見るが、おそらくジンはまだ気付いていない。

 今日のスタメンマスクを被る孝司も、おそらく気付いていないのだろう。


 早大付属は初回から、積極的なスイングをしてきていた。

 特にゾーンぎりぎりの球もだが、まずボール判定されるであろうコースも、積極的に振ってきていた。

 直史はそれをいいことにボール球を振らせて三振や凡打を築いてきたのだが、相手の近藤のピッチングを考えると、全て計算だったのだと分かる。

 粗いバッティングではなく、それが作戦であったのだ。


 近藤はコントロールが悪い投手ではないが、ゾーンギリギリを狙うよりは、ストレートの質で勝負するタイプのピッチャーだ。

 今日はかなり真ん中近くにボールが集まっていたが、それでも打ち損じてしまうので、近藤のボールの特徴だ。

 つまりこちらのバッティングは、普通にゾーン内のボールを打つことになる。それで二点を先制した。

 しかしこの回から、際どいコースは見逃していくようになった。

 これまで際どいコースも積極的に振り、近藤も際どいところを狙っていなかったわけだが、これはつまり、審判には際どいコースがボールに見えやすくなるということだ。


 別に贔屓をしているわけではない。近藤に対しても、この狭いストライクゾーンは適用されるからだ。

 だがどちらがより制限を受けるかと言えば、際どいコースの出し入れが得意な直史だ。

(タケに交代するのが一番手っ取り早い対応なんだろうけどな)

 今日はスタメンからサードに入っている武史は、肩を作っていない。

(我慢して七回の先頭打者からやるべきだったな)

 ここからは力で押す。




 サインに対する直史の首を振る回数が多くなって、異なったリードを求められることに気付く孝司である。

 ここまでは制球を重視とするリードをしてきた。相手がぶんぶんと振り回してくるからだ。

 特に際どい球に手を出させることによって、三振なりゴロなりを打たせてきた。

 しかし相手もどうやら、際どいところを見送るようになった。


(なら、緩急かな)

 カーブと、ストレートと、スルー。そしてチェンジアップを使えば、下位打線は間違いなく抑えられる。


 内野フライ、内野フライ、内野ゴロで、後続を切った。

 送りバントの二連続失敗というのが、あちらにとっては痛かっただろう。

 ベンチに戻ってきた二人に、秦野が声をかける。

「先頭打者への四球はなんだったんだ?」

「あちらさんがストライクゾーンを小さくさせましたね」

 もちろん審判の判断が変化するなど問題なのだが、本当にそれを解消させるならプロやアマチュアでも全国レベルの戦いは、全て機械に任せてしまえばいいのだ。

 直史にとってはそちらの方が有利であるが、ただ審判をコントロールするのも、野球のコンビネーションの一つではある。


 これまで手を出してきた際どいコースを、余裕をもって見逃されたため、審判がボールの宣告をしてしまった。

「これだから審判は」

 憤懣やるかたないという秦野であったが、すぐに対策へと頭を切り替える。

「どうする? タケと交代するか?」

「するかどうかはともかく、肩は作っておいた方がいいでしょうね」

 そんなわけでブルペンに入る武史である。


 本当に交代するかはまた別だ。

 しかしこれで相手のベンチに動揺が生まれればいい。


 当初の予定では、この試合は直史の完投の予定であった。

 明日の決勝は連戦のため、本当なら継投の方がいい。

 しかし早大付属の打線を考えれば、確実に封じられるのは直史だけである。

 それに中盤に入るまでの早大付属はボール球にも手を出してきていた。

 少ない球数で完投出来ると思ったのだが……。

「ここからは球数が増えるでしょうね」

「そうだな。明日もどこかで出るかもしれないと考えると、ここで交代するというのも一つの選択だが」

 外野の守備に入って、いざという時にはマウンドに戻るということも出来る。

「いや」

 直史は考える、この程度の対策でどうにかなるなどと、全国区のチームに思われては困る。

「とりあえず100球までは、力でねじ伏せます」




(失敗だったな)

 珍しくボール球から入ったので、ここが仕掛け時だと思ったのだが、直史は片森の予想を超えてきた。

 ゾーンぎりぎりを狙わなくても、緩急差と変化量。そして純粋なストレートで、早大付属は封じられている。

 当初の予定通り、七回から作戦を始めたとしても、結果は同じだったろう。


 佐藤直史は、動じない。


 完全なゾーン内で、緩急差を使って打ち取っている。

 そもそも変化球投手と言っても、ストレートは140km台半ばは出るのだ。

 とにかくそのストレートが打てない。内野フライを連発している。

 おかげで一本、ポテンヒットが出たことは出たのだが。


 だが結局は、ヒットはその一本だった。

 小さくなったストライクゾーンの中でも、直史の投球術は健在。

 そして作戦が上手くいかなかったことで、近藤のピッチングにも影響が出たと言えるだろう。


 大介のホームランを含めて、七回で7-0のコールド。

 直史は被安打一の四死球一で、球数も結局は100には遠く届かなかった。

 当初の予定で七回から作戦を決行していても、結果は変わらなかっただろう。いや、九回まではもっただろうか。


 完全な力負けだ。

(このチームに勝てるものなんているのか?)

 そこまで思ってしまうが、近藤たちの士気は落ちていない。

「あと二ヶ月、甲子園までには追いつくぞ!」

 キャプテンの力強い声に、ベンチメンバー全員が応と返す。

 なんだかんだ言いながら、今の早大付属はチームが完全にまとまっている。

 これが正しかったのだ。


 ベンチから出たところで取材を受けて、それから帰りのバスに向かう。

 だがその途中で、佐藤直史が早大付属を待っていた。

 本来なら勝者が敗者にかける言葉など、嫌味以外の何者でもない。

 ただ、直史はそういったタイプの選手ではない。


「何か用か?」

 完封してきた相手に向かって、話しかけるというのはかなり無神経のはずだ。

「早大付属のスタメンは、大学も早大に入るのか?」

 それは予想外の質問であった。

「それは……そうかもしれないが」

「それなら来年の春は同じチームかもな」

 その言葉に早大付属のメンバーは驚きを隠さない。

「うちの大学に来るのか?」

「その予定だ」

「それなら……本来のポジションに戻れるな」

 近藤は本来、ピッチャーではなくサードだったのだ。

 ピッチャー不足のためにピッチャーに回ったら、それが上手くいったというだけである。


 こいつと、同じチームで。

 春のU-18合宿に直史は参加していないため、紅白戦でさえ同じチームになったことはない。

 プロには行かないと言っていたが、特待生枠で大学に進むのか。

「それだけだ。また話せる機会があるか分からなかったからな」

 去っていく直史の背中を見て、近藤は呟く。

「他の大学も考えていたが、あいつと一緒なら、面白いチームが作れるかもな」

 周囲の人間も頷いていたのであった。


×××


 本日外伝の3.01が投下されています。

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