第52話 選手宣誓
開会式前の甲子園球場の公式練習時間は、わずかに30分である。
とは言っても既に三度目、新二年にとっても二度目ともなれば、もはや慣れたものとも言える。
だが、彼女にとっては違う。
「う~ん……」
ユニフォームに身を包み、グランウドを堂々と歩くシーナは、甲子園の空気を肺一杯に入れる。
「やっぱ風景が違うね」
「客が入ったらまた違うけどな。ノック頼むぜ」
「任せとけ」
シーナが監督枠になったことによって、スコアラーを兼ねたマネージャーとしては、文歌がベンチに入っている。
ギャルがベンチに入っているとして、これまた一部では話題になったものであるが、白富東にとってはもはや慣れたものである。
しかし観客はいなくても、既にマークして記事を書くつもりの記者たちにとっては、慣れたとかで済ませてしまっていいものではない。
去年のセンバツと夏、史上初の女性監督として、セイバーは甲子園のベンチに入った。
だが野球技能においては素人の彼女は、ベンチを数歩出るところまでしかグラウンドには入っていない。
シーナは違う。
女生徒がそのまま監督として、指揮を執るしノックを打つ。
これが写真栄えするのは当然のことである。
「上手いな」
「シニア全国レベルのチームでレギュラーだったからな」
「来年度から始まる女子参加の規定変更、初めて甲子園に立つのは彼女かな?」
純粋な野球ファンでなくても構わない。
ある意味シーナは上杉や大介でさえ不可能であった層にまで、野球というスポーツのファンを増やしてくれるかもしれない。
既にその兆候はあるのだが……色々と問題もある。
「身長と体重のデータってあるんだっけ?」
「選手になったらあるけど、自己申告でしょ」
しばらくノックを打っていたシーナは、今度はセカンドと外野の位置でノックを受ける立場にチェンジした。
ジンのボールを捕球して、ファーストや中継にまで投げる。
「元はどこのポジションだって?」
「さあ」
「でも内野じゃないか。セカンドだろ」
「確かにグラブさばきが上手いな」
シーナはグランドの土と、芝の感触を確かめる。
広い。
昔に比べれば狭くなったとも言われているが、ファールグラウンドの余裕などは、やはり平均的な球場の比ではない。
それに浜風だ。ホームランを出にくくする風が、今日もそれなりに吹いている。
(大介ってどうやって場外まで打ったわけ?)
男子のパワーには確かに驚かされるシーナであるが、大介の場合は男子だからとかいうレベルの話ではない。
大介が打って以降、プロ野球でも甲子園で積極的にホームランを打とうとするバッターは多かったが、三振が増えるばかりであった。
金属バットの恩恵があったとは言え、大介でもあれ一本しか打っていない。
普通の球場の場外ホームランはたくさんあるが。
守備練習にいそしむチームメンバーを尻目に、直史は外野のファールグラウンドでストレッチなどをしていた。
直史は個人的には、夏は嫌いだ。冬も嫌いだ。つまり過ごしにくい季節が嫌いだ。
だが、野球をやるなら夏の方が調子はいい。
夏の大会とそれに続く季節のワールドカップ、彼は一本のヒットも打たれていなかった。
その理由の一つに、直史は寒い日の投球が苦手ということがある。
指先の感触で変化球を操る直史は、寒くなるとその微妙な感覚が狂う。
また同じような理由で、雨の日も苦手だ。湿る程度ならばむしろ有利でさえあるのだが、体温を奪っていくほどのものは我慢できない。
長期の天候予報では、あまり雨の多い日はなさそうだが、もしも降るなら先発は岩崎か武史に交代した方がいいだろう。
(本当なら継投していくのが一番なんだろうけど、それだとスカウトの評価がなあ)
自分はもういいのだが、岩崎の評価を上げるためには、この大会でも一試合は完投させておきたい。
夏に比べると消耗の少ない春の方が、そのためにはいいだろう。
しかし球速の出るのは夏なので、そちらでもある程度は投げる必要がある。
直史はもう、満たされている。
プロで食べていこうとは思っていない。自分のような変化球投手は、どうしても研究されれば打たれると思うからだ。
だからやっていくのも大学までで、あとは日曜日の趣味でいいだろうと思っている。
そして男の子が生まれたら、キャッチボールぐらいは教えてもいいかもしれない。
(俺に似ても瑞希に似ても、そんなに運動神経抜群とはいかないだろうしなあ)
気が早すぎる。それに叔母に似たらどうするのだ?
