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坂道を下り、幾つか交差点を経由して大通りから一本脇道に入ると、日日新聞の看板が見えてくる。タツヤはブレーキの効きが最近甘くなってきている自転車を何とか店の前の駐輪スペースに滑り込むとスタンドを立ててその場に固定する。既に販売店の名前入りの白いバンは戻ってきていて、中からは楽しげな店主とその娘さんの笑い声が響いていた。
「それが泥棒の正体が自分ちの猫だったっていうんだから、幽霊幽霊騒いでたのも酷い近所迷惑だったって話さ……おう、おかえり」
「あ、はい。配達終わりました」
「タツヤ君、おつかれさん」
がらりと音をさせ引き戸を開けるとタツヤの目に真っ先に飛び込んできたのは長い黒髪を後ろで一つに縛った、大きな黒目が印象的な女性の笑顔だった。軽妙な声の「おつかれさん」は彼の疲労感を一気に消し去ってくれる魔法だ。タツヤにとってアカネはお世話になっている店の一人娘という以上に、自分のことを中学から知る近所のお姉さんのような大切な存在だった。
「タツヤ君、今日、どうだった? 写真、うまくいった?」
「あ、ええ」
途端に浮かび上がる苦笑に、アカネは「またチャンスあるよ」と声を掛けてくれる。
「でも卒業までに何とかブルーアワーのベストショットをプレゼントするって約束したのに、これじゃ」
「その気持ちだけで嬉しいよ。それにね、写真も大事だけど何より毎日新聞をきっちりお客様に配達してくれることにはお父さんだけじゃなく、わたしも本当に感謝してるから。みんながタツヤ君くらいに真面目で熱心だったらって思うもの」
「何言ってんだよ、アカネ。うちの配達員はみんな頑張ってるぞ。人間にミスはつきもんだ。そういうのをカバーするのが俺の仕事なんだからな」
「分かってるわよ、父さん。でもほんと、最初の一年くらいは誤配や不着があったけど、慣れてからは軒数が増えたり家が変わったり、地域変えがあったりしても、よく対応してくれたもの。卒業してもずっといてくれたらって今でも思うし」
卒業、という言葉がタツヤの心に小さな影を落とした。事務所の壁に掛かるカレンダーには三月十四日にしっかりと赤丸がされ、タツヤ君卒業とアカネのやや丸い字で書き込みがされている。
「まだ、明日の朝がありますから。明日こそ絶対に一番のブルーアワーを撮ってみせます」
「ありがとう。でもどんな写真になったとしても、それがわたしにとっては一番だから。それだけは覚えておいてね」
彼女の笑顔に曖昧に
また五分寝過ごした、と感じた目覚めだった。目覚まし時刻のボタンは押されていて、既に時刻は夜中の二時半を回っている。あと五分早く起きられればカメラを準備する余裕があるのにいつもギリギリまで布団に潜り込んでしまう。
枕元に置いてあったジャージに着替えると、ぼんやりとした目をタイマーで点灯した小型テレビへと向ける。毎日同じ内容のテレビショッピングだ。最近は健康食品が多い。新聞の掲載広告も健康か心のケアか、よく分からない開運グッズが載っているだけだ。
折り畳み式の携帯電話を手にして開く。
何故かそこに表示された日付は三月十三日。昨日のものだった。
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