第28話――闘う文学少女 3

 新館の屋上から、部室棟の文芸部室を監視していた百合香は、双眼鏡を覗いたまま左手を胸に当てた。自分の心臓の鼓動が伝わってくる。四月の放課後のまだ少し冷たい風が、火照った頬を撫でるのが心地よい。

「なんでも、叶えてくださると……約束してくれましたね」

 百合香は一言一言を噛みしめるように、そう呟いた。

「……コンタクトレンズだろうと眼鏡だろうと、私には本当はどうでもいいこと。私にとって一番大切なのは……あなたなのです」

 百合香は呟きながらも、ターゲットの監視をやめない。このターゲットが手に入れば、百合香は自分の幸せを手に入れられる。それがささやかなものだったとしても、由隆が百合香に約束してくれたことなのだ。百合香には、それだけでも十分だった。

 一見すると無表情な百合香の瞳が、期待と喜びの色に染まっていた。

 その瞳に、コンタクトレンズは入っていなかった。


      ***


「それじゃあ、今日はそろそろ帰りましょうか」

 二人でお茶を飲み終え、後片付けが終わると、水琴はパソコンの電源を落としながらそう言った。窓の外には、すでに夕闇が迫ってきている。

「はい。しかし、書くのって難しいんですね。ボク、今日もちっとも進みませんでした」

 郁乃があまり埋まっていない原稿用紙に視線を落としながら、ぼやく。

「そんなことないわ。慣れてくればキーワードを元にして想像を膨らませることが出来るようになるから、とにかく最初は色々と書くべきね。もちろん、読む方も大切よ。好きな作家の文章のいい所を吸収できるし、なによりも語彙が増えるから」

「そんなもんですか……。ボクに出来るかなぁ」

「大丈夫。難しく考えずに、自分の心に浮かんだ絵を、言葉にすればいいの。きっと上手くできるようになるわ」

「そうですか……。そうですね、ボク、頑張ってみます!」

 二人揃って部室を出る。水琴が部室の鍵をかける間、郁乃はさっきの水琴の言葉を心中で繰り返していた。

『自分の心に浮かんだ絵を、言葉にすればいいの』

 とても簡単に聞こえるけれど、本当に自分に出来るようになるのだろうか。

「おまたせ。さ、帰りましょう」

 郁乃は水琴の半歩後ろを歩いていた。水琴に見せてもらったショートショートは、どれもとても心に響くお話で、それを書ける水琴は、郁乃にとってすでに単なる部活の先輩を通り越して、一種の崇拝の対象だった。その水琴が、自分にも同じことが出来るようになると言ってくれている。ならば、その言葉を信じたい。いや、信じよう。郁乃は前を歩く水琴の背中を見ながら、心の中で呟いた。

「お母さんにメール打たなきゃ。あ……部室に携帯忘れてきたわ。郁乃ちゃん、先に帰ってていいわよ。わたしちょっと戻って取ってくるから」

 靴を履いて昇降口を出たところで、水琴が自分の携帯がないことに気づいた。

「いえ。ボク、待ってますよ」

「そう? じゃあ、すぐ取ってくるから待っててね」

 水琴は上履きにはきかえると、今歩いてきた廊下を部室の方へ小走りに戻って行った。

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