走る

あと一回か……。腕時計のような機械に表示された数字を見て男はつぶやく。最後に時間跳躍するなら、いつへ行こう。そもそも今の衰えた自分に時間跳躍できるのだろうか?


その機械による時間跳躍には条件があった。心拍数130bpm以上、移動速度時速27㎞以上。つまりは100mを全力疾走して13秒を切ることである。しかも回数制限があった。


なぜそういう仕様になっているのか?男に時間跳躍装置を渡した人物は、作った者の趣味が走ることだったと言っていたが……。今となっては男に本当のことはわからない。


男は昔から走ることが得意だった。小学校の運動会では必ず一番をとったし、中学生になった時には迷わず陸上部に入り練習を重ね、学年で一番の記録を持っていた。


高校生の頃それが行き詰まりを見せた。高校でも陸上部に入った。期待されていたし、期待に応え、男の学校内ではトップだった。しかし、学校の外にはどれだけ練習しても抜けない相手が山ほどいた。


思い悩んでいたその頃に時間跳躍装置を手にいれたのだが……


何度も時間を巻き戻し練習を重ねたが、結果は全国大会まであと一歩。そこまでしても勝てなかった悔しさと、後味の悪さだけが残った。


その後、男は一生懸命走ることをやめ、急かされるように高校を卒業し、就職し、結婚し、娘が一人できた。


現在に戻る。何かに使えるかもしれないと思い、時間跳躍装置の回数を一回だけ残しておいたのを思い出した男は、装置を手に自室で物思いにふけっていた。ふと、5歳になる娘を思う。娘くらいの年の頃、自分はどんなだったろうか?走ることをはじめていただろうか?男が戻りたい時は決まった。


しかし、久しぶりに真剣に走った男には時間跳躍はできなかった。装置の条件ほど速く走れなくなっていたのだ。そのため、男は走る練習を始めた。妻にはダイエットと言い訳をしたが困惑され、娘には、お父さん楽しそう、と笑われながら走った。


2か月ほど練習しただろうか。なまった身体が引き締まり、走る感覚を思い出した頃、その時は訪れた。


今はもう無い公園。しかし見慣れた公園に息を切らしながら男は立っていた。過去に戻ったのだ。公園には少年が走る練習をしている。昔の自分だ、と男は思った。公園には男と少年のほかには誰もいない。男は呼吸を整えた後少年に話しかける。


「走る練習をしているのかい?」


少年は男を怪しむ様子もなく答えた。


「うん。明日運動会があって、お母さんにカッコいいところを見せたいんだ」

「コツを教えてあげよう。走るの得意なんだ」


少年は目を輝かせながら大きくうなずく。それから一時間ほどだろうか、男にとっては永遠のような一瞬のような時間。男は少年に走る際の姿勢、呼吸法、意気込みなど、教えられるだけの全てを教えた。少年は汗まみれになりながらも笑顔でいっぱいだ。


「走るのって楽しい!」


それを聞いた男の心の中は、走ることをやめてしまった時間への後悔と、少年に教え切った満足がないまぜだった。笑顔とも泣き顔ともとれる表情を浮かべながら、楽しいよな、とつぶやくように言った。


気がつくと男は家の前にいた。家に入ると、妻に帰ってくるのが遅いと怒られた。娘は眠っている。妻はため息交じりに、最近のあなたの真似をして公園でいっぱい走ってたのよ、と言った。男は次の休みには娘にも走り方を教えてやろうと思った。

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