第71話 遭いたくて事故に遭う人間はいない
トニー・健太郎・マローンは紛うことなきフィジカルモンスターである。
204cmの巨体に体重も104kgと、瑞希の二倍以上の体重である。
……二倍以上であって、ちょうど二倍ではない。瑞希はもっと軽いのだ。
やるスポーツを間違ってるんじゃないかと言われる彼であるが、実際にバスケもそこそこやっている。
まだ少しずつ身長は伸びていっているので、ひょっとしたらそちらに転向するかもしれないが、セイバー診断によると心肺機能があまりバスケ向けではないらしい。
身長が7フィート以上になればNBAも視野に入れていいかもしれないが、それ以下だと微妙だとのこと。
NBAは化物の巣窟か。
……間違いではない。
こんな、短絡的な指導者が見れば狂喜しそうな素材のトニーであるが、既に春休みの練習中に、バッティングは明確な弱点が分かっている。
アメリカのストライクゾーンに慣れているから仕方がないのだが、インコースぎりぎりの球に弱く、次に外に逃げていく球を投げられるとさっぱり打てないのである。
だから右投で、インコースを厳しく攻めてくるメンタルとストレートを持ち、変化量の多いスライダーを持つ投手であれば、絶対に攻略出来るのだ。
さらにツーシームかシュート系で、内角に変化してくる球を持っていれば、さらに攻略は容易となる。
明倫館の高杉のように、強気でインコースを攻め、スライダーを持っている投手はまず打てない。
もちろんこの観客が多い中で、そんな明らかな弱点を見せてしまうわけにはいかない。
「最初の三球はストレート、ただし変化球は右のスリークォーターからしか投げないかわりに、何を投げるかは秘密だからな」
これを厳しいと取るか、優しいと取るか。
もちろん直史相手では、厳しいに決まっている。
初球、インコースへのストレート。
トニーはこれに手を出したが、ファール。しかしこれはわざとである。
長年体に染み付いたストライクゾーンは、そうそう簡単に書き換えられるものではない。なのでインコースはカットするという方針なのだ。
その証拠に二球目のアウトローは、一塁線上に上手く弾き返した。
三球目の高めに浮いたストレートは、強打して大介ネットの一番上にまで飛ばした。
おお、と歓声が上がる。
単純なパワーもだが、ミート力もちゃんとある。
問題はここからである。
普段は直史は、ボールに逃げていく変化球を振らせることを得意としている。
ゾーンを通過するという縛りは、なかなか辛いものがある。
それにサイドスローなどの奇策もなしだ。
ボール球を投げられないということと、あえてトニーの弱点を突かないことで、直史の投球術は九割方封じられると考えてもいい。
さらにキャッチャーが倉田という、リード面ではマイナスの要素もある。
もっとも今回は、直史がサインを出す。
四球目はカーブであった。
体に当たるような錯覚する軌道から、内角のギリギリへ入ってくるカーブ。
これをトニーはカットした。練習どおりである。
五球目はシンカーを、ボールからストライクぎりぎりに入ってくるコースへ。
トニーは上手く打ち返し、センター前に飛ばした。
六球目。インコースのゾーン内に変化するスプリット。
これはファールチップでアウト扱い。
(さて、次の球を上手く打てるかな?)
七球目は、縦に大きく変化するカーブ。
じっくりと待ってタメたトニーは、これをまたもセンターの深いところに放り込んだ。
おおー、と観客も沸く。
それは確かに、こんな体に恵まれた一年生が、佐藤直史からホームラン級のバッティングをすれば、話題にもなるだろう。
白富東の外国人傭兵がやばい、と。
他のチームの攻略目標が、新一年にまで分散されれば、それだけ他の打者への分析もリソースを取られる。
観客は佐藤直史の華麗な変化球と投球術を見たかったかもしれないが、佐藤直史からホームラン級の当たりを打つ一年がいるとなれば、そちらの情報を重視する。
(じっくり半年ほど鍛えて、秋からは四番を打たせればいいかな)
三番にして、白富東の最強打者は三番という伝統にしてしまってもいいが。
八球目と九球目は、当たりこそいいもののアウトの範囲に飛んだ。
あまりいい当たりばかりさせるのも、それはそれで不自然だからである。
せっかく入ったばかりの一年に打たれるという道化を演じたのだから、この情報の信憑性は増しておかないといけない。
そしてラストの一球。
内角へ、純粋に速いストレートと決めていた。これをちゃんとカット出来れば満点だ。
世の中には満点以上の、あるいは点数を付けることが出来ない回答というものがある。
それは当たり前だ。このバッティング測定は、テストではないのだから。
内角に差し込まれるような鋭いストレートを、初めてトニーは痛打した。
そしてその打球が、直史を襲った。
歓声が湧きあがりかけ、そして静まり、次に叫び声となった。
内野のみならず瑞希や、まだ走れないジンまでもが、その全力でマウンドに向かう。
だが倒れた直史は、ひょこりとグラブを上げた。ピッチャーライナーアウトである。
「大丈夫かよ!」
ジンの声が一番大きい。正捕手に加えてエースまでアウトとなれば……まあそれでもまだ大丈夫そうな戦力ではあるが。
「頭とか打ってないよな!?」
「取った後に鼻に当たったから、少し痛いな」
少し涙目になってしまうのは、鼻をぶつけたのだから仕方がない。
慌てて走り寄ってきたのはトニーもであり、色黒であるので分かりにくいが、表情は硬い。
「内角を上手く打ったじゃないか」
「はい」
それは喜ばしいことだ。
「せっかくだ、今の打撃を見てみようか。誰かピッチャー代わってくれ。それと……清水、今の映像持って、部室来てくれ」
「はい」
回していたビデオから映像を飛ばし、直史はトニーと清水を連れて部室に向かう。
(……ジンは気付いたか。それに)
「フミちゃん、後で記録見せてね」
「あ、はい」
瑞希も少し遅れてついてくる。
「やったじゃん、トニー。内角打てるようになったね」
「思ったよりも速かったので引っ張れませんでした」
女子マネ清水がばんばんとトニーの背中を叩き、トニーもはにかんだような笑みを浮かべる。
部室と言うよりは野球部専用ルームと呼ぶべき建物に入り、清水が映像機器の準備をする。
「清水、氷持ってきてくれ」
パイプ椅子にどっかりと座った直史は、はめたままのグラブからゆっくりと手を抜く。
左手の人差し指が、倍ほどの太さに膨れ上がっていた。
叫び声を上げかけるトニーと清水に対して、直史はすっと人差し指を唇に当てる。
「騒ぐな。下手に怪我が洩れると、ややこしくなる。清水、氷を」
冷蔵庫から取り出した氷をボウルに放り込み、わずかに水を入れる。
設備が整っていて良かった。
死んだような表情のトニーに向かって直史は言う。
「スポーツに怪我はつきものだし、お前には責任はない。むしろバッピみたいなものなんだから、防球ネットぐらいは用意しておくべきだった」
実戦的にどこへ飛ばせるかを考えたのと、双子が左右上下から投げるので、それを使えなかった。
慢心だ。準備不足だ。
「俺のこれはお前のせいじゃない。だがこれを変に気にして、お前がちゃんとプレイ出来なくなったら、それはお前の責任だぞ」
直史はこの状況でも冷静であった。
瑞希が、直史の右手を握ってくる。
「突き指じゃないよね?」
「脱臼じゃなくて、骨折だろうな」
取った瞬間、ビキッと音がした。
「清水は落ち着いたら、監督とジンに伝えに行ってくれ。慌ててこちらに来ないように。トニーはしばらくここにいて、本当に落ち着くか、もう今日はこのまま帰ってもいいし、実際にバッティングの映像を見て勉強してもいい。今日は集中力に欠けるだろうから、練習には参加するな」
直史は落ち着いている。
大介のような化物と違って、普通の人間はおそらく、骨折の完治には二ヶ月ほどかかるはずだ。
夏の大会には間に合う。上手く行けば関東大会にも間に合うかもしれない。
「病院に行かないと」
「とりあえず近所の外科でいいだろ。セイバーさんの教えてくれた医者は遠いし」
利き腕ではない指だが、それなりに問題はある。
直史はひたすら冷静さを保ちながら、ユニフォームから着替えた。
「車出してもらわないとな」
「お母さんに電話してみる」
瑞希が電話をかけるのを見つめながら、トニーに声をかける。
「しかし凄い打球だったな。大介の打球もたいがい人殺しに使えるけど、捕球したのに衝撃で骨折したって、すごい話だ」
怪我をさせてしまった相手が落ち着いているので、トニーもパニック状態から回復してきている。
本人のみならず、怪我というのはしてしまったことよりも、してしまった後のことの方が大事である。
監督の秦野が部室にやってきて、冷やしている指を見せる。
「折れてるな。ほんの少しだけでいいから関節動かしてみろ」
動くことは動く。特別な痛みはない。
「たいしたことはないと思うが、指の骨折か。早くても二週間ってとこだな」
「そんなに早く治りますか?」
「開放骨折でもないし、腱を巻き込んだわけでもなさそうだしな。まあレントゲン撮ってもらわないといけないが」
それに状態によってはリハビリが必要かもしれない。
制服に着替え、バックの中に保冷剤を握った指を隠し、直史は瑞希に付き添われて、待ち時間の短い外科に向かった。
白富東の生徒がよく利用する医者であり、特に難しいもの以外は、ここで診てもらうことが多い。
「キレイに折れてるというか、罅が入ってるね」
レントゲンを見せてもらうと、確かに筋が見えた。
「でもまあ、深刻なものじゃないよ。利き腕の指じゃないよね?」
「はい」
「腫れが引くまで、たぶん三日間ぐらいは冷やしておくこと。ある程度腫れが引いたら、今度は冷やしすぎないようにすること」
「どれぐらいで治りますか?」
「日常生活に全く支障をきたさない程度なら二週間かな。スポーツで激しい衝撃とかがあるなら、完全に治すなら二ヶ月ぐらい」
二ヶ月は、やはり長い。
「ただ若いし、完全骨折じゃなくて罅だし、もう少し短くて済むと思うよ」
それは朗報だ。
それから治療期間中の練習や、固定について説明を受ける。
テーピングしておけば、それで問題はないらしい。
三日間は手を使わなくても、激しい運動は避けること。それからは経過を見ながら負荷を増やしていくことと言われた。
バレエは三日休めば、それを取り戻すのに倍の時間はかかるという。
直史の投球動作は、メカニック的に優れているので、三日間の休みが入るのは微妙に問題である。
もっとも下半身のストレッチや、指に負担をかけなければ、上半身も動かすことは問題ない。
右手の握力強化などなら、さすがにこれは全く問題ないとも言われた。
ジンと監督にも報告したが、安堵の溜め息で迎えられた。
「他のチームに情報を洩らすのは不味いよな」
ジンはそう判断して、秦野も同意した。
春の大会の前に、白富東は他校との練習試合を組んでいる。
どこも地区大会は本戦から出ればいいという強豪で、ここを相手に直史が投げないというのは、さすがに詮索されるだろう。
「ある程度の情報は洩れるとしても、どれぐらいのものかの詳細を知られるのはまずいね」
ジンは直史の怪我自体よりも、それを聞いて相手側の感じるプレッシャーが減ることを問題にしている。
はっきり言って春の大会は、シードさえ取れれば負けてもいい。
関東大会までしかないのだ。それでも昔なら強豪校との対戦経験を公式戦で積む、貴重な機会であった。
だが今では練習試合程度なら、県外の強豪といくらでも組める。
県大会の決勝で甲子園を争うかもしれないチームからは、逆に来なくなっている。
なぜなら練習試合で直史を経験しても、実戦で岩崎や武史が出れば、エース級ピッチャーを投げさせた自軍の方が手の内を知られて、不利になるからだ。
ジンと直史がいないというのは、逆に公式戦でいきなりこういった場面に遭遇するよりは、ある意味得がたい経験であるとも言える。
レッツポジティブシンキングである。
直史の怪我は単なる突き指と発表された。
屋内で直史にとっては珍しい、ウエイトや体幹トレーニングを重視する。
あるいは校内ではなく外のスイミングセンターで、低負荷の水の中での運動をする。
武史はものすごく泳ぐのが速いが、直史も専門的に習っていない人間の中ではトップレベルに速い。
それに加えて週末は他校の春季大会の偵察、平日は珍しくマスコミへの対応など、あえて露出を多くしたりもした。
強豪校との練習試合では、病気になってもらう。
相手としては多少の不満があるかもしれないが、センバツで大きく働いたのは岩崎と武史も同様である。
打ち崩せるなら文句の一つも出るかもしれないが、負けてしまえばそうも言えない。
それに新戦力の淳やトニーも投げたため、戦力分析としては、向こうはむしろ喜ぶべきだろう。
いよいよ県大会本戦、白富東も出場するという試合が近付いてきた。
ジンはそろそろ負荷のかからない程度のリハビリは行っており、全力のプレイはともかくかなり走れるようにはなってきている。
だがまだ試合に出すのは怖い。
直史の指も、早めに完治のお墨付きが出た。
やはり若いうちは治りが早いのと、処置が適切だったからであろう。
結局骨折の事実は完全に治るまで隠し通せた。
シードがあるため二回戦からの出場ということで、ぎりぎりまでを治療にあてることが出来たのが大きい。
直史よりはむしろ、ジンの方が時間はかかっている。
そしてベンチ入りメンバー変更ぎりぎりに、去年からの伝統にしようとする、紅白戦が行われる。
×××
(*´∀`*)主人公が怪我をしたまま試合に出る展開になったな、と安易な展開を予想させることに成功していたら勝利。
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