第36話――闘う文学少女 11
一五分後、ホットサンドとコーヒーという簡単な食事を持って、百合香が二階へ戻ってきた。明かりを消したままなので、由隆の表情は伺えない。
「明かりは消しておいてくれ!」
部屋の照明のスイッチに手を伸ばした百合香を、鋭い声が制止する。
「……すまない。しばらく明かりを消しておいて欲しいんだ」
由隆はベッドの端に腰掛け、両手で顔を覆っている。泣いているようにも見えたが、息づかいは落ち着いたものだった。
「……四人の眼鏡の戦士が揃ってしまった。白石水琴が最後の一人だったそうだ。僕は責任を問われることになるだろう」
百合香の呼吸が一瞬止まった。手に持ったトレイの上で、コーヒーカップの中身が波紋を立てる。
「当然のことだな。僕は自分に与えられた任務をこなすことが出来なかった。無能な者は淘汰される。世の常だ」
「あなたは無能なんかじゃない……」
震える手でトレイをテーブルの上に置いた百合香は、ベッドの側らに跪き、俯いた由隆の頭を抱きかかえた。
「私が知っています。あなたは決して無能などではない。あなたはまだ終わってなどいない。もし、あなたの役目が終わったなどと言う者があれば、その時はこの私が……」
「僕も、まだ終わらせるつもりはないよ、石橋くん。いざとなったら、奴らを一人残らず学園から追放してやるまでのこと。僕にはその権限がある」
百合香は由隆を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。私が、必ずこの人に勝利をもたらしてみせる。この人を無能だなんて呼ばせない。声に出さずに、百合香は心中で叫んだ。
「私は、全力で会長をサポートします。何なりとご命令ください」
氷のように冷たいその表情の裏には、炎よりも熱い感情が渦巻いていた。
***
由隆の家から徒歩で僅か三分の距離に百合香の住む家がある。
レンタカーのバンは玄関横の駐車場に停めてあった。一台は森林公園の駐車場に置きっぱなしだが、状況が状況だけに仕方ないだろう。玄関の鍵を開け、靴を脱いで家に上がる。
「ただいま」
当然のように、答える者は誰もいない。なぜならば、この家には百合香以外の人間は住んでいないからだ。
小学校六年の冬、百合香の母は由隆の両親と海外で航空機事故に遭った。帰って来たのは、僅かな遺品。遺体は結局見つからなかった。だが、百合香は泣かなかった。葬儀の時も、奥歯をぎゅっと噛みしめて、涙を見せなかった。それは、同じ事故で両親を失った由隆が人前で一切涙を見せなかったからだ。
百合香は父の顔を知らない。でも、由隆は、優しかった両親を一度に亡くした。それなのに、自分の倍悲しいはずなのに、由隆は毅然としている。百合香は子供心に、由隆の支えになりたかった。いつでも、どんなときでも、側に寄り添って彼を支えたかった。その時から、百合香は自分の感情を殺すようになった。
明かりもつけずに、二階にある自室に向かう。窓から差し込んでくる月明かりが、百合香の無表情な相貌をより冷たく見せている。自室についてようやく明かりをつけた百合香は、無造作に制服を脱ぎはじめた。下着姿のまま、着替えを持ってバスルームへ向かう。
ふと、自分の右手を見ると、手の甲には青い痣が出来ていた。
(勝てなかった……)
あの女、白石水琴は『眼鏡に選ばれし者』だった。しかし、自分は『力』に目覚める前の水琴に勝つことが出来なかった。しかも、自分は剣を持ち、水琴は素手だったのだ。
(会長のために勝たねばならなかったのに……)
白石水琴は以前由隆を無下にふっている。それだけで百合香が水琴を憎むには十分すぎる理由になった。だが、力の差はあまりに大きかった。
こんなことでは、あの人に勝利をもたらすことなど出来ないではないか。私はもっともっと強くならなければならないんだ。百合香は唇を噛みしめ、自分の非力さを呪った。
「……風呂は、あとだ」
着替えにと持ってきたスポーツウエアをそのまま着込むと、百合香は玄関へと向かった。運動靴に足を突っ込み、乱暴に紐を結ぶ。手には練習用の剣。
自分の力が足りないのなら、今からでもその力の差を埋める努力をしてやるだけだ。
千回剣を振って届かない相手ならば、万回振って切り刻むまで。
その夜、百合香が自宅に戻ったのは日付が変わってからかなり経ってからだった。
彼女の顔は汗にまみれ、身体を包んでいたスポーツウエアは、まるで川にでも飛び込んだかのようにぐっしょりと濡れていた。そして、身体からは汗が湯気となって、まるで闘気のように揺らめき、立ちのぼっていた。
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