物騒なリーマンと青い高校生

 車は世田谷区に入った。運転席の中田が後数分で自宅に到着する事を告げる。

 背もたれに寄りかかり、深く息を吐いた。背広の内ポケットが震える。

 携帯の画面を見ると公衆電話からの着信。脳内で発信者を絞りつつ、指をスライドさせた。


「……もしもし」

『斎藤さん? 私です』

「お前か」


 お抱えの便からだった。


『今外でしてね。せっかくだから、公衆電話でも使うと思いまして』

「いい心掛けじゃないか」

『ええ。最近は携帯だけ使っていたので、危うく使い方を忘れそうでした』

「……そんな事より、どうだ? 赤沼浩史の方は」

『上々ですよ。思ったよりもすぐに馴染んでくれたようで助かりました。……ただ』

「なんだ?」

『少し斎藤さんの作戦からは外れそうです』

「どのくらい?」

『まぁ、寄り道程度です。その件が終わったら、すぐに本筋に戻りますよ』

「そうか……。何かあったら、すぐに連絡しろ。いいな?」

『分かっていますよ。じゃあそろそろ、十円玉が落ちそうなので』


 電話越しに受話器を戻す音がする。

 俺は携帯をまた背広に戻し、前のめりになった。


「中田」

「どうされました?」

「部隊の連中に言っとけ、もう少し待機せよってな」

「了解しました。……着きますよ」

「おう」


 閑静な住宅街のど真ん中。広い日本家屋の前に黒塗りの高級車が停まる。

 俺は自分のダレスバッグから布で包んだオートマグ拳銃と予備弾倉を中田に渡した。


「預かっといてくれ」


 いつもの言葉。中田も心得ており、無言でダッシュボードに入れる。その中には中田のSIG P220もある。


「それじゃあ、明朝〇七○○にお迎えに上がります」

「ご苦労さん」


 俺は車から降り、車を見送ってから門の敷居を跨いだ。

 無駄に広い庭を抜け、ガラス戸を開けるとエプロンをした妻が出迎えてくれた。


「あなた、お帰りなさい」

「ただいま。……守は?」


 いつも、妻と一緒に出迎えてくれる二歳の息子の名前を出す。


「少し熱があったから、寝かせたわ。今はお爺ちゃんが面倒見てる」


 お爺ちゃん。息子の守からしたらそうだが、入り婿の俺からしたら義理の父親にあたる。

 姿勢は年の割にシャンとしていて、身の回りの事も自分で出来ている。けれど、認知機能が怪しい。


「今日は調子いいのか?」


 表の仕事道具だけが入った鞄を妻に預ける。妻はそれを受け取り、俺の問いに頷いた。


「ええ。しっかり、守の事を認識してたわ」

「なら……よかった」


 俺は靴を脱ぎ、自分の部屋に入った。

 コートをハンガーに掛け、ネクタイを外す。味噌汁の匂いが漂ってくる。

 夕飯の支度をしてくれているのだろう。

 居間に向かうと、義理の父親源一郎が夕刊を読んでいた。

 老眼鏡を光らせながら、彼は俺を見る。


「大輔君。お帰りなさい」

「只今帰りました、義父様」

「今日も遅いね。仕事、忙しいのかい?」

「ああ……。まぁ、そんなところですね」

「“働かざるもの食うべからず”だ。働くことはいいことだ」

「ごもっともで」


 本当に今日は調子がいいようだ。

 ただ、話す事も無い。間が悪くなった頃、妻が味噌汁が入った鍋を持って来た。


「今日は、丁寧に出汁取ってみたの」

「ほう」

「昆布出汁よ」


 味噌汁の具は玉ねぎに豆腐。おかずは筑前煮。

 白米が盛られる。そして、三人で晩飯にあり付こうとした瞬間。


「今日は銀シャリが食べられるんだね」


 源一郎のその声が、食卓の空気を一変させる。


「兵隊さんが頑張ってくれているお陰で、僕達はご飯が食べられます」


 俺は妻と顔を見合わせた。調子がいいはずじゃなかったのか。そう言いたかったが、こればっかりは妻を責められない。

 幼児退行。というよりか、記憶が過去にさかのぼっている。

 彼は今、小学二年生の頃に戻っているのだ。

 医者は、認知症の初期症状の一つだと言っている。

 結婚前は何ともなかったのが、ここ最近になって酷くなった。

 施設に入れようかとは思っているが、この程度では受け入れてもらえないのが実情。


「ミッドウェーで、加賀や赤城が沈んでしまって、大変です」


 小学生が教科書を読み上げる時みたいに、節を大仰に区切って言う。子供ならまだしも、八十過ぎの老人が言うだけでサブいぼが立つ。

 例えそれが義理の父親でも。


「……食べよ」


 妻が俺だけに言う。小さく頷き、俺は味噌汁を啜る。

 テレビも点いていない部屋には、老人の声だけが響いていた。




 教室という空間は異質だ。

 同じ服を着た同世代の男女が同じ事を一斉にする。集団行動だ社会性を養うだの文科省の偉い人は言っていやがるが、俺には奴隷生産過程にしか見えない。

 教師はサラエボ事件の説明をしている。一流大学をなかなかの成績で卒業したと言うのが自慢らしいが、そのくだらない自尊心は生徒には嫌われる要因だ。

 よく見ると個人単位で授業放棄している。

 課題、居眠り、落書き、瞑想。

 かく言う俺も携帯を弄っていた。教師の目を盗みメールを確認する。

 案の定、受信メールフォルダはからのメールでいっぱいだった。

 舌打ちしたくなる。大元が逮捕されたのを知らないくせに、無茶苦茶言いやがって。

 けれど、愛来を守るにはこの山を越えなければならない。

 出来の悪い頭を絞って、俺は考える。

 虚無感が支配する教室から視線を窓の外へ移す。

 丁度、職員棟にフライトジャンパーを着た男と灰色のコートを着た女が入って行くのが見えた。

 私服姿のその二人組に妙な胸騒ぎを覚える。

 ……俺達を探りに来た警察かもしれない。そんなことを一瞬考えたが、その二人は刑事には見えなかった。

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