第5話 穏やかな声で

 大介の祖父の病名は、肺炎である。

 肺炎で人が死ぬのか、と言われれば、死ぬ。

 正確には肺炎というのは、病名ではあるがあまりにも広い範囲を包括する。

 看護師でもある大介の母は、肺炎とは言っているが、症状がそれなだけであって、実はもっと重篤な病気だと分かっている。

 医者は身内に対しては、誤魔化しようがないのでちゃんと説明する。

 だから、娘は自分の父が、もはや正確な診断が出来ず、体の抵抗力で症状を抑えきる以外に、生き延びることはないと分かっている。

 そしてこの症状を乗り切るほどの体力が、残っていないことも分かっている。


 長年看護師をやっているから、彼女にも分かっているのだ。

 父は、おそらく一週間以内には死ぬ。


 集中治療室から出て、とりあえず抗生物質を含めた痛み止めの点滴を打っているが、それは症状が改善したからではない。

 集中治療室でやれるだけの治療が、もうないのだ。

 たまたま空いていた個室に入ったが、これはもう助からない患者が死に向かうのを、他の患者に見せないためでもある。

 感染症か、あるいは以前に切除した癌の再発からの合併症か、それも正確には分からない。

 この症状になった時点で、もう手遅れなのだ。


 兆候はあったのか?

 いや、なかった。

 時折痰が絡むような咳をしていたから、それが兆候と言えば兆候なのだが、それはもうずっと続いていたことだし、定期的な検査では問題は見つからなかった。


 医術は、ある時は魔法のように、ひどい症状を改善させる。

 だが責任感のある医者ほど、何度も無力であることを自覚し、やがて鈍感さにも似たタフネスを手に入れる。

 死へと向かう患者と向き合う看護師もそうだ。しかし医者は、自分の家族を執刀することはない。

 どれだけ強くなった人間でも、家族にメスを入れることは耐え難いのだ。

 あるいは自分の家族を何度も執刀し、生かし、あるいは殺してきた医者であれば、それも可能なのかもしれない。




 母と、息子には正直に話した。

 誤魔化す意味がない。気休めを話して、どうにかなるのか。

 覚悟などというのは、言われて決められるものではない。だが長年の経験から、こういったことは知っておかないといけないと分かっていた。

「爺ちゃんダメなの?」

 息子の問いに、正直に答える。

「こういう状態になった人が、また元気なることもあるの。でもそれは、本当に珍しいことだから」


 人間の生命力は驚くべきもので、絶対に死ぬと思っていた人間が、割とあっさりと回復したりする奇跡は、珍しいことではあるが、ないではない。

 しかしそれが、自分の父に都合よく起こるとは、思っていない。


 残された時間を、どう過ごすか。

 大介と祖父の、永遠に続いてほしい短い日々が始まった。




 長年連れ添った夫の世話を、祖母は基本的に一人でやろうとする。

 大介は毎日見舞いにいくのだが、祖母はこちらは自分に任せろと言ってくる。

「野球はいいの?」

「今はこっちの方が大事だろ」

 大介は野球バカだが、優先順位は分かっている。

 あるいはブラックなチームや、ブラックな会社などでは、親の死に目にも遭えないことがあるのかもしれない。

 だが少なくとも大介の仲間に、野球を優先させるバカはいない。

「さっさと治してもらって、また試合を見に来てもらわないとな。甲子園をまだ見せてないんだし」

 可能性が少ないことを知っていても、大介はそう言う。


 希望は捨てない。

 祖父はまだ、死んでいない。

「今度は体調整えて、婆ちゃんと一緒にさ」


 大介は、肉親の死に慣れていない。

 いや、身近な人間の死に慣れていないと言うべきか。

 母は一時期、絶縁状態とまではいかないが、祖父母と疎遠になっていたし、父方とも親しくすることはなかった。

 酸素マスクを付けてベッドに横たわる祖父からは、今までに嗅いだことのない匂いがする。

 それが死の匂いだと、大介は知らない。




 その日も大介は、練習を早めに切り上げると、病院に来ていた。

 いつも面会時間ぎりぎりまでいて、家に帰ると不足分の練習をする。

 自分でも分かる。調子が崩れている。

 けれど、どうしようもない。

 大介はこういう状態になったことがない。

 なったことがないから、対処法も分からない。

 誰にでもある最初の一度。大介にとっては、これがそれだ。


 日々、ドアの前で立ち止まる。

 見る間に衰えていく祖父。呼吸が弱く、それなのに胸を大きく上下させる。


 苦しんでいる。

 何も出来ない。

 ドアを開けるのが怖い。それが、この数日。


 だがこの日は違った。

 ドアの向こうから聞こえるのは、かすかな歌声。

(え……)

 大介はそっとドアを開ける。




 祖父のベッドの隣には、いつも通りに祖母がついている。

 そしてベッドの足元の方に立って、双子が歌っていた。


 これは『暁の歌』だ。イリヤが双子のために作曲した、最初の歌。

 今日で人生が終わるとしたら、今から何をするだろう。

 伝えられなかった言葉、果たしていない約束、残される者へ何を残すか。

 それがとてもゆったりと、静かに歌われている。


 本来ならどこか、荘厳なところもあり、哀切に満ちた歌である。

 だがこの時双子が歌うこの歌は、子守唄のように優しい。

 片方が歌い、片方はヴァイオリンで主旋律を奏でながら、時折ハミングする。

 大介はこの空気を壊さないように、ゆっくりとドアを閉めて、歌声に聞き入った。


(こいつら、こんな静かに歌えるのか)

 大介の知る双子は、とにかくパワーに溢れている。

 歌うよりも本当は踊る方が好きで、歌う時も圧倒的に力を込めて、魂を震わせるように歌う。

 あのスタジアムでの熱狂も、大介と双子の張り合いで生まれたようなものだ。


 女は二つの顔を持っている。

 どこかで聞いたような言葉が、大介の頭の中に浮かんだ。




「ご清聴、ありがとうございます」

「本当にねえ、まるでプロみたいねえ」

 プロであることを知らない祖母は、純粋に誉めていた。

 大介のことに気付いていなかった訳ではなく、三人ともこちらを向く。

「大ちゃんもね、お礼を言って。お爺ちゃん、すごく嬉しそうだから」

 おそらく嬉しいのは、祖母もなのだろう。


 歌は魔法である。

 感情を震わせるだけでなく、肉体的な苦痛さえ、麻痺させてしまうことがある。

 少なくともこの二人には、それが可能であるようだった。


 双子はいつも言う。

 自分たちの歌は上手いだけで、凄いところは全然ないと。

 全盛期のイリヤ、あるいはワールドカップのケイティやマイケルなどは、その声が凄まじかった。

 もちろん上手いのは大前提で、その上に何かが乗っかっている。

 大介流の理解で言うなら、速いだけではなく伸びてキレがあるか、すさまじいクセ球のストレートだ。


 確かに双子の声には、そういった声自体に含まれるメッセージを感じることはあまりない。

 イリヤが伴奏したりすれば変わるが、基本的には機械で精密に打ち込んだような、レコーディングで調整したような、綺麗な歌声なのだ。

 だがそれが、ただ穏やかに聞かせるだけなら、これほど意味が変わる。

 ひたすら正確で特徴がなくて、だからこそ聞く側が解釈して、安心して聞ける。

 まるで直史の投球だ。

(似てないけど、兄妹なんだよなあ)


 枕元の椅子に座った大介は、祖父の様子を見る。

 相変わらず苦しそうに呼吸をしているが、口元には笑みを浮かべていた。

「さあお爺ちゃん、次のリクエストをどうぞ!」

 歌は優しく包み込むようだが、こういったところは元気な双子である。

 祖父は、ただ祖母へと視線をやっただけであった。

 だが長年の呼吸で、祖母は求めるものを推測出来る。


「お爺ちゃんはねえ、せっかくだからビートルズが聞きたいみたい」

 ビートルズ。

 洋楽を聞かない人間でも、少しでも音楽を聞く人間であるなら、絶対に知っている名前である。

 名前だけは知っているという人間でも、曲を聞けばなるほどと分かる、世界史上でも五指に入るか、あるいは最も有名なバンドである。なにせ教科書にも載っている。

 音楽は普通に邦楽を聴くだけの大介でも、何曲か名前は知っているのだ。


 基本にして到達点。ビートルズの音楽をそう評するアーティストもいる。

「ビートルズかあ」

「何がいいかなあ」

「お爺ちゃんは、イマジンとかスタンドバイミーが好きなんだけどね」

 祖父母が音楽番組を見ていることはそれなりにあったが、あまり洋楽というのはなかったので、意外な大介である。

「ようし、じゃあビートルズメドレーいきまっしょい!」

「歌うのは順番にね」

 面会時間が終わるまで、優しい穏やかなビートルズが流れ続けた。




 病院からの帰り道、一人だけ付き添いで泊まる祖母を残し、三人は横に並んで歩く。

「……歌って、野球よりすごいよな……」

「いやいやいや」

「ノンノンノン」

 大介の呟きにすぐさま反対する双子である。

「物事には向き不向きがあるからね」

「イリヤがいるならともかく、あたしたち二人より大介君の方が凄いから」

 評価基準がないので、そもそも比べられるものではない。


 だが、向き不向きは確かにあるのだ。

 大介の力は人々を勇気付けるものかもしれないが、穏やかに安らかにする才能ではない。

 音楽にはその両方の力がある。そういう意味では、音楽の方が汎用性があると言うのは正しいだろう。


「爺ちゃんが元気になれたら、お前らのおかげだな」

 そう言う大介の言葉の中に、あまりにも軽いものがある。

 自分でもその言葉を信じていないのが、双子にははっきりと分かった。


 しゅばっと大介の進路に立ちふさがる双子。

「人生の最後に死があるのは!」

「そこまでを懸命に生きるため!」

「――って、イリヤが歌詞にしてた」

「……人の爺さんを勝手に殺すな」

 苦笑するしかない大介は双子の真ん中を割るように通り過ぎたが、左右から抱きつかれる。

「大好きだよ」

「あたしたちがいるからね」

 それは歌と同じように、いつもとは違う柔らかな声で――。

 少しだけ大介は、体の力が抜けてしまった。


 どんな人生にも、大切な人を失うことはある。

 それを乗り越えるのに必要なのは、哲学でも経験でも、まやかしの宗教でもない。

 誰かの優しい手ですらなく、男なら黙って一人で歯を食いしばるしかない。


 だが、大介は分かってしまった。

 この二人は自分が辛い時でも、一緒にいてくれるのだろうなと。

 それは確信だった。


 立ち止まった大介は、硬く固めた何かが、とろけていってしまうのを感じる。

 いつものようにぶっきらぼうに、双子を引き剥がす。

「しばらく、爺ちゃんに歌を聞かせてくれるとありがたい」

 それが大介の、他人に甘えるための精一杯の願いだった。


×××


(*´∀`*)双子がようやくヒロインムーブを始めたようです。

……主人公って誰だったっけ?

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