ブルーアワーの君

凪司工房

 二百三十軒分の新聞を全て配り終え、自転車のハンドルもペダルも驚くほど軽くなっていた。それなのに息を切らせてタツヤがわざわざ遠回りになる丘の上の交差点へとやってくるのは欠かせない日課があったからだ。前夜に雨がさっと降り、空気中の細かなちりが洗い流された後の朝は絶好の機会だった。


 約十四%の坂道を百メートルもぶっ続けでペダルをぎ、小さな一戸建てが並ぶ住宅街の狭い路地を抜けていく。坂は最後の十メートルが一番きつくて、それを何とか乗り越えて振り返ると街の東を囲む山の稜線がシルエットになって見える。ほとんど黒といっていい濃紺の山の上がわずかにオレンジになり、空との境界線はぼんやりと淡いピンクに染まっていく。その上はブルーだ。青が世界を包んでいる。


 ブルーアワー。

 写真愛好家たちにはマジックアワーと呼ばれる特別な時間帯だ。その中でもブルーアワーは日の出と日没時の僅かな間にだけ世界が青く染まる奇跡の時だった。ブルーアワーに撮影した写真は通常の露光環境では決して得られない独特の青に満ちた世界が表現できる。だから一度その魅力を知ってしまうと朝早く、あるいは夕方から夜へと変わる時間帯にカメラと三脚を担いで自分が見つけた絶好のポイントへと足繁く通うことになる。彼にとっては新聞配達を終えて販売店へと戻るその時間帯がちょうどマジックアワーと重なることが多かった。


 タツヤはガードレールに自転車を立てかけると、ポーチからライトブルーの一眼レフのデジカメを取り出し、それを東の空へと向ける。山の稜線とオレンジになりゆく空との境界線、下には夜の残り香のような街並みのぽつりぽつりとしたライトが良い味を出している。電源がオンになり、レンズカバーが開いていることを小窓で確認すると右手の人差し指をシャッターボタンに乗せた。フラッシュは炊かない。ISO感度を低めに設定しシャッターをゆっくり切る。三脚が準備できればベストだけれど流石に配達中ずっと持ち運ぶことはできないから、仕方なくいつも自分の腕と足腰を信じてじっと我慢をしていた。

 何枚かシャッター速度を変えて撮ってみたが、やはりどれも満足のいくものにはならない。

 そのうちにすぐ空は明るみ、ブルーアワーからゴールデンアワーへと移行してしまう。


 と、自分と同じようにカメラを構える女性がいることに気づいた。ちょうど反対側の道、神社から降りてくる方の角に立ち、帽子を目深に被った髪の短い女がその小ぶりな体には似合わない大きなレンズのカメラを構えている。タツヤと同じようにマジックアワーの写真を撮影に来たのだろうか。ただそれにしてはカメラの向きがおかしい。空でも街並みでもなく、明らかにこの交差点だけを撮影していた。それも一枚や二枚ではない。何度も撮ってみては首をかしげ、また撮影し直している。

 ポーチにカメラを仕舞い、自転車を起こしながら、やはり彼女のことが気になり、再びそちらに目線を向けた。まだ二年程度の自分でも何か助けになることがあるかも知れないと考えたからだ。けれど既に彼女の姿はなく、足音も何もないまま、どこかに消えてしまった。

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