第37話――闘う文学少女 12

 水琴は、一旦学校へ戻り、鞄と携帯電話を持って自宅へと帰っていた。愛用のノートパソコンの画面には、自作の小説のファイルが開かれている。だが、キーの上に置かれた水琴の手は一向に動こうとしない。数分間が過ぎ、ふうと息をつくと、水琴は指をキーから離した。

 今日のあの腰帯剣を持った少女は、強かった。氷のような冷静さと、炎のような激しい闘志。思い出すだけでも肌がチリチリする。あんな楽しい戦いは、一体いつ以来だろうか。文芸部が『ただの』文芸部になってから、すでに二年。

 一つ上の先輩たちは、武術の稽古より本を読む方を選んだのだ。自分はそれでも構わないと思っていた。だが、いざ戦いの場に身を置かれたときに感じた、あの歓喜。

 あれは、本を読むことでも、文章を書くことでも得られない快感だった。

「まだ、拳に感触が残ってる……」

 水琴は右の拳を軽く握ったり閉じたりしながら、誰に言うともなく呟いた。

「お父さんが生きていたら、きっと叱られるわね。人を殴るために武道をやらせたんじゃない、って。でも、わたしは戦うわ。それがわたしに求められていることのようだから」

 水琴は握っていた拳をほどくと、ノートパソコンのキーボードに指をのせ直した。

 さっきまで言葉が出てこなかったのが嘘のように、水琴の心の底から言葉が、まるで泉から水が湧き出るように迸っている。

「戦いが刺激になったのかな。何だかこれじゃ、わたしが戦いに飢えてるみたいね」

『そんなことありませんよ、白石先輩』

 頭の中に声が響いてくる。この声は、郁乃だ。

『先輩は、ボクにとっては優しい先輩のままです。どんなに強くたって、あこがれの文学少女です!』

 水琴はそっと眼鏡のつるに右の手で触れ、念じた。

『ありがとう。でも、郁乃ちゃん、もし文芸部を昔のような、文武両道の部活に戻したいって言ったら、賛成してくれる?』

『えっ……。あの……、それ、本気です……か?』

 クスリと忍び笑いを漏らすと、水琴はさらに念じた。

『冗談です。わたしは今の文芸部もとっても気に入ってるの。本に囲まれて、自分でも物語を書いて。だから、心配しないでいいわ』

『は、はいっ!』

 それからしばらく、水琴と郁乃は眼鏡を通して、他愛のないおしゃべりを続けた。

 さっきの出来事がまるで夢の中の出来事だったかのように、水琴の心は安らいでいた。


      ***


「道明寺くんはまだ使えそうかね?」

「はい。彼はまだ諦めてはいないものと思われます」

 深夜の職員室。誰もいないはずのこの時間に、数人の教師が秘密の会合をもっていた。

 その顔には、眼鏡はない。

「道明寺がダメになった場合のことも考えておく必要があるな。換えの駒はあるのか?」

「いざとなれば、副会長の石橋を使えます。彼女は優秀だ」

 一人の教師が、タバコの箱に手を伸ばそうとして、すんでの所で思いとどまった。職員室を含めて、校内は完全に禁煙になっていた。

「おっと、校内は全面禁煙でしたな。喫煙者には厳しい世の中になったものです」

 苦笑いしながら、その教師はタバコの箱をポケットの上から撫でた。

「我々の目的は、眼鏡などという不完全な視力矯正器具を学園から根絶することだ。そして、それは生徒たちの手によって実現されなければならない」

 教師たちは一斉に頷く。それぞれの瞳には、それぞれの視力に合ったコンタクトレンズが装着されている。

「眼鏡から生徒たちを解放し、真の自由を与える。それが我々コンタク党の目的だ。そのために、手段は選ばない」

「手段を選ばない。つまり『アレ』を使うことも辞さないわけですな」

「教育者としては、いささか問題のある行為ではあるがね」

 指摘された若い教師が、肩をすくめてみせる。

「生徒会長を利用して、生徒の自由を踏みにじっている、とでも? そんな事、教師ならば誰でもやっていることですよ。『アレ』を使うのも、所詮はそれと変わりません」

「違いない。我々がやっているのは、教師として当然の行為、ということだ。目的が普通の教師とはちょっとばかり違うがね」

 自嘲気味の笑いがそこここで漏れる。

「ところで、『眼鏡に選ばれし者』の最後の一人に叩きのめされた生徒たちは?」

「私が病院へ運びました。当然例の病院です。抜かりはありません」

 生え際の後退が目立つ教師が、唇の端を歪めながら言う。どうやら本人は笑っているつもりらしいが、とてもそうは見えない。口角がひどく下がっているからだ。

「残してきたバンで?」

「ええ。バンは近くのコインパーキングに停めてあります。領収書はありますから、経費でお願いしますよ?」

「それを決めるのは我々じゃない。上ですよ」

 後退した生え際のあたりを手でぴしゃりと打つと、その教師は再び口元を歪めた。どうやら、苦笑いを浮かべているようだ。

「そうでしたな。我々もまた、一つの駒でしかない。ついつい忘れていましたよ」

 またしても、自嘲的な笑い声が潮のさざめきのようにわきあがった。

「では、道明寺くんには汚名返上のチャンスを与え、同時に換えの駒も用意する。これでよろしいですね? 催眠暗示装置の使用許可は上から出ていますので、今夜にでも……」

 全員が黙って頷いた。

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