11月17日午後6時21分~午後9時32分

 トイレから戻ると、マリアが青ざめた顔して腕を押さえていた。


「どうした?……腕、痛いのか?」

「……大丈夫」

「本当に大丈夫か?」

「……大丈夫って言ってるでしょ」

「……そうか。なんかあったら言えよ」


 座席に座る時、マリアの腕を見た。押さえる手の指の隙間から、微かに朱色の何かが滲み出ていた。

 俺がトイレに行ってた数分間に、何かがあった。朱色のそれは血でその不審な態度は、何かあったと勘繰るには十分な材料だった。だが、何をどう疑えばいい。きっかけが無いと突っ込んだところでしらを切られるだけだ。それに脅されている可能性だってある。

 脅されているのであれば、脅迫者は近くにいるに違いない。下手に動いて脅迫者にバレるのは最悪の展開だ。

 安全の確認の為博士を見ると彼女は窓側を向いていて、規則的に呼吸をしていた。首元に手を当てると、温かく脈もあった。何かあったかもと思っていたので、一安心してすっかり冷えてしまったコーヒーを流し込み、腕を組んで目を瞑った。


『当機にご搭乗のお客様に、機長からお知らせがあります』


 突然流れた機内アナウンスに、思考が断ち切られる。


『え~ご搭乗の皆さま機長のビル・ウォーカーです』


 しゃがれた男の声がスピーカーから流れた。


『当機は、エンジントラブルによりデンバー国際空港に着陸する事になりました』


 乗客がざわめき始める。


『乗り換え便に関しては、空港に着き次第空港職員から案内があるため、安心してください。あと三時間程、お付き合い願います』

「……三時間か」


 俺が腕時計を見て息を吐くと。


「妙だな」


 ハリーが呟いた。身を乗り出し、その問いを聞いた。


「何でだ?」

「考えてみろ、空港を出発してまだ一時間位しか経っていない。そんな中、わざわざ三時間かけて中間にある空港に行くより、引き返した方が近くないか?」

「……言われてみればそうだ」

「間違いなく、何かあるわね……」

「エクスペンダブルズでも待ち受けてるのか?」

「空港での銃撃戦なら、ダイ・ハード2ね」

「そうじゃないだろ……二人共」


 そんな会話の輪に、マリアは入ろうとする素振りを一切見せない。それはまた、俺の彼女に対する不信感を加速させる。


「――マリア、気分悪いの?」


 シルヴィアが心配するが、マリアは生返事しか返さなかった。


「……ねぇ赤沼。あの子と喧嘩でもした?」

「覚えが無い」

「腹でも痛いのかな」


 ハリーはおどけた態度を取ったが、誰も笑わなかった。


「ハリー。マリア」

「ん?」

「……何?」

「席を交換しよう」

「え?」

「どうして急に?」

「ハリー、訳は後で話す」


 マリアは驚き、ハリーは困惑した顔をしている。


「……駄目」

「何故だ?」


 案の定彼女はぐずりだした。


「……とにかく、駄目」

「理由を言ってくれ」

「…………」

「だんまりか?」

「…………」

「お前には悪いが、無理矢理にでも動いてもらう」


 俺のその言葉にマリアは縋る様な目をして訴えかけてきた。


「マリア、俺はお前の相棒だ。相棒だけど、友達じゃない。時には厳しいことも言うさ。……だから頼む。困っている時は、守ってやる」


 微かに目が後ろを見た。

 そして。


「……わかった」


 渋々と言った様子。

 だが。


「……ありがとう」


 俺だけにしか聞こえない程小さな声だった。

 席を移る。俺が博士の隣に移り、その隣にハリーが来る。シルヴィアがマリアの手を握り、飲み物を差し出していた。

 俺はハリーの肩を突くと、後ろに用心して自分の携帯電話の画面を見せた。


<俺がトイレに行ってる間に、マリアに何かあったかもしれん>


 その画面を見ると、ハリーも自分のスマホを見せた。


<何って?>

<脅されたかも>

<誰に?>

<知らん……だが、彼女の視線が微かに後ろに動いた>

<後ろの乗客か?>

<おそらくは>

<そいつだと仮定して、何処の人間だ?>

<それも分からない。少なくともアジア系じゃない>

<なるほど……でも、憶測の方が多い。脅されていると考えるのは、早とちりなんじゃないか?>

<俺の勘違いだとしたら、さっき席替えを申し出た時に君みたいに理由を聞いて来たはずだ。反対しても、俺に理由を聞かなかったのは、ある意味席替えされる理由に心当たりがあるからじゃないか?>

<席替えされる理由……>

<彼女はそこにいた。隣に博士がいる席の近くに座っている人物は、降りる時に高確率で博士に付く可能性が高い。だから彼女は狙われた、そう考えられないか?>

<……まぁ、筋は通っているな>

<だからなるべく、博士とマリアは離したい>

<分かったよ。ここではこのままで、空港に着いたら僕とマリアが急いで荷物を取りに行く、赤沼とシルヴィアはタクシーを確保してくれ>

<それでいこう>


 俺は携帯を仕舞い、空になった紙コップを握り潰した。



『当機はまもなく、デンバー国際空港に着陸いたします。シートベルトをお締めのうえ、出歩かない様にお願い致します』

「そろそろだな」

「博士、起きてください」

「……はい……私、寝てました?」


 寝起きの割には随分とハッキリした声だった。


「ええ、ぐっすりと」

「起こしてくれても良かったのに」

「ぐっすり寝ている人を起こせませんよ」


 窓の外から滑走路の誘導灯の光が見えた。

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