直史に比べると、大介はまだ飢えている。
夏で食うべきものは全て食ったと思っていたが、また新たな獲物が出てきた。
プロを考えるのは、それを全部食い尽くしてからだ。
(瑞雲、準決勝まで上がって来い)
完調の坂本から打ってこそ、価値がある。
そして最初から飢えてない者もいる。
(思えば遠くに来たもんだなあ)
のんびりと武史はブルペンで投げ込みをしているが、軽く投げているのに145kmを超えている。
武史はいまだに、野球よりもバスケの方が好きである。
色々とマスコミからはプロへの関心などを聞かれるのだが、別に好きな球団もない。強いて言えば地元の千葉は応援しているし、上杉はすごいと思う。
ただ世界最高レベルが既に身内にいるだけに、プロへの憧れなども全く湧かないのだ。
素質的には、プロでも充分に通用するはずだ。
まだ新二年生であるので、このままあと一年成長すれば、高校野球史上最強の左腕になる可能性すらある。
だが、特にそこまでの興味がない。ある意味直史以上に、野球部体質ではないのだ。
ただそれでも、意識する選手はいる。
大阪光陰の真田。自分と同じ年齢で、兄の直史と投げあった左腕。
秋は調子が悪かったようだが、一年の夏であの投球というのは、尋常ではなかった。
坂本も同じ学年の左腕であるが、入学が一年遅れているので、対決するのは今年が最後になる。
(来年かあ。う~ん、モトがいるしアレクと俺に、鬼塚四番でまあ、甲子園に行けるか? あ、淳が入ってくるか。ピッチャーは足りてるな)
望めばいつでも、プロへの扉は開かれている。
天賦の素質を持ちながら、彼はいまだに目覚めてはいない。
開会式がやってきた。
つまり選手宣誓の日である。
一生に一度のチャンスが向こうからやってきたとも言えるが、別に望んでもいなかったチャンスである。
(しかも今年、お客さん多いよ~!)
ジンはプレッシャーに弱いタイプではないが、強心臓でも無頓着でもない。開き直るにはキャッチャーというポジションは相応しくない。
行進する白富東に、地元以上の声援が届けられる。
「大介~!」
「打てよ~! 打てよ~! 打てよ~!」
「佐藤~!」
「お前は打たせるなよ~!」
「なんかこいつら、俺らの入場行進見るためにやってきたのかよ」
シリアス顔を維持できず笑う大介であるが、おそらくそれは、ある程度正しい。
「一試合目がいきなり桜島だからな。また夏みたいな試合期待してるんだろ。それに二試合目は地元の理聖舎と瑞雲だし」
直史は冷静である。彼は、一人この後も残って、第二試合までは見るつもりだ。
理聖舎は大阪で大阪光陰と決勝を争うことが最も多いチームだ。白富東も前の編成だが戦ったことはある。
それに大阪光陰と違って、基本全国からではなく地元の選手でチームを作る。地元の声援が大きいであろうあそこを相手に、余裕がある試合展開とはならないだろう。
坂本を見極めたい。
四つの島の中では、一番の地獄とも言えそうなあそこから勝ちあがってくるなら、準決勝は決勝以上の激戦となるかもしれない。
坂本はある意味では、直史の高校野球生活において、初めて強烈に意識した選手かもしれない。
全32チームが整列する。
三里をはじめ、初出場のチームもある。瑞雲も明倫館もそうだ。
そのくせ名門強豪校もあり、まあ言えるのは21世紀枠以外は、どこも強いということである。
そんな中で、選手宣誓が当たった、最高に運の悪いキャプテンが、宣誓台へ上がる。
はっきり言って顔色が悪い。一応アドバイスなども受けながら考えたのだが、大会初日の試合でなくて良かったと言える。
甲子園に来るようなチームのキャプテンは、マネージャータイプでない限り、おおよそジンよりも体格がいい。
選手名鑑で見たところ、ジンより体重の軽いキャプテンは三人しかいなかった。うち二人は背番号が大きいベンチ。
唯一のスタメンが星である。
ごくりと喉を鳴らして、ジンはマイクに向かう。
「―― 宣誓! 我々選手一同は!
―― この野球という多くの道具、人数、場所を必要とする高度なスポーツを楽しめる環境に感謝し
―― この甲子園という最も伝統ある球場で、この場に立てなかった全ての選手たちを忘れずに
―― ただ励むのではなく、ただ懸命になるのでもなく
―― 多くの観客の方々が、単に暇つぶし以上のものになったと思えるように
―― 全身全霊、全ての習得した技術を発揮し、どのような試合にあっても
―― 必ず、最後まで、優勝目指して、戦い抜くことを誓います!
