第65話 キャッチャー失格
「こけおどしだ」
大庭はあっさりとそう断ずる。
キャッチャーというポジションは、あるいはピッチャー以上に専門性が高い。
打てるキャッチャーというイメージがいまだにそこそこあるのはドカベンの影響であって、本来キャッチャーというのはピッチャーほどでなくても、打撃は大目に見られるものなのだ。
その後にもメジャーなマンガのホームラン王や、やたら勝負強いグラサンキャップなどがいて、強打者のキャッチャーというのはフィクションの世界では需要がある。
その一般的なキャッチャーの代表的な例はジンである。それでもキャッチャーとしては小技も使えるし、読みでそれなりの打率を残せるので、打者の層が薄い時は上位を打っていた。
大介のキャッチャーは、確かにキャッチングはしっかりとしている。
ボールを受けた時に、ミットが流れていくとボールに申告されやすいのだが、微動だにしない。
さすがにフレーミングの高等技術は使わないが、そこまでを求めるのは無理だろう。
変化球もたやすく捕っている。ワンバンの沈む球もだ。
考えてみればワンバンのボールをスタンドまで持っていくのだから、ワンバンのボールにも対応出来るのはおかしくないのかもしれない。
(いや、おかしいけどな)
「監督、本当にこけおどしなんですかね?」
「……そのはずだ」
打席にバッターを置いていないなら、ピッチングもキャッチングも簡単なはずだ。
大庭は打者に対して、いくつかの嫌がらせを指示した。
本職のキャッチャーなら、簡単に対応出来るものである。
直史と大介のバッテリーでリードをするのは、大介の方である。
ベンチからジンがサインを出すというのも考えたが、細かい打者の雰囲気などが分からないなら、直史に任せた方がいいと思ったのだ。
そして直史は大介に言った。
「お前がやられたら嫌だと言う球を要求してくれればいい」
確かに、それは打ちにくいだろう。
初球、インハイへのストレート。
バッターはいきなりバントの構えである。視線を遮られたキャッチャーは、ボールを捕れない場合がある。
直前でバットを引く。大介は捕れずに弾いてしまった。
「ストライッ」
新しいボールをもらった大介は、座ったまま肩だけでボールを寄越してくる。
胸元へのコントロールに優れた返球だ。
二球目、カーブ。
スイングしかけたバッターが、バットを後ろに引いた。
大介が無理にボールを捕ろうとしていれば、バットが当たって打撃妨害になったかもしれない。
だが大介はバットを避けて、ついでに捕球も放棄した。
「ストライッ」
また新しいボールをもらう。
予定通りだ。
直史は内心でほくそ笑んだ。
二球連続で後逸。
こんなキャッチャーは失格であると、バックネット裏がざわつきだす。
大介は平然としているし、直史も平然としている。
事前に聞いているバックも、動揺はしない。
三球目。
スルー。バッターは空振りし、大介は沈む球をミットで弾き、プロテクターで前に落とす。
振り逃げをしようとしたバッターであるが、落ち着いて目の前のボールをファーストに送球してアウト。
想定の範囲内で、事態は問題なく進行していく。
いくらなんでも捕球技術がひどすぎる。
そもそも捕ることを放棄して、とりあえずスリーストライク目は前に落としてアウトにしているのか。
(そんなバカなことはいくらなんでもしないと思うが、それならそれでやりようはあるぞ)
大庭は九番の、守備力偏重打者に伝言する。
八番バッターには、七番とほぼ同じ方法を伝えてある。
相変わらず変化球はキレキレであるが、それを捕るキャッチャーがひどい。
(体で前に落とすことを前提なら、横の変化球は使わないだろう)
そのはずなのに、スリーストライク目は変化の大きなシンカーを使ってきた。
体の近くの球を、キャッチャー前にバント。大介は飛び跳ねるようにそれを捕り、ファーストへ送球。
ツーアウトである。
ベンチからそれを眺めるジンは、怪我の痛みも忘れるぐらいに複雑な気持ちである。
正直なところ、これはキャッチャーとしての常識に反している。
普通のピッチャーなら、こんなにころころとこぼすキャッチャーには投げられないだろう。
しかし直史は構わずに投げるし、大介も難しい球を要求する。
直史は普通ではないし、大介は直史を信じている。
ランナーがいないなら、ツーストライクまではいくらこぼしても大丈夫。
そしてスリーストライク目は、前に落とせばどうにかなる。
後逸さえしなければいいのだ。だからこれでいいのだ。
全国の真面目なキャッチャーに喧嘩を売っているようなバッテリーであり、味方であるジンも、認めがたいものがある。
だがランナーがいないのであれば、確かにキャッチする必要はない。
振り逃げするにしても、前にボールがあれば、ファーストに到達する前には刺せる。
ランナーがいれば走り放題であるが、そもそもヒットを打つことさえ難しい。直史はパーフェクトが出来るピッチャーなのだ。
九番は、打撃力ではなく守備力でスタメンに入っている選手だ。
受けた指示は、強振。
目の前で強く振られるバット。大介は当然のように捕球出来ない。。
二球連続のスルー。一つ目はプロテクターの腹で、もう一つは膝で止めた。
来ると分かっていれば、痛みにも耐えられる。
バッテリーは完全に割り切っている。
ツーストライクまではどんな球を投げてもいい。ランナーがいないからだ。
(しかしそれをここまで徹底するのか)
大庭だけではなく明倫館ベンチも、白富東のベンチも、スタンドも応援席の解説者も、この異様な光景に見入っている。
勝てるな。
直史は明らかに流れが変わったのを感じた。
観客はどちらを応援するというわけでもなく、ただ目の前のありえない光景に見入っている。
捕れないキャッチャーで、ツーアウト。
いくら佐藤直史でも、キャッチャーの能力が低すぎれば抑えるのは難しい。そう考えた人間が大半だろう。
だがランナーさえいなければ、ツーストライクまでは後逸しても問題ないし、三振のボールを捕れなくても、振り逃げにさえしなければいい。
そもそもパスボールという言葉は、キャッチャーがボールを捕れずにランナーを進めてしまうことを言うので、いくらボールを弾いて捕れなくても、ランナーがいないなら問題ない。
コペルニクス的思考の大転換というか、通常は使えないキャッチャー起用である。
三球目のストレート。
ファールチップになったその球を、大介はわずかにミットを動かして、しっかりと捕球した。
スリーアウトチェンジである。
(最後の一球は捕れたか……)
マグレにしても、たいしたものだ。
公式戦初めてで、しかもいきなり甲子園の決勝。
一人でもランナーが出れば、それで勝負は決まる。
そんな中で割り切りすぎて、ツーストライクまでは捕球を放棄。
そこからスリーストライク目だけは前に落とし、ファーストで処理。
どこの草野球だ、と言いたい。
いや草野球よりもさらにひどい。
だが初めて試合に出たキャッチャーは、ああいうものだ。最後の一球を捕っただけでも及第点。いや、状況を考えればこれで満点だ。
ふと大庭は思い至る。
キャッチャーに注意しすぎて、打つことへの意識が薄かった。
相手は佐藤直史で、こちらは下位打線だったということもあるが、攻撃への意識が薄かったか。
(勝負は次の回だ)
一番の伊藤からの打線。ここで決める。
次で決めると思ってるんだろうな、と直史は思った。
「しっかし完全にだましたよな」
大介は満面の笑みである。応じる直史の笑みも黒い。
「捕れないと思っただろうな」
大介がボールを弾いたのは、全てわざとである。
キャッチャー攻略へ思考を誘導させて、ただでさえ打てない直史を、全く打てないようにさせた。
一人でもランナーが出れば、三塁までの盗塁は余裕であろうし、後逸でサヨナラということも考えられたのだ。
ツーストライクまでは、捕る必要は全くない。
極論すれば大介が注意すべきは、打撃妨害と、スリーストライク目の振り逃げだけであった。
野球は結局のところ、実力差がそれほどなければ、あとは騙しあいである。
まず、ここでの騙し合いには勝利した。
問題は10回の表であるが、ツーストライクまではまだ捕球が出来ないと見せて、相手の油断を誘えばいい。
大介のキャッチャーの能力をあえて低く見せることで、向こうの攻撃の選択肢が増えたように思わせ、ピッチャーの攻略への意識を割く。
確かに色々な面で大介はキャッチャーとしての最低限の能力が足りていないので、こちらも策を弄するだけだ。
それにこれは、相手の意識をとにかく攻撃だけに向けさせることにもなる。
直史を攻略するのか、大介を攻略するのか、思考のリソースを攻撃に偏らせる。
九回の裏は確かに下位打線ではあるが、ツーアウトからでも武史に回り、武史が出塁すればアレクだ。
そしてもしアレクが敬遠などされた場合は、直史に打席が回る。
直史の打者としてのデータは少ない。特に二年になってからは、積極的に打つこともない。
だが中学時代の直史はクリーンナップであり、今でも打率自体はかなり高いのだ。
そして10回の裏には、確実に大介に打順が回る。
「あんたら心臓に悪いのよ」
「説明してた通りの展開だったろ?」
「まあ……分かるけどね」
シーナもこの作戦の有効性は分かっている。
八回の裏まで、明らかに球場の雰囲気は明倫館寄りであった。
その流れを大介が爆散させたが、それでもまだ完全に有利とは言えなかった。
そして大介のキャッチャーで、とにかく意表を突くことには成功した。
急造キャッチャーなどいくらでも崩せる。
そう思わせることで、明倫館の意識は攻撃にばかり偏っている。
九回の裏、サヨナラを狙う白富東であるが、高杉はまだ体力を残している。
しかし集中力が乱れている。先頭打者を四球で出してしまった。
(いかんな)
大庭は完全に流れが変わっていることを感じ取った。
割と簡単にアウトを取れる白富東の下位打線を、四球で出してしまうのはもったいない。
村田は動じずにリードしていて、高杉も動揺しているというわけではないのだが、集中力の低下が見られる。
大介のキャッチャーだ。あれが調和を乱してしまった。
そして次の打者へのストライクを、バントで送られた。
ワンナウト二塁。打者は今日は九番の佐藤武史。
普段は四番を打っていることが多く、本質的には中距離打者だが、ホームランが打てないわけではない。
この場面ではホームランはいらない。次の打者がアレクということもある。
純粋に、それなりの当たりのヒットが出れば、そこでサヨナラだ。
白富東のバッターで一番恐ろしいのは白石大介で、二番目は中村アレックスだ。
四番に入っていることは多いが、佐藤武史の危険度は、それよりは低い。
ピッチャーとして八回までを投げたことで、疲労は溜まっているだろう。打ち取るのにそれほど難しい打者ではない。
村田が注意するのは、次の回だ。
下手をするとアレクから始まり、割と打率の高い直史がいて、そして大介には絶対に回る。
さすがにもう敬遠だ。しかし歩かせても次は四番の鬼塚。
今日の内容はあまりよくないが、油断できるバッターでもない。
綱渡りだ。
八回の逆転で、勝てると思った。ツーアウトまでは負けると思っていたのに。
野球に流れなどないと信じる村田は、この不条理なまでの一発逆転が、野球の魅力なのだろうと思う。
世界で競技人数の多いバスケとサッカーには、一発逆転がない。
野球だけが特別で、野球の神様はいくらでもドラマティックな展開を演出出来る。
ここを抑える。
抑えて、延長で勝つ。
いくら無表情な村田でも、優勝がしたくないわけではないのだ。
×××
夕方に九章最終話投下予定。でも予定は決定ではない。
次話「紫紺の大優勝旗」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます