第56話 兄より優れた弟はいない
佐藤武史の野球に関する自己評価は、兄である直史以上に、低い。
なぜこの兄弟はそこまで自分の能力を低く見るのか、本当の意味で才能のないジンなどからすると不思議である。
もしジンにもう少しのバッティングセンスがあれば、プロを目指していたかもしれない。
少なくとも身体能力と、速いボールが投げられるという二つの才能は、武史には十二分に備わっている。
そして野球の戦術理解にも素早く適応し、そこそこ深い部分も応用出来る。単純に言えば、頭がいい。
自己最速を更新する154kmを記録した武史は、五回までノーヒットピッチングを続けている。
「ほんと、本番につえーな、お前」
鬼塚の呆れたような言葉にも、武史はなんとも言えない。
あまり意識したことはないが、武史は確かに本番には強い。
バスケをやっていた時期も、頭の中で描いたプレイを、そのまま肉体で表現できた。試合で、いきなり。
「まあ、兄貴とかに比べたらあれだけど、間近で色々見ていれば、自分の動きも想像しやすいって言うか」
ベンチにいる間も、武史は相手の守備陣の様子などをしっかりと見ている。
鬼塚もそれを見習って、近藤のピッチングに目を移した。
優れた競技者というのは、まず目がいい。
視力がどうこうではなく、動きを正確にトレースするのだ。
見て学ぶという言葉がある通り、観察力のある人間は、そこから正しい動きを知る。
体を使うのは、また脳の違う一部の機能である。
ぽつぽつとヒットは出るのだが、ここまでの得点に結びついたのは下位打線で犠打とセーフティスクイズを重ねた一点だけ。
練習試合でも思ったことだが、近藤のピッチングは相手の得点を、平均的にロースコアに抑えるタイプのものだ。
キャッチャーの土方のサインに一切首を振ることなく、迷いなく投げられる球は、重い。
三打席目のアレクがバッターボックスに入り、鬼塚もバットを持ってネクストバッターサークルに向かう。
(相手のピッチャーとの相性から考えると、倉田四番で正解だと思ったんだけどなあ)
今日の武史は五番に入っていて、最初にホームを踏んだのも武史である。
倉田がパワーで持っていこうとしてアウトになり、打線がつながっていかない。
いくら重い球と言っても砲丸ではあるまいし、振り抜けばそれなりに飛ぶ。
しかし倉田のフルスイングは、浅い外野フライで終わっている。
それに対して武史はバットを合わせて外野の前に飛ばし、そこからつないで泥臭く一点を取った。
白富東の上位打線は長打力と高打率を兼ね備えているが、下位打線は下位打線でそういった得点が出来る。
それが先制点を取ったのだから、今度は上位で点を取るべきだろう。
(大介さんまでに二塁まで進めておけば、まずもう一点は取れるだろうし)
今日の自分の出来なら、おそらく二点あればどうにかなるだろう。
(真田のやつ……)
比べるべくもない兄や大介と違い、大阪光陰の真田と自分には、どれぐらいの差があるのか。
武史は少しだけだが、野球への執着を持ち始めている。
深めに守っていたサード方向、アレクの打球はベースに当たってファールグラウンドにてんてんと転がっていく。
ベンチ際まで追いかけていったが、それを捕球した時にはもう、アレクは二塁にまで到達していた。
「アレクの足だったら、バントでセーフになってたろうに」
呟きながら大介はネクストバッターサークルに入る。
今日の最初の打席は単打、二打席目にはファールフライのアウトという大介である。
三打席目、鬼塚は打ったが浅いレフトフライで、アレクでもタッチアップの不可能な場所だ。
大介に対しては、外野は深めに守る。なるほど一点は仕方がないという考えか。
倉田は一打席目も二打席目も打ち上げていて、近藤とはどうも相性が悪いようだ。
ならば歩かせて倉田と勝負でもいいと思うのだが、早大付属のバッテリーは勝負を選んできた。
(状況に応じたバッティングか)
一打席目は試しに打ってみてヒットになったが、後がつながらなくて無得点であった。
二打席目もランナーがいないので無造作に打ってみたが、確かに重くてファールフライでアウトになった。
本気で打てば、おそらくスタンドまで届く。
ライトに引っ張るか、レフトに角度をつければ。だが、ここでホームランを狙う意味があるか。
せっかく勝負にきてくれる相手である。
ここは本気で破壊しに行くべきだと本能は言うが、理性はまず一点と告げている。
ミートに徹するなら、近藤のボールはそれほど怖くない。
三球目のアウトローにバットを合わせて、サードの頭上を抜いた。
早くスタートを切っていたアレクは、ホームにまで滑り込む。
クロスプレイになる直前で、その手がホームを叩いた。
追加点は奪われたが、早大付属はまだ慌ててはいない。
150km左腕を明確に攻略する手段などないが、バットに当てられないことはない。
「フォーシームを狙ってまず塁に出る。そこからは送って、あとは内野を抜くことを心がける」
片森の指示もあまりない。
手元で動くムービング系は、打ってもゴロになる可能性が高い。
主にショート方面に打たせるリードをしているので、大介の守備範囲内でアウトにしやすい。
「下手に合わせるよりも、振り切った方がいいんだな」
近藤は頷いているが、山口が指摘する。
「ヒットが出れば継投されるかもしれないがな」
左の本格派の後に、右の技巧派。
一回戦ではらしくないピッチングを見せていたが、結果は同じぐらいひどい。
上杉勝也のような人間をやめたボールならばともかく、変化球主体ならもっと四球が出ても良さそうだろうに。
直史自身も勘違いしているところがあるが、変化球というのはボール半分をコントロール出来たりはしないのだ。
指先の感覚。スルーを投げるために必要なこれが、実は最大の武器なのである。
だがそれ以前の話である。
「ヒットが出ないぞ?」
ここまで粘って四球を二つ選んだが、武史は基本的にゾーンにそのまま無造作に放り込んでくる。
手元で微妙な変化をするので、カットしようとして空振りすることが多い。
ど真ん中にきても、狙っていないと空振りする。
元からただの150kmなら、目を慣らす程度にちゃんと打っている早大付属なのである。
緩急の幅がさほどないので、基本は速い球に合わせて振れば、打てるはずなのだ。
しかし実際にはタイミングが合わない。
(なんだ?)
三打席目の山口が、当てるので精一杯である。
(兄と岩崎のダブルエースと言われてるが……)
去年のピッチングと比べても、明らかに何かがおかしい。
いや、直接対戦したから、ようやくそれが分かるのか?
六回を終了して、佐藤武史、ノーヒットノーラン継続中である。
おかしい。
球速自体が上がっているわけではない。それは当たり前だ。
表示板を信じるならば、154kmを更新していない。
しかし試合の終盤で、まだ球威が衰えないなどあるのだろうか?
体力に優れた近藤でさえ、七回からはやや球威が落ちてきた。
そこを乗り越えるために、カーブで緩急を使って打ち取っている。
佐藤武史は、球速が落ちてないどころか、体感としては上がってきている。
どういうことだ?
八回が終わる。
九回は一番の沖田からの打順であるが、いまだにノーヒット。
せっかく大介を大飛球でアウトにしとめたのに、二点差のままで攻略の隙が見えてこない。
おかしい。
体力バカで球威が落ちないというならまだ分かるが、終盤でむしろ速くなっていると感じる。
その体感は皆に共通しているのに、球速に変化はない。
片森はその理由を、頭の中ではいくつかの可能性から導き出していた。
しかし実際がどうなのかは、機械の計測を見ないと分からないだろう。
沖田が三振。これで14個目。
山口がファーストゴロ。ツーアウト。
一回戦で上杉がノーヒットノーランを達成し、史上初の兄弟での達成という、おかしな記録は出来た。
しかし21世紀枠と違って、自分たちがそれを、しかも年下のピッチャーにやられるのはいけない。
さすがに余裕はなくなり、三番の土方は食らいつく。
インコースに切れ込んできたツーシームを、外野へと打ち上げた。
レフトは最初後退し、それから慌てて前進してくる。
一度グラブに入ってから転がり落ちた球はすぐに確保したが、土方は二塁に到達していた。
記録は白富東には珍しい明らかなエラー。まだノーヒットノーランは継続中である。
しかしここで早大付属の打席に立つのは、四番の近藤である。
キャプテンで、エースで、四番。
打率こそやや落ちるが、長打力は高い。
一発出れば同点である。
最後の一人を打ち取ってノーヒットノーラン達成か、それとも奇跡の同点ホームランが出るのか。
「奇跡は起きない。起こさせない」
シーナはトップをねらうべく決断する。
白富東、非情のピッチャー交代である。
ベンチから出てきた兄の姿を見て、正直武史はほっとした。
サードに入るのではなく、今日はこのままベンチである。
交代は間違いではない。
フライアウトと思った武史が落球で思わずしゃがみこんでしまったのを、ちゃんとベンチは見ていた。
あれはけっこう、ピッチャーは集中力が切れるものである。
「おつかれ」
「あ~、あと一人だったのに」
「まあ次は近藤だしな」
ベンチに引っ込む武史を見て、一部の客席から罵倒の声が飛ぶ。
「ごらぁっ! 何考えとんのじゃ!」
「まだノーヒットノーランやぞ! ちゃんとスコア見えてるんか!」
「戻れ! マウンド戻れ!」
だが正式にアナウンスされると、あ~、と長い溜め息をつくしかない。
しかしすぐにまたブーイングをしだした、今度は先ほどよりもひどい。
「こらあっ! 敬遠してどうするんじゃ! 勝負せんか! このどアホが!」
「ボール球投げるためにチバラギから来たんか!」
「何考えとるんじゃ佐藤!」
近藤を空いている一塁に敬遠し、五番と勝負である。
「ごうるぁっ! 打てよ! 絶対打てよ!」
「ホームラン打ってサヨナラしたれ!」
人気のある白富日東であっても、こういうことをやってはさすがに野次が飛ぶというものである。
相手の同点ランナーを一塁に送るのだから、リスクが高い作戦だと思ってくれないものだろうか。
まあ甲子園のお客さんのワガママ具合には、そろそろ慣れているし、慣れていなくても投げるのが直史なので問題はない。
ジンは調子に乗って土方が三塁に盗塁しないかを見張っている。
近藤を敬遠されたことは、早大付属にとっては意外なことである。わざわざピッチャーを代えてまで。
もっとも同じ敬遠でも、武史がすれば失投しかねない。
集中力を失ったピッチャーというのは危険なのである。
バッテリーは早大付属の底力を、全く甘く見てなどいない。
普通ならばこれはありえない。確かに近藤がホームランを打っていたら、同点になっていた。
しかしこれで、次の打者がホームランを打てば、サヨナラになってしまう。長打でも同点だ。
だが白富東にブーイングが起こるのと同じぐらいの力で、五番にもプレッシャーがかかる。
近藤が打ってくれれば俺も打つ。それぐらいの気迫であったのが、今はただプレッシャーに耐えるしかない。
こんなメンタルで打てるはずがない。
だからと言ってこの打順では、代打の心構えも出来ていない。
ピッチャーがプレッシャーと野次に負けないのであれば、この作戦は間違いなく有効である。
そして直史は夏の甲子園でパーフェクトをやった人間だ。
世界大会もまた違った意味でプレッシャーはあり、それに動揺することは全くなかった。
(全く、バカが騒がしいことだな)
率直に言えば、それほどピッチャーという立場でもプレッシャーを感じない武史であるが、あの場面では集中力が切れていた。
直史も緊急登板だけに、投球練習だけでなく、ボール球も使ってメカニックの微調整が必要だったのだ。
直史はボール球を三回振らせて三振でアウトを奪った。
元々肩を作らずにリリーフした時から、ボール球の変化球を振らせることしか考えていなかった。
それで四球になっても、次のバッターと勝負すればいいだけであると、直史は割り切っていたのだ。
甲子園史上初の、兄弟継投によるノーヒットノーラン。
結局のところ観客は、非常に珍しいものを見る歴史の生き証人となったのである。
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