第64話 流れの天秤

 この痛みはまずい。

 単なる打撲であれば、ゆっくりと痛みは引いていく。しかしこれは、血液の流れに従って痛みが鼓動を打っている。

(ミスった!)

 単にこの怪我を、ミスと断定するわけではない。

 問題は、倉田が使えないことだ。


 代打で出して、ランナーになったところで代走を出してしまった。

 あの時点では追加点のチャンスであったし、実際に追加点は取れた。

 しかし控えのキャッチャーを残しておかなかったことは、間違いなく采配のミスだ。


 味方の全員が、こちらを見ている。

 シーナや倉田は蒼白になっているし、直史でさえ硬い無表情。

 大介もだ。目を見開いて、歯を食いしばるような表情をしている。


 正規のキャッチャーがいない。そして点差は二点。

 次の打者は四番の桂で、ランナーは二人いる。

 二死であるので、一点を守るための満塁策も選択しにくい。そもそも単純に敬遠しても、五番の高杉も怖い打者である。

 二塁ランナーの村田は鈍足だが、めったに出ない長打が一塁線や三塁線に打たれてしまえば、さすがに帰ってこれる。

(最悪と、最悪の中の最良を考えろ)

 他にキャッチャーが出来るのは、直史だ。つまり直史をピッチャーとして使えない。

 直史をキャッチャーにして、この場面で岩崎が力を出しきれるか。


 考える。

 痛みさえ忘れて考える。




「これはダメだね。おそらく靭帯の部分断裂だ」

 ベンチにまで運ばれたジンは、そこで診断を受ける。

 痛みは我慢出来る。だが、力が入らなくて踏ん張れないのが致命的だ。

 テーピングでどうのこうのという段階ではない。

 春の大会のことまで考えたが、それは試合が終わってからだ。


 選択肢は多くない。

 武史を捕れるキャッチャーは直史だけだ。一応もう一つの選択肢はあるが、ランナーのいるこの場面では難しい。

「ナオ、とりあえずこの回はキャッチャーを」

「分かった」

 それなりの試合経験があるキャッチャーは、直史しかいない。

 武史との相性もいいので、普通の試合であれば、これでどうにか抑えられる。

 しかしここは甲子園の決勝で、そして武史は球威が落ちてきて、ランナーが二三塁にいて、打者が四番なのだ。

 そもそも完投を考えてなかったので、かなり球数も使って消耗してきている。だからこそ打たれたのだ。

 思えば伊藤に打たれた時に、交代しておくべきだったか。

 いや、結果論だ。久坂を四球で出してしまったのもまずかったのだ。


 悪い条件ばかりが思い浮かぶ。

 氷をどっさりと膝に乗せて、ジンはそこから見守るしかない。

 最悪でも、ここは同点までに抑えておきたい。

 八回の裏は大介からの攻撃だ。そして九回の表の明倫館は下位打線。しかし向こうには代打でそこそこ打てる選手がいる。


 直史か岩崎がピッチャーなら、いやアレクであっても、おそらくはどうにかなったろう。

 しかしキャッチャーの能力低下で、外野の守備の要のアレクを抜くわけにはいかない。

 延長になったらどうする?

 単に捕球するだけなら、大介も出来る。だがランナーが一人でも出た場合の送球や、内野への指示、インサイドワークなどは、さすがに難しい。

 高杉は体力お化けだ。武史なら延長になれば不利。


 たったワンプレイ。

 一点よりも、あそこは倉田をキャッチャーとして使えるように、残しておくべきであったのだ。

「曽田の様子は大丈夫かな?」

 悪送球をしてしまった曽田のメンタルに、ようやく考え至る。

「緊張はしてるみたいだけど、ちゃんと足場は慣らしてる」

「こういう時がなあ……」

 選手層の薄さだ。


 戸田に代打倉田を送り、倉田に代走奥田を送った。

 そして奥田に代わって曽田を出したので、他にはもう二塁を守れる者がいない。

 一応佐々木と西園寺は内野の練習はしているが、公式戦で出したことはないのだ。

 鬼塚をファーストにして、諸角をセカンドに戻すとしても、そしたら今度はサードを守れる者がいなくなる。

 直史と武史がサードをこなせるが、今はバッテリーだ。


 敗北の可能性が見えてきた。




「桂と高杉に打たれても、ホームラン以外なら逆転されてもいい」

 マウンドに寄って来た兄の台詞に、絶句する武史であった。


 逃げ切らなければ負ける。今はそういう状況のはずだ。

「八回は大介からの攻撃だから、おそらく出塁は出来る。ゲッツーさえなければ九回の裏にお前に回る」

 その間に一点ぐらいは取れるだろう。直史の計算は、最悪と、最悪の中の逆転の可能性を考える。

「まあここで打たれても俺のリードが悪いわけだから、お前は気にするな」

 さすがにそれは無理である。


 四番の桂は左打者なので、出来ればこいつで終わらせたい。

 二点差があって最終回なら、おそらくどうにか勝てる。

(低めに、腕を振れ)

 あと一人、どうにか抑えれば、九回はランナーなしから始められる。




 明倫館ベンチは相手の負傷というアクシデントは気の毒に思いながらも、この機会を逃すつもりはない。

「野球は本当に、ツーアウトからだな」

 大庭は口に出し、そして内心ではもっと辛辣に呟く。

(これで白富東が負けたら、采配ミスだな)

 キャッチャーの控えを残しておかないなど、ありえない失態だ。

 一応データが残ってる限りでは、佐藤兄は公式戦でマスクを被っているが、明らかに格下相手の試合だけである。

 中学時代にキャッチャー経験があるとも聞いているが、構えなどを見ても本職でないのは確かだ。


 ここで逆転する。

 同点止まりでもこちらが有利ではあるが、ランナー二三塁のここで決めなければ、下位打線での得点はやはり難しいだろう。

(深く読むな。打てる球を打て)

 桂の初球打ちで、一二塁間を破った。村田は三塁で止まるが、久坂が帰ってきて、これで一点差。

(外角に投げさせるべきだったな。二遊間か三遊間なら、大介が捕っていた)

 身贔屓ではなく、純粋にそう思う。そして大介の肩なら、一塁でアウトが取れたかもしれない。


 勝てる。

 はっきりと分かる。流れが来ている。

(高速チェンジアップは、後逸の危険があるから使いにくい。速球系に絞れ。制球も少し乱れてきている)

 村田の勝負強さに隠れているが、桂も高杉も、打ってほしい時に打てる選手だ。


 甲子園には魔物がいる。

 白富東という圧倒的に知名度が高い、スタープレイヤーの揃ったチームを、あえて負けさせようという、魔物の力を感じる。

 スタンドの声援も、この大逆転のチャンスに対して、ドラマチックな展開を期待している。

 白富東の応援も大きいが、おそらく今勝敗の天秤は、ほぼ吊り合った位置で揺れている。


 野球の神様は、おそらく甲子園の観客の誰よりも、ドラマチックな展開が好きだ。

 そしてこういった盛り上がる場面では、高杉は強い。


 三球目、内角へのストレート。

 三塁線への、明倫館本日初の長打。

 村田に続いて桂も帰ってきて逆転。




 野球はこういうものなのか。

 ツーアウトからヒットが固まって、しかも初の長打まで出て、一気に四点の逆転。

 まだ二回の攻撃があるし、高杉も全く打てないピッチャーというわけではないのだが、流れが悪い。

 拮抗した状態ならばともかく、ここは完全に明倫館に流れがいっている。


 ベンチに戻ってきたナインの顔色はほとんどが悪い。

「……すいません……」

 武史も謝るしかない。

「打たれたのは俺のリードのミスだから仕方ない」

「でもコースが甘くなって」

「それも考慮した上で考えないといけないから、キャッチャーってのは大変なんだ」

 直史は完全に平静を取り戻しているように見えた。もっとも本当に、逆転されたのは直史の責任なのだが。


 そしてもう一人、完全に頭を切り替えた人間が一人。

 この回先頭の大介は、普段どおりにバット振る。

「それに相手もミスをした」

 直史の言葉に、ベンチの視線が集まる。

「ミス?」

 自分の気付いていないことを、直史は気付いているのか。ジンは問いかける。

「高杉が二塁にいて追加点のチャンスだったのに、代打の切り札を使わなかった」


 それは微妙だ。逆転した場面で、スタメンを外してさらに追加点を取ろうとするのは、守備における弱点を見せてしまうことになる。

 白富東の取った手段がそれだ。倉田に代走を出すべきではなかった。三点目はいらなかったのだ。

 二点差を逆転された、去年の夏が頭に残っていたのかもしれない。

 一二塁間を抜いた桂の打球も、諸角がセカンドだったら捕れていたかもしれない。

 全ては結果論だ。だから相手のミスとは、この段階では言えない。

「一点差で大介なら、敬遠以外は同点だ」

 そして直史が考えるのは、更なる策である。




 まともに勝負する必要はない。

 大庭の指示に、村田も同感である。問題は高杉をどう感情的に納得させるかだ。

 敬遠でブーイングを浴びても、これは決勝戦だ。それにここまで全てを敬遠してきたというわけでもない。

 敬遠はしないが、打てるところには投げさせない。


 初球。インハイに抉りこむスライダー。大介のバットは止まる。

 そう、このコースのこの角度のボール球は、さすがに打ってもファールにしかならない。

 二球目。大きく外に外す。これだけ外しているのに、打席では大介は反応した。


 打ちたがっている。

(打てるところに投げる必要はない)

 村田の考えは間違いではない。


 三球目、インローの低く沈んでいく縦スラ。


 だから間違ったのは、打てる範囲の想定だ。


 インローのボール球。打とうとするスイングは明らかにゴルフスイング。

 だが、タイミングがおかしい。

(こいつ!)

 掬い上げたボールが、なぜかライナー性の打球になって、ライトスタンドに突き刺さる。

 逆転された直後の、同点ソロホームラン。

 そしてこの一発で、大介の大会ホームラン王も確定したのであった。




 さすがに本当にホームランになるとは思っていなかった直史である。

 ただ塁に出るのは確実だろうし、そこから一点ぐらいは取れるのではないかと思っていたのだ。

 しかしあのゴルフスイングで、フライ性ならともかくどうしてライナー性の打球になるのか。

(タイミングをぎりぎりまで遅らせたのか? それにしても……)

 これで、流れはまた変わった。


 べしべしと手荒い歓迎を受けている大介だが、ここで流れを決定的に持ってくる必要がある。

 流れと言えばオカルトであるが、要は精神的な優位さだ。

「大介、九回だけどな」

 直史の作戦は、大介を呆れさせるものだった。

「お前、そういうのは普通ランナーが一人でも出てから代えるもんじゃねえの?」

「それはルール上制約が大きくなる。賭けの要素が強いことは認めるが、その中でも分が良くなるようには考えてる」

 扇の要であるキャッチャーがいないため、チーム全体が浮ついている。

 武史もブルペンや格下相手ならともかく、この決勝で直史に向かって投げるのは、かなりの無理がある。

 打たれたのは直史の責任と言ったが、球速は145kmしか出ておらず、明らかに不安を抱いていたのだ。


 賭けだ。

 だが勝算のない賭けではない。


 ジンがいないことによって、鷺北シニアのメンバーは動揺がある。

 曽田も悪送球の影響があるだろう。動きがやや硬い。

 ここは奇襲でもなんでも、とにかく精神的な優位さが必要になる。




 応援席は爆発的な興奮に満たされていた。

 やはり大介が打つと、流れが変わる。

 それまでにやにやと笑いながら試合を見ていたイリヤも、大介の無茶なホームランに頭を抱えていた。

 おそらくまた頭の中の譜面が破られたのだろう。


 双子はまた興奮して鼻血を出している。大丈夫なのだろうか、このお嬢さんは。

「九回、岩崎君に代わった方がいいのかな?」

 瑞希はそう問いかけるが、応援席の野球部員は顔を歪ませる。

「タケは球威が落ちてきたけど、ガン先輩だとナオ先輩のキャッチャーと合わないかも」

 そんな声が上がるが、ぶっちゃけ岩崎は、直史をキャッチャーとしては信用していないのだ。

 試合でも一回も組んだことがないので、さすがにそれを岩崎の責任にすることは難しい。


 九回の表は下位打線だ。ここを三人で抑えて、裏でのサヨナラを狙いたい。

 なんとか武史に踏ん張ってもらうしかない。


 そんな応援席の予想は崩された。

「え?」

「え?」

「え?」

「え?」

「そう来たか」

「なるほどね」

 双子だけは納得顔であるが、それ以外は困惑しかない。


 九回の表、マウンドに立つのは直史。

 サードに武史が移り、鬼塚はファーストへ。

 ファーストの諸角が、シニア時代の本来のポジションであるショートへ入る。

 つまりキャッチャーボックスに入っているのは大介だ。


 ほんの少しだが、練習はしていたのを知っている。

 しかしそれはほとんどがブルペンの中で、あとは牽制球でアウトにすることを想定した、奇策の中の一つの手段だ。一試合に一度だけ使うような、そんな手だ。

 公式戦はもちろん、練習試合でも試されたこともない。

「いくらなんでも……」

 瑞希にさえ、無茶ではないかと思えた。

「大丈夫」

「お兄ちゃんと大介君だよ?」

 双子の信頼は厚い。


 直史と大介。

 確かにこの二人の名前を並べると、どうにかなるのかもと思ってしまう。

「ねえ、でもそれなら最初は武史で、ランナーが出たら直史とかはダメなの?」

 イリヤの質問に、野球部員は首を傾げる。

「一つは、同一イニングに一度マウンドを降りたピッチャーは、その回の間はもう一度マウンドに上がるか、退くしかないからだと思いますけど」

 ピッチャー→サード→ピッチャーは大丈夫。

 ピッチャー→サード→ピッチャー→サードはダメというものだ。

「タケが頭からピッチャーだと、ナオ先輩がダメでもタケがピッチャーに戻って、それでもダメでやっぱりナオ先輩ってするとタケがベンチになるしかないから、回の頭から交代したんだと思います」

「へえ? キャッチャーとかには制限はないの?」

「他のポジションはなかったはず」


 とにかく白富東は、意表を突くことには成功した。

 それに直史の投球練習を使って、大介に実際のマウンドからのボールを捕ってもらうことも出来る。

(基礎だけでもやっといて良かった)

 キャッチングする大介の姿は、それなりに様になっていた。

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