眠らない男

満月も中天に上がりそうな時間、大通りから少し外れた暗い路地を、会社員の上司と部下の二人が歩いている。部下である若い男には仕事の疲れがありありと見えるが、初老に入った上司にはそれがない。


「叔父さん、まだ着かないんですか?」

「仕事と違って我慢が足らないなぁ。おっ、ここだ」


上司が無機質な雑居ビルを指し示す。ビルの入り口に立てかけてある汚い看板によると居酒屋があるようだ。部下は期待外れだという表情をしている。それに気が付いた上司が、まあまあと部下の背中を押し、二人は自動ドアをくぐった。


中に入ると、やる気のなさそうな強面の店員が二人を出迎えた。店員に上司が何やら二言三言耳打ちをすると、急に表情を変えきびきびと二人を個室に案内した。個室に着くと必要以上に丁寧な調子で二人に注文を聞き、氷水をコップに二人分入れて出ていった。机を挟んで二人は座り氷水が入ったコップで乾杯をした後、上司が口を開いた。


「今時の若者に似合わず君は仕事熱心だからね。入社させた私の鼻も高いよ」

「ありがとうございます。叔父さんの教育の賜物です」

「君の昇進が決まった。それで、これからも頑張ってもらおうと良いものが用意してあるんだ」


個室のドアがノックされる。上司は入ってくれと言うと、扉を開けて女が入ってきた。先ほどの店員でないことに違和感を覚える若者を尻目に、上司が女に金を渡す。女は札の枚数を確認した後、バッグからカプセルが数個入った透明なプラスチックのケースを上司に渡した。


「これは睡眠代替剤だよ、君も噂にくらい聞いたことがあるだろう」


上司はケースを若者に自慢げに見せながら言った。部下の若者は不安そうな顔で言った。


「夜、眠らないで済む薬ですよね?規制があって警察や自衛隊とかでしか使われていない……やばくないすか?」

「まあいろいろあるが大したことはないさ。一度使ってみるといい」

「しかし…なにか麻薬みたいに依存症?とか体に悪いってことはないんですか?」

「大丈夫。私も常用している。問題ないよ」


そう言うと上司はケースからカプセルを取り出し、水でカプセルをごくりと飲んだ。上司は、なんともないといった表情を見せ、君も飲みなさいという風にカプセルの入ったケースを部下に手渡す。そうおっしゃるなら……と観念したように部下も薬を飲んだ。


二人が薬を飲み終わるタイミングを見計らったかのように料理と酒が個室に運ばれてくる。酒で改めて乾杯をすると、そういえば……と家族の近況についてや世相のことなどについて互いに語り合った。仲のいい親類だと話は弾むもので、時間はあっという間に過ぎていった。部下がふと腕時計を見るとすでに四時を回っている。


「眠気が全くこないですねえ。こわいなあ」

「朝になればわかるが、体力の前借りということもない。この薬はすごい発明だよ」


しばらくして、会計後二人は店を出た。仕事終わりに深夜飲みをしたとは思えないほど二人とも元気そうに歩いていく。店から少し離れた駐車場に車が停まっているのに、部下は気づいた。自分を見ているような気がして部下は少し気持ち悪かったが、上司に声をかけられるとすぐに車のことは忘れた。


部下が感じた通り二人を見ているものが車の中にいた。無骨で体格のいい中年の刑事と、反対にエリート然とした若い刑事だ。店から出た上司と部下から目を外し、店に目を戻す中年の刑事を見て、若い刑事は言った。


「先輩、今の人たち職質かけとかなくていいんスか?」

「俺たちの狙いはあくまで『眠らない男』だ」


若い刑事の膝の上には『眠らない男』の似顔絵や経歴などの資料がある。それによると、睡眠代替剤の横流しや違法生産施設などを摘発すると必ずと言っていいほどこの男が関係しているらしい。その正体は睡眠代替剤を開発した研究チームの元一員だとか、亡国のスパイだとか様々な説があるがどれも確証はないようだ。


「ホントにいるんスかねえこんなビルに」

「これ以上の情報は今のところないからな。すがるしかあるまいよ」


後輩刑事は、欠伸をすると懐から錠剤を取り出すとコーヒーで飲んだ。その錠剤は、公的に警察に支給された睡眠代替剤である。その様子を見た中年の刑事は大きくため息をついた。若い刑事は余った錠剤を眺めながら言った。


「こんな便利なものを何で規制とかしちゃうんスかねー」

「今この国には国民に広く行き渡らせるだけの薬を作るだけの生産力はない。それにわかりやすく便利なものには必ず利権やらが付いてまわる。そう簡単じゃない」

「利権スか…なーんかやる気出ないなあ」

「気持ちはわからんでもないがな。少なくとも今、公的に規制されている薬物を人々に流しているというだけで『眠らない男』を捕まえるには十分だと俺は思うがね」


それもそっスねと若い刑事は納得し懐に錠剤をしまった。中年の刑事は欠伸をこらえながら車の時計を見た。五時過ぎである。張り込みの交代まであと十四時間である事を考えて、中年刑事は再びため息をついた。


いつの間にか月は沈んでいた。居酒屋のある無機質なビルの屋上から駐車場の車を見下ろす男がいる。その目は月の代わりのように爛々と輝いていた。男の後ろに女が歩いてきた。この女は初老上司と若い部下にに薬を運んだ女だ。


「あなたが出てくるのを待ってるみたいですよ?」


それを聞いた男は、女に向かって歯を見せニヤリと笑う。女は淡々と報告を行った。店の収支、睡眠代替剤の売り上げ、生産量、社会への浸透度、店を取り囲む警察の数などだ。


「いい調子だ。来月には、やっとぐっすり眠れそうだな」

「意外ですね。てっきりあなたは眠る時間などが勿体ないと考えている活動的な方だと思っていましたが……」

「俺は夢を見るのが好きなんだ。起きていても眠っていてもね」


そう言うと男はビルから街を見下ろした。日が昇るところだった。


ひと月後、警察の手により『眠らない男』は捕まった。しかし、その時には睡眠代替剤を多くの人々が使っており、睡眠のない生活に社会は依存し始めていた。この状況を受け政府主導のもと睡眠代替剤の生産と規制緩和は急ピッチで進められた。その後、この国の人々は眠ることがなくなった。

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