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 タツヤは新聞を配り終え、明るくなりゆく空の下で必死に自転車を漕いで丘の上の交差点にやってくる。ガードレールに自転車を立てかけ、改めて見上げると絶好のブルーアワーだ。世界は青く染め上げられ、朝の澄んだ空気が肺を満たす。ポーチから一眼レフを出すとそっと東の方角へと向ける。山のシルエットから空との境界線が淡くピンクに染まっていく。今だ、とシャッターを切る。

 その感覚に既知感があった。確かにタツヤはブルーアワーに遭遇できた時には必ずここでカメラのシャッターを切っていたけれど、そういう「いつもやっている動作」とは異なる、全く同じ構図、同じブルーアワーの風景を目にしてシャッターボタンを押し下げた、という感覚だ。

 カメラで今撮影した写真を確認する。けれどそこにはレンズカバーを掛けたまま撮ってしまった時のような真っ黒い画像があるだけだった。記録は三月十三日。昨日のものだ。その違和感に携帯電話を取り出して、そちらでも日付を確認する。だが変わらずに三月十三日が表示されている。機械の故障かプログラムのバグのようなものだろうと単純に考えていたのに、それを否定されてしまったようでタツヤは困惑して頭を振る。


 と、自分のものではないシャッター音が聞こえた。交差点の対面でまたあの女性が撮影している。同じ小豆色の帽子を被り、シャツとジーンズという軽装で、今日は三脚を立てて昨日より本格的な撮影を行っているようだった。ただブルーアワーの写真を撮っているというよりは、やはり交差点だけを撮りたいようで、シャッターを切っては撮れたものを確認し、その度に首を傾げている。少しずつ角度を変え、交差点だけを撮っていく姿はカメラを趣味としない人間からしても奇妙なものだろう。


 ――彼女なりの事情があるのかも知れない。


 写真は、特に個人的な趣味のものとして撮る写真は、その人なりのこだわりだから別に綺麗なものを撮ろうとか構図を良くしようだとか、配置を考えるとか、色合いやバランスを見るみたいな、写真の基本としてどうなのかということは関係ない。好きに撮ればいいし、好きなものを撮ればいいのだ。タツヤはアカネに最初に教わったことを思い出して、女性には声を掛けず、そのまま自転車にまたがって交差点から去った。




 販売店に戻ってきて事務室に掛かっていたカレンダーを見ると、同じように三月十四日の卒業式に赤丸が付いたままで、まだタツヤは卒業式を終えていないようだった。


「おう、どうした? ぼーっと新聞見て。何か面白い記事でもあんのか?」

「あ、いえ」


 首からタオルを下げた店長は新聞の日付をにらみつけていたタツヤを見て小首をねじる。


「もう父さんたら、タツヤ君も卒業式を控えてナーバスになってるのよ。それよりどうだった? うまく撮れた?」


 それは昨日と同じ質問だった。アカネの服装も全く同じで、どういう訳か同じ一日をまた繰り返しているようだ。


「なんか、うまく撮れなくて。ちょっとカメラの調子が悪いみたいで」

「え? そうなの? まあわたしのお古だから、それこそ三年前の機種だものね。卒業祝いにプレゼントしてあげたいところだけど」


 彼女の目は店長へと向かったが渋い表情をされてしまう。


「大学生になったらそれこそもっと稼いで自分で一番いいの、買いますよ」

「ごめんね。うちも最近部数が減ってきてて色々大変みたいで」

「おいアカネ。そんなのは昨日今日の話じゃないだろ。俺だって色々考えてヨシダのところに声掛けたりしてるんだ。お前だって大学出てから社会勉強してくるっつったのに、三ヶ月で家に戻ってきて、今何してる? 花嫁修業か?」

「その前に恋人がいません。それに事務のおばさま方にいじめられたって言ったらすぐ帰ってこいってアパート解約したのはそっちでしょ?」


 また始まった、とタツヤは苦笑で事務室を出る。

 この店にはタツヤ以外にも多くのアルバイトや契約社員が勤めている。それぞれ地域や時間帯も異なるので顔を合わせるのは決まった人ばかりなのだが、どういう訳か昨日から一人として見かけない。既に店のバイクや原付きは返却済みで、配達用の新聞の束もほぼ無くなっている。外に出れば朝の空気が路地にあふれ、周辺の家々から朝食の味噌汁や焼き魚の香りが漂ってくる。

 いつもの朝だ。

 そうとしか感じられないのにどこかがおかしい。


「タツヤ君?」


 振り返るとアカネがいた。彼女はその結んだ長い髪の先を揺らしてタツヤの顔をのぞき込むようにすると、いつも向けてくれる穏やかな朝日のような笑顔へと変わる。それは直接見るとまぶしすぎて、だからいつもタツヤは俯くようにして視線をらすと面と向かわないように「何ですか」と返すのだ。


「今日のブルーアワーは残念だったね。でも、また明日があるし、もっと言えば毎日チャンスは巡ってくるから。だから、期待はほどほどにして待ってるよ」


 そうですね、とぼそぼそ答えて、タツヤは自分の自転車にまたがり、地面を蹴った。

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