身元不明の男

 男がヘブンズフラワーの乱用者であると分かってからは早かった。

 男は禁断症状で暴れて荒れ放題の部屋を作りあげた後、錯乱状態のままベランダから飛び降り俺が乗ってた車の上に墜落したというのが、ISS本部調査係とNY市警が導き出した仮設だ。

 禁断症状が現れたのは、乱用者だったのに荒れ放題の部屋から一個も薬の類が見つからなかったり、売人の激減や取り締まりの強化で麻薬を手に入れにくくなった最近のNYでの麻薬事情も絡んでいるに違いない。

 捜査の方向は死んだ男の身元を調べる事にシフトチェンジし、強襲係の俺が首を突っ込める範疇ではなくなったので、俺はオフィスでドクターペッパーの缶を片手に、テレビでやっている男のニュースを眺めていた。

 画面では、観光客が撮影していた映像に少しだけ映っていた墜落の瞬間を繰り返し放映している。

 そして、男の下敷きになった車に乗っていた()の無事と、亡くなった男が薬物乱用者である事が強調されている。


「……ヘブンズフラワー、か」


 あの紫色の錠剤。むせかえる位甘ったるい匂い。

 俺は顔を歪め、どことなく似た匂いのする炭酸飲料を飲んだ。


「似て非なる匂いだ」


 記憶と嗅覚は深く結びついている。というのを、どこかで読んだ。甘い炭酸飲料を飲んで、あのコックの最後を思い出さないのならこの匂いは違う匂いだ。

 その時、デスクに置いてあった携帯が震えた。


『今来れる?』


 シルヴィアからのメッセージ。暇を持て余した奴らが多いオフィスを見渡し。


『行ける』


 と返信する。中身が半分残った缶を持ち、オフィスから出ようとしたところマリアと鉢合わせした。


「どこ行くの?」


 そう聞かれたので。


「シルヴィアの所」


 素直に答えた。


「私も行っていい?」

「いいんじゃないか」

「じゃあ、付いてく」


 二人でエレベーターに乗り、調査係のオフィスがある階で降りる。シルヴィアは自分のデスクでタブレットを弄っていた。


「よう」


 声を掛け、向こうに存在を気付かせる。


「来たわね。……マリアも一緒なんだ。まぁ、そっちの方が都合がいいか」


 そう言って彼女は今まで弄っていたタブレットを、俺達の方に寄こした。

 液晶には、落下男の写真が写っている。しかも、遺体の写真ではなく生前の写真だ。

 レインコートを着ているが、フードを被っていない。そのコートには何かが大量に付着していて、男は微かに笑っているように見える。

 髭の有無や髪の毛の量など、違いはあるが間違いなくあの男だ。

 白黒の写真は防犯カメラ映像の一部を切り取った物で、隅に表示されている日付は十年前。


「十年前?」

「ええ。ボストンで起こったギャング抗争事件の写真。……マリア、覚えてる?」


 マリアは首を傾げた。

 無理もない。十年前じゃ、彼女はまだ中学生だ。

 シルヴィアは俺の方を見たが、俺は肩をすくめた。その時はまだ平凡な日本の大学生だ。異国の地で起きた抗争事件なんて、知る由も無い。


「……概要を説明するわ」


 俺達の記憶に頼ることを諦めたシルヴィアは、パソコンのマウスを動かした。



 2010年6月13日午後4時37分。ボストン市警に119番通報が入る。

 事件現場の近くに住む主婦からの通報だった。

 『近所で銃撃戦が起きている』との旨の通報を受け、市警は現場付近を巡回中だったパトカー二台を向かわせ、特殊部隊に応援要請したが現場に向かったパトカーからの無線連絡が入った。

 『死体だらけです……生存者はいません』

 警官隊が現場に向かうと、先に現場に急行した警官達が呆然と立ち尽くしていたのだ。

 現場は“死屍累々”と表現されている。

 至近距離でサブマシンガンの銃撃を喰らった者。ナイフで開腹された者。顔が倍以上に膨れ上がるまで殴られた者。

 爆発物を使った訳でもないのに、手足が千切れていた者もいるらしい。

 濃い血の臭いは警官達に染みつき、ASD急性ストレス障害の症状を訴える警官も出た。

 市警は付近の防犯カメラ映像から実行犯らしき人物を特定したが、直後捜査は打ち切りに。

 疑問を持つ警官は居たが、殺されたのはゴロツキ。殺し方が異常でも、本腰を入れて真相を知ろうとする人間はいない。次第に市民も警官も事件の記憶が薄れていった。

 ――パソコンに映る事件現場の写真や事件資料を見て、俺は唸るしかなかった。

 喉が渇き、体温でぬるくなり炭酸が抜けてしまったドクペを一気飲みする。

 糖分が脳に回ってくる感覚。気のせいかもしれないが、幾らか頭が冴えた。


「……あの人はそんな事やったんだ」


 マリアが言う。それにシルヴィアが続く。


「そんな事をやった男のはずなのに、その男に関する情報がこれ以外見つからないの」

「……何だって?」


 俺は頭を掻き、目を細めた。

 写真の顔を見る。大した特徴がある顔ではない。眼鏡を掛けている訳でも、目立つ傷跡がある訳でもないから、街ですれ違っても記憶に残るほうが難しい顔だが、身元について何も情報が見つからないなんてあり得るのか。


「名前も、仕事も、家族の有無も分からない。……住んでいたと思われる部屋には偽名で住み、歳も三十代としか分からない。指紋もDNAも警察機関には該当データは無かった」

「……前科も何かの被害者って訳でもない?」

「そう」


 俺の疑問形を彼女は肯定する。

 ……じゃあなんだ、俺が乗ってた車に落ちてきたのはこの世に存在を認めてもらっていない幽霊だったのか。

 くだらない考えが瞬間的に思考を支配した。だが。


「……でも、似たような事例を私は知っている。赤沼も知っているはずよ」


 その発言は、聞き逃せなかった。


「俺が知っている?」

「正確には“経験した”ね」


 冴えている脳は、これまで俺が経験してきた事件の中で敵の正体が詳しく分かっていない事件を即座に思い出した。


「……あの、コックの事件?」


 その時。

 俺の脳裏に、死ぬ間際のコックの顔が思い浮かんだ。

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