―― 選手代表! 白富東高校! 大田仁!」
それは事実上の優勝宣言であった。
全てのチームが、甲子園での優勝を目指しているわけではない。
むしろ甲子園の土を踏めた時点で、それに満足してしまっている者もいただろう。
どうせ大阪光陰や白富東なんかと当たったら勝てっこない。
けれど精一杯やろう。楽しもう。全力を出そう。
そう、これは高校野球なのだから。
そんな思惑に冷水をぶっかけるような選手宣誓であった。
励むだけでも、懸命になるだけでもない。
どのような試合にあっても、どのような相手であっても、優勝を目指す。
そんなことを言えるのは、大田仁よ、お前だけだ。
史上最もヤバイと言われる選手宣誓であった。
白富東高校野球部は、勝利至上主義ではない。
だが勝利を目指さないならば、それはそもそもスポーツマンシップに反する。
誰が相手でも、どんな状況でも、俺たちは最後まで勝つことを、つまり優勝を目指す。
競技においてスポーツマンシップを完全に発揮するということは、絶対に優勝を目指すということでもあるのだ。
やばい学校に入ってしまった、と千葉県でテレビを見る赤尾と青木は思った。
佐藤家でそれを見る淳は不敵に笑った。
トニーはその頃秋葉原にいた。
甲子園にいたチームの中で、参加出場だとのんびり考えていた一部の人間以外は、全員が白富東を意識した。
「あ~、これで一回戦負けなんかしたら黒歴史だな!」
魂の抜けたような笑いのジンであるが、よくもまああそこまで開き直ったものである。
退場していった選手たちの中で、当然ながらジンはマスコミの取材攻勢を受けるのであった。
三月下旬の甲子園球場は、まだそれなりに寒い。
上着を着て帽子をかぶった直史は、観客にまぎれてスタンドにいた。
さすがにバックネット裏は取れない。高い場所から、守備陣全体を眺める。
第一試合は、鹿児島県代表桜島実業と、石川県代表聖稜高校の試合。
想像していた通り、打撃戦となった。
そして打撃戦になった場合、桜島実業が負ける可能性は低い。
聖稜は井口が一試合に三本という、極めて印象に残るホームランを打ったが、16-10で敗れた。
両軍合わせて九本のホームランが出る乱打戦であった。
ホームランを四本打って負けるチームというのも珍しい。去年の夏の桜島のようである。
(けれど桜島のピッチャー明らかに抜いて投げてたよな。まあ殴り合い上等の打線は変わらずか)
何か隠された意図があったとしても、次の試合には明らかになるだろう。
第二試合は、地元大阪府代表理聖舎高校と、高知県代表瑞雲高校の試合。
桜島が盛り上げた観客の熱気は、春にもかかわらず熱いものがある。
大阪光陰が全国から選手を集めるのと違い、基本的に理聖舎は地元の選手だけでチームを作る。
それでも強いチームが出来るのだから、大阪の選手層は厚いと言えるだろう。
理聖舎人気の中で、第二試合は始まる。
神宮という全国大会は経験しているとは言え、甲子園は初出場の瑞雲である。
さすがに理聖舎有利と直史は思っていたが、瑞雲も只者ではなかった。
この試合も、先発は坂本ではなく中岡。
まだ故障から完治していないのかと思ったが、センターで守備には入っている。
(打順は五番か。まあ大きいの打てるからな)
ただ神宮で打ったような打球なら、甲子園では外野フライになるだろう。
理聖舎は当然堅い守備のチームであるのだが、やはり瑞雲も守備は堅い。
ベンチの監督からの指示はあまり見えず、どうやらキャッチャーの武市が指示を発信しているのは変わらない。
中盤まではどちらも相手に流れをつかませず、チャンスを一つずつものにして1-1で六回を迎える。
この表で一点を追加した瑞雲であったが、その裏に四球とイレギュラーの失策があり、無死満塁となる。
ここでピッチャーが坂本に代わる。
(ここで代えるのか)
無死満塁で、エースに。
自分なら一点は与えるつもりで開き直って投げるが、坂本はどうするか。
四回からはブルペンでキャッチボールをしていたが、肩はまだ出来ていないだろう。
投球練習ではゆったりとした動作からストレートを投げるが、圧倒的な球威というほどではない。
だがラストの一球は速かった。
(それでも140kmぐらいか? まあサウスポーだから、色々としかけられるのかもしれないけど)
満塁のチャンスにバッターボックスに立った打者に対して、第一球。
それは――。
(スローカーブ?)
でもない、ただのスローボール。
泳ぎそうになった体を支えて、バッターはピッチャー返しの打球を放つ。
坂本はそれをグラブで叩き落とした。
拾ってホームへの送球。フォースアウト。
武市から二塁へ。フォースアウト。
そして一塁へ送られて、トリプルプレイ成立。
球場がそれまでとは、全く違う方向に湧き上がった。
×××
本日は2.5にサブエピソードを投下しています。
「オープン戦」です。
気晴らしに書いてる女子野球編が楽しくて困るw
